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インターネット選挙 アーカイブ

2007年04月07日

インターネット上での選挙活動は禁止されていない

 「公職選挙法でインターネット上での選挙活動が禁止されている」という「常識」とも闘ってきた。
 
  ● インターネット選挙になるべきだった選挙 -- あなたも公職選挙法に「違反」してみませんか
  ● インターネット選挙は公職選挙法違反か --「馬」は「自動車」か  
 
 素朴に言って、公職選挙法にインターネットの利用を禁止する規定がある訳がない。
 大昔に作られた法律なのである。その時には、インターネットは存在しなかったのである。
 そんな昔にインターネットの出現を予想して法律を作っていたのか。日本にそんな超能力者がいたならば、法律ではなくてインターネットを作って欲しかった。(苦笑)
 それでは、禁止されているのは何か。規定枚数以上の「文書図画」(葉書・ビラなど)の「頒布」である。この〈「文書図画」の「頒布」〉と〈ホームページの公開〉とは全く違う。

 1 葉書・ビラは物である。「頒布」するとなくなってしまう。(だから、規定枚数が定められているのである。)たくさん「頒布」するにはお金がかかる。それに対して、〈ホームページの公開〉をしても、ホームページがなくなることはない。お金はかからない。
 2 ホームページは、見たい人だけが見るものである。ホームページを見るためには、アドレスをクリックする必要がある。つまり、ホームページを見るのは有権者の自発的行為なのである。それに対して、葉書・ビラは受け身である。望まなくても、ポストに入ってくる。

 このように両者は全く違うのである。
 だから、〈ホームページの公開〉は〈「文書図画」の「頒布」〉ではない。
 次のような比喩が分かりやすい。
 
  〈ホームページの公開は、選挙事務所内の資料室の公開である。〉
 
 選挙事務所内に資料室ある。そこに、自発的に閲覧希望者が来る。いろいろな資料を閲覧して、帰っていく。
 これと同じである。「ホームページ」には、資料を見たい有権者が自発的に見に行っているだけなのだ。このような自発的行為に対して、選管にとやかく言われる筋合いはない。
 詳しくは、上の二つの文章を読んでもらいたい。

 上の二つの文章は、この問題を考えるための定番的な文章になった。
 グーグルで「公職選挙法 インターネット」を検索してみよう。
 
  http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLD,GGLD:2005-15,GGLD:ja&q=%e5%85%ac%e8%81%b7%e9%81%b8%e6%8c%99%e6%b3%95%e3%80%80%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%83%8d%e3%83%83%e3%83%88
 
 二番目に私の文章が出てくる。だから、公職選挙法とインターネットの関係に興味を持った人は、私の文章を目にすることになるだろう。これは定番と言ってよいだろう。
 候補者が、選管に私の文章を示したという話も聞く。インターネット上での選挙活動をおこなう根拠として、選管に私の文章を示したのだ。
 だから、当然、総務省もこの文章の存在について知っているはずである。しかし、総務省からは何の反論もない。
 反論が無い以上、私としては、総務省は私の主張を認めていると解釈するしかない。(反論があるならば、文章を公開するべきであろう。)
 つまり、論理の問題としては、既に結論が出ている。インターネット上での選挙活動は禁止されていない。公職選挙法には、インターネットについての規定は存在しないのだ。

【結論】 インターネット上で選挙活動をしても「摘発」はされない

 選挙活動中もホームページを更新し続けた候補がいる。しかも、選管の警告を無視して、「選挙期間中もHP断固更新!」とホームページ上に明記して選挙活動を続けたのだ。それでも、「摘発」はされなかった。
 門真市議の戸田ひさよし氏である。

  ● 2003年 門真市議選情報
 
 また、前志賀町議の砂川次郎氏も「インターネットの選挙を広めるための選挙中毎日報告ページ」 と明記して、選挙活動を続けている。

  ● たぬきの薬屋さん環境ホームページ
    砂川君の議員報告  新規記載・ニュース

 これは前例である。(私の文章を激しく活用いただき、ありがとうございます。笑)
 選挙期間中に堂々と更新しているホームページが存在したのである。そして、選管も、それを知っていたのである。
 しかし、選管は何もしなかった。これほど明白な事例を「摘発」できなかったのである。
 このような前例がある以上、実際問題として、今後インターネット上での選挙活動を「摘発」することは難しいだろう。
 「戸田氏や砂川氏はよくて、なぜ俺は悪いんだ。」ということになるからである。

 実は、何度か、候補者の方から相談を受けたことがある。「『選管から公職選挙法に抵触している。』と言われている。」と言うのである。
 そのような場合、私は、上の前例をお教えしている。
 候補者の方の判断は様々である。
 しかし、「摘発」された例は一件もない。

 現実の問題としても、既に結論が出ている。

  【結論】 インターネット上で選挙活動をしても「摘発」はされない。

 私が知る限り、インターネット上で選挙活動をおこなって公職選挙法違反で「摘発」された例はない。(もし、「摘発」されたら、大きく報道されるはずである。「摘発」された例は全くないのだろう。)

 (もし、万が一、「摘発」されたとしても、それはそれで楽しいではないか。歴史に残る重要な仕事なのだから。私ならば、ぜひ、「摘発」してもらいのだが。笑)

2007年04月15日

しかし、実現しないインターネット選挙

 私は怒っている。
 いまだに、インターネット選挙が実現していないからである。ほとんどの候補者が「自主規制」しているからである。「インターネット上での選挙活動が公職選挙法で禁止されている」という間違った「常識」に従っているからである。
 かつて私は書いた。

 来年の参議院選挙までに、何とかなるならばまだよい。しかし、このままでは、何年もかかる可能性がある。インターネット選挙が、何年も実現しない可能性がある。
  ● インターネット選挙になるべきだった選挙 -- あなたも公職選挙法に「違反」してみませんか

 日付を見てみる。「2000年7月6日」
 は?
 2000年7月?
 もう、約7年である。
 確かに「何年もかか」っている。
 もしかしたら、「何十年も」と書いておいた方がよかったのかもしれない。(苦笑)
 
 その後も、2001年と2003年に文章を書いた。
 
  ● インターネット選挙は公職選挙法違反か --「馬」は「自動車」か
  ● インターネット上の選挙活動は自由である
 
 これらの文章は定番的な文章になった。
 そして、既にこのブログで書いたように現状は次の通りである。
 
  1 論理的には、総務省・選管はまともに反論できていない。
  2 現実的には、明白なインターネット上で選挙活動を「摘発」できない。
 
 このような現状であるにもかかわらず、インターネット上の選挙活動は一般的になっていない。
 依然として、選管・警察は次のように言い続けている。
 
  「公職選挙法に抵触する。」
 
 そして、ほとんどの候補者が、この根拠の無い「行政指導」に従っているのである。
 この不明朗な状態をどのように解釈するべきだろうか。
 「公職選挙法に抵触する」ならば、「摘発」すればよかったのである。「選挙期間中も毎日更新」と明示して更新を続けたホームページがあったのだから。
 そして、それほど明白な「抵触」を「摘発」できないのに、彼らは他のもっと穏やかなホームページに「警告」を続けている。そして、候補者は、その理不尽な「行政指導」に従っている。なぜ、このような不明朗な状態になっているのか。
 百歩譲って、公職選挙法がインターネット上の選挙活動を禁止していると認めてみよう。しかし、そうだとしても、なぜ、公職選挙法を改正できないのか。もう7年も経っているだ。
 
 私は怒っている。
 しかし、怒るだけではダメである。
 哲学の問題としては、これは大変興味深い事例である。
  
なぜ、世界は変わらないのか。
 
 読者の皆さんも、知っているだろう。世界は、なかなか変わらない。なぜ、世界は変わらないのだろうか。
 この事例を分析することで、この問いに対して答えを出すことが出来るだろう。
 次回、この問題を論ずる。

2007年04月19日

なぜ、世界は変わらないのか

 インターネット選挙が実現しない。
 しかも、もう7年も前から問題になっていたのにもかかわらずである。
 なぜ、インターネット上での選挙活動は実現しないのか。世界は変わらないのか。
 次のような簡単な原理で説明できる。 

 世界は、なるようになったものである。
  
 こう言い切っただけでは、誤解を招くであろう。
 次のように言いかえておこう。
 世界とは、関係者が影響を与え合い安定した一点である。

 安定した一点だから変わらない。
 多くの関係者がお互いに影響を与え合い、ある一点で安定する。一度、安定すると、変化させるのは難しい。
 インターネット選挙の場合、どのように安定しているのか。
 まず、候補者の立場から考えてみよう。なぜ、彼らは選管・警察の「公職選挙法に抵触する。」という「警告」に従うのか。面倒だからである。安全策を採るからである。
 それが原因で当選が無効になったら大変である。「そんな訳はない。」と思っても、念のため従っておく。

 次に、総務省・選管・警察の立場から考えてみよう。選管・警察は、なぜ、「警告」するのか。「警告」に従う候補者がほとんどだからである。
 では、なぜ、「選挙期間中もHP断固更新!」と書いて更新を続けるホームページを「摘発」しないのか。面倒だからである。
 裁判は面倒である。また、裁判になったら、負ける可能性がある。(総務省の法解釈は、一度も司法の判断を受けていないのである。)負けてしまっては、面子が丸つぶれである。法的根拠がない状態で、間違った「行政指導」をしていたことが明らかになってしまう。
 また、実は、彼ら自身もホームページの利用がそれほど悪いとは思っていないのである。警察官は、自分の子供に自信を持って言えるだろうか。

 「お父さんは、選挙期間中にホームページを更新した極悪人を取り調べているんだよ。」

 そんなことは、とても言えない。
 警察も重大事件を摘発したいのである。例えば、買収事件などを摘発したいのである。
 だから、明白なホームページ利用の事例も、見て見ぬふりをするのである。
 そして、彼らは、時間稼ぎをしているのであろう。公職選挙法が改正されるのを待っているのであろう。公職選挙法が改正されれば、問題自体がなくなるのである。

 最後に、国会議員の立場から考えてみよう。なぜ、彼らは公職選挙法を改正しないのか。なぜ、インターネットが選挙に利用できるという規定が明確にある法律にしないのか。実は、現在の議員の多くはインターネットが苦手なのである。選挙においても、インターネットを利用しないで議員になった者が多いのである。法律を改正すると、自分が不利になるのである。だから、そのような法律はあまり作りたくないのである。

 
 こう見てみると、この状態で安定していることが分かるであろう。このような安定した状態だから、7年の長きにわたって変わらなかったのである。
 お互いに影響を及ぼし合い、一点で安定する。
 それが世界である。
 この安定を崩すのは難しい。
 
 では、安定した一点を崩すためには何をしたらいいのか。このような安定は、どのように崩れるのか。
 次回以降、この論点を論ずる。

 
〔補〕

 この文章を書いている時に私が思い浮かべていたのは、山岸俊男氏の理論である。
 山岸氏は、文化を次のように捉える。 

 心と行動のあいだの相互依存関係が生み出す相補均衡
  (『心でっかちな日本人』日本経済新聞社、113ページ)
 
 一般に、私達は、文化の違いを「心」の違いと捉えている。
 それに対して、山岸氏は、文化の違いを「相補均衡」の違いと捉える理論を提唱したのである。
 詳しくは、上の本をお読みいただきたい。

2007年04月20日

【活用事例】インターネット上で政見を動画配信

 緊急速報である。(論述の途中ではあるが。)
 
 門真市議・戸田ひさよし氏は、インターネットを活用する先進的活動を続けてきた。今回の選挙でも、また斬新な活動をしている。
 インターネットによる政見の動画配信である。
 これは、動画を使った最初の事例ではないか。選挙期間中にインターネットを活用して政見を訴えた最初の事例ではないか。画期的な試みである。
 
  ● 戸田ひさよし 個人演説
 
 インターネットならば、戸田氏の政見をじっくり聞くことが出来る。好きな時間に聞くことが出来る。必要ならば、何度でも聞くことが出来る。
 この試みと、選挙カーでの選挙活動を比べて欲しい。街を選挙カーが走ってくる。有権者と候補者は、一瞬ですれちがう。有権者が候補者の話をじっくりと聞くことは不可能である。この状況では、候補者は一番重要な情報を繰り返し言うしかない。つまり、名前を連呼することになる。
 もちろん、候補者が駅前などの一カ所に止まって演説をしていることもある。しかし、駅前にいる有権者は、たいていどこかへ行こうとして歩いているのである。忙しいのである。だから、立ち止まって長時間話を聞くのは難しい。
 その前に、有権者が候補者の演説に偶然出会う確率は非常に低い。
 インターネットによる政見の動画配信では、これらの問題が全て解決されている。
 まさに、「選挙活動は、『本来』インターネット上でするべきもの」なのである。これについては、次の文章で論じた。
 ぜひ、お読みいただきたい。
 
  ● インターネット上の選挙活動は自由である
 
 有権者が、候補者の詳しい政策を知りたいと思っても、既存の「現実」世界では不可能に近かったのである。しかし、インターネットならば、それが出来る。

 戸田氏の政見の動画配信のよって、この事実を確認できた。
 戸田氏だけではなく、候補者全員が政策の動画配信をおこなえばいい。(もちろん、文章でのインターネット公開もすればいい。)
 これで、有権者は、各候補者の政策を知ることが出来る。候補者を比較することが出来る。自分が投票する候補者を選ぶことが出来る。
 
 インターネット上での選挙活動を禁止することは、実は有権者から〈候補者を選ぶ権利〉を奪うことなのである。知らなければ選べない。
 

〔補〕

 戸田ひさよし氏は、選管の「注意」を無視してホームページを「断固活用」中である。
 
  ● 2007年 門真市議選情報
  
 私と戸田氏の心温まる(笑)やり取りなども紹介されている。
 ぜひ、ご注目いただきたい。

2007年04月28日

【重要な前例】選挙戦にインターネットを「断固活用」してトップ当選

 緊急速報である。(ちっとも、「速報」になっていないが。笑)
 論述の途中ではあるが。
 
 前回の文章でご紹介した戸田ひさよし氏がトップ当選を果たした。

  ● 2007年 門真市議選情報

 戸田氏は、「選挙戦にHPを断固活用」と明言して選挙戦を戦った。 
 インターネットの「断固活用」は有権者にはっきりと支持された。次のように考えてみよう。
 

 もし、戸田氏が「選挙戦に買収資金を断固活用」と宣言していたなら、どうだったろうか。
 
 それでは、当選はしなかっただろう。
 しかし、戸田氏は「選挙戦にHPを断固活用」と宣言して、トップ当選した。
 この宣言は有権者に支持された。(少なくとも、多くの有権者が「選挙戦にHPを断固活用」を悪いこととは思わなかったのは確かである。)
 
 総務省・選管の解釈によれば、「選挙戦にHPを断固活用」は「公職選挙法違反」である。当然、選管は「注意」した。
 しかし、戸田氏は選管の「注意」を無視した。そして、トップ当選を果たした。

 これは民意である。
 この事実は重い。

2007年04月29日

議会の〈情報公開〉こそ「変革」の中心

 前回、次のように書いた。 

 インターネットの「断固活用」は有権者にはっきりと支持された。

 さらに言えば、戸田ひさよし氏の「インターネットの『断固活用』」を中心とした〈情報公開〉の姿勢が支持されたのである。
 次のページを見ていただきたい。
 
  ● 議会の日程と内容の記録
 
 このページを見れば、門真市議会の様子が分かる。
 戸田氏は、門真市議会の「議論」の内容を報告し続けているのである。有権者に〈情報公開〉を続けているのである。
 戸田氏は、漫画家・青木雄二氏との対談で次のように言う。 
 青木雄二   市会議員の戸田さん、あんたも大変なことをはじめたなあ。
       この本でもわかるけど、ハッキリ言うて、あんた一人でがん
       ばってもなーんも変わらんと思うよ、門真市は。
 戸田ひさよし ははは。しょっぱなからキツイですね。
 青木雄二   いや、ほんまやで。……〔略〕……あんたとこの議会の議員
       たちもひどいけど、そんな議員らを選んだんは結局、市民なん
       や。
 戸田ひさよし でも、そういう議会の実態が市民に詳しく知らされていない
       中で選挙やっている、という面もありますしね。だから議会や
       議員の実態を情報公開していきながら変革しようと思うんです
       よ。
       (戸田ひさよし『チホー議会の闇の奥』青林工藝舎、8ページ)
 
 これは、まさに卓見である。
 〈情報公開〉は「変革」の中心である。
 「情報」を知らなければ、判断(投票)できない。しかし、現状では、有権者は「情報」を知らない状態で判断を求められている。「実態」が分からないのに、判断を求められている。
 〈情報公開〉が必要である。市民が「実態」をよく知れば、変化が起こるはずである。

 あなたの地域の議員は、議会の〈情報公開〉をおこなっているだろうか。
 たぶん、それほどおこなってはいないであろう。
 

 門真市だけではなく、全国の全ての議会に「戸田ひさよし」議員が必要なのである。

 インターネットでの〈情報公開〉を中心とした活動を意図的におこなう議員が必要なのである。

2007年05月03日

【緊急提案】せっかくだから戸田ひさよし議員を逮捕したらどうか

 選管の「注意」を無視して「HPを断固活用」し、トップ当選を果たした議員がいる。
 そして、「摘発」もされていない。
 門真市議の戸田ひさよし氏である。
 戸田氏のホームページの掲示板を見る。

 門真署や大阪腐警は、宮崎親分〔宮埼学氏〕や諸野脇先生〔私。えっ?私?〕も敵に回して「日本初のHP選挙活用裁判」をやってみるかい? 「グローバルスタンダード」的に国際的事件になると思うよ。

 分かった。
 私も覚悟を決めた。(笑)
 門真署や大阪府警も、せっかくこう言ってもらったんだから、がんばってもらいたい。ぜひ、戸田ひさよし氏を逮捕してもらいたい。そして、世界に日本の異常なインターネット「規制」を知ってもらおう。一緒に歴史に残る判例を作ろう。
 
 堂々かつ過激にインターネットを活用して、トップ当選。
 これは重要な事例である。
 
 これほどの事例を「摘発」できないならば、今後は口を慎んでもらいたい。つまり、どちらかにするべきであろう。
 
 1 戸田ひさよし氏のインターネット活用を公職選挙法違反で「摘発」する。
 2 〈選挙期間中のインターネット活用は公職選挙法違反だ〉という法解釈を改める。(口を慎む。)
 
 現状の総務省・選管・警察の行動は、不明朗で筋が通っていない。
 総務省・選管・警察は、筋の通った行動をするべきである。

2007年06月03日

「安定した世界」は、「被害者」にも変えられない

 私は、次の文章で、〈世界は「安定した一点」だから変わらない〉という趣旨を述べた。〈インターネット選挙の現状は「安定」してしまっている〉という趣旨を述べた。

  ● なぜ、世界は変わらないのか

 しかし、不思議なことがある。この「安定」には「被害者」がいるのである。戸田氏の対立候補である。
 彼らは、「不当」な状態におかれている。戸田氏だけが選挙活動にインターネットを活用できる。自分達はインターネットを活用できない。これは「不公平」である。
 次のうちのどちらかであるはずだ。
 
 1 戸田候補のホームページ活用が違法である。
 2 違法だという選管の「指導」が間違っている。
 
 戸田氏の対立候補は何をしているのだろうか。こんな「不当」な状態で「安定」させてはいけない。言うならば、彼らは「安定」を壊す義務を負っているだ。
 白黒つけたくなるはずである。「正義感」があるならば。
 選管や警察に訴え続け、戸田氏の行為を「摘発」させるべきである。警察を現実に動かすことが出来たとすれば、見上げたものである。それほどの気骨が戸田氏の対立候補にあるのか。それが問題である。
 そのような気骨がある人物は、ある意味、味方のようなものである。
 物事をはっきりさせる同志である。(笑)
 
 仮に「正義感」に燃えて、戸田氏のホームページ活用を「摘発」させようとした候補者がいたとする。もし、インターネット選挙の現状が「安定」しているならば、彼はとても苦しい思いをするはずである。何しろ「安定」しているのだから、それを変えまいとする力が働くのである。
 彼がどのような目に遭う可能性があるのか。想像してみよう。
  
 ○ 突然、警察の担当者と連絡が取れなくなる。いつ電話しても留守だ。
 ○ 「『告発』を受けつけた事実はない。」・「書面で『告発』していないから無効だ。」などと言われる。
 ○ 提出した書面を書きかえられて無効にされている。
 ○ 自分が所属している政党の国会議員などに相談しても、「ああいうのは無視しておけばいいんだよ。」・「ああいうのに関わるのは君のためにならない。」などと言われる。
 
 これらは、あくまで想像である。この件の実際の手続きと合致しているかも分からない。
 しかし、これに類似した事例を読者の皆さんは思い浮かべることが出来るであろう。
 それは、「安定した一点」を変えまいとする力である。
 このような目にあっては、よほど「正義感」が強い人物でなければ耐えられないであろう。
 
 さらに、重要な事実がある。戸田氏の行為を「摘発」させたとしても、ほとんどの対立候補は得をする訳ではないのである。
 門真市の有力議員にとって、自分が当選することは決まったようなものである。また、戸田氏は連続トップ当選である。だから、「選挙戦にHPを断固活用」を止めさせたとしても、あまり意味がない。インターネットを「断固活用」しなくても、戸田氏は当選するのである。
 だから、問題は「不公平」だけである。これは、大筋で「損得」の問題ではなく、「正義」の問題なのである。
 このような状況でがんばれる人物は非常に少ない。
 「被害者」も黙ってしまい、「安定」は揺るがない。
 

 世界とは、関係者が影響を与え合い安定した一点である。
 
 「安定した一点」を変えるのは非常に難しいのである。
 「被害者」を踏みつけにしてまで、「安定」は維持される。
 

〔補〕

 以前、私は三菱地所の異常な顧客対応を批判した。
 
  ● 【三菱地所の情報隠蔽体質批判1】インターネットによる情報公開は社会をどう変えるか
  ● 【三菱地所の情報隠蔽体質批判2】〈反-対話戦略〉を破壊せよ
  ● 【三菱地所の情報隠蔽体質批判3】 情報公開は、だまされない権利を個人に保障するためのシステム
 
 この異常な顧客対応も、「安定した世界」を守ろうとする行為なのであろう。
 つまり、〈顧客に情報を公開しない〉という形で「安定した世界」になっていた。その「安定」を私が壊そうとした。だから、何が何でも「安定」を守ろうとして、異常な行為を繰り返したのであろう。
 その後、彼らの対応はさらに異常になった。嘘をつきまくり、いつ電話しても「留守」になり……。(苦笑)
 これも、おいおい論じていく。

2007年07月06日

なぜ、欧米ではインターネット選挙が実現しているのか

 それでは、なぜ、欧米ではインターネット選挙が実現しているのか。
 欧米諸国にも、インターネットの利用を規定する法律など無かった。法律を作った時には、インターネットなど無かったのだから。
 この点では、日本と欧米諸国とは同じである。

 しかし、現実のインターネット利用では大きな差がついている。
 日本では選挙活動にインターネットが利用されていない。(ごく一部の例外を除いて。)それに対して、欧米では選挙活動にインターネットが利用されている。米国でも、英国でも、ドイツでも、フランスでも、ほとんど自由にインターネットが利用されている。

 それはなぜか。
 人々の行動が違うからである。関係者の行動が違うからである。
 欧米では、規定がなければ、候補者が勝手にインターネットの利用を始める。また、市民も勝手に利用を始める。選管が「法律に觝触する。」と言っても、彼らは利用を止めない。インターネットについての規定はないのだから。
 その現状に合わせて、選管も行動を選ぶ。「法律に抵触する。」と言っても、誰も従わないのである。言っても、恥をかくだけである。だから、そんなことは言わない。
 インターネット利用を認めるしかないのである。
 
 こうして、インターネットを選挙で利用できる世界が出来あがる。
 世界が、別の一点で「安定」したのである。
 それは、候補者の行動が違うからである。市民の行動が違うからである。選管の行動が違うからである。

 世界とは、関係者が影響を与え合い安定した一点である。
 だから、関係者の行動が違えば、当然、それに応じて別の世界が現れる。別の一点で世界は「安定」する。  欧米諸国では、自由にインターネットを利用できる一点で世界が「安定」した。  日本では、インターネットを利用できない一点で世界が「安定」した。  日本と欧米とは全く違う世界になったのである。

 この違いの原因を法律の違いに求める考えがある。
 しかし、それは間違いである。
 原因は人々の行動の違いである。人々の行動が違ったため、別の世界が現れたのである。世界が別の一点で「安定」したのである。関係者が影響を及ぼし合い、そのような世界を作っているのである。

2007年07月20日

「お上」に「お伺い」を立てる愚

 日本では、「お上」に「お伺い」を立てた者がいた。新党さきがけである。
 〈インターネットの利用が公職選挙法に違反するかどうか〉を自治省(当時)に問い合わせたのである。(注)
 
  http://www.jsdi.or.jp/~y_ide/9610saki_qa.htm
 
 率直に感想を述べる。

 アホか!

 役人に「違反するかどうか」を聞けば、「違反する」と言うに決まっている。もちろん、新党さきがけも、そのように言われた。規制が彼らの権力の源なのである。
 次のような笑い話がある位である。

 賄賂を取り過ぎて、便所の番人に左遷された役人がいた。
 友人が心配して声をかけると、彼曰く。
 「なあに、大丈夫だ。入りたい奴を入れないようにして、出たい奴を出られないようにすればいいだけだ。」
 
 便所に「入れないように」規制すれば、金が取れる。「出られないように」規制しても、金が取れる。
 役人の権力は、このような規制があるから成立するのである。だから、彼らは出来るだけ規制を多くしようとする。(彼ら自身に、明確にそのような意識があるかどうかは分からないが。)
 「お上」に「お伺い」を立ててはいけなかったのである。聞かずに、インターネットの活用を始めればよかったのである。みんなで活用を始めればよかったのである。
 インターネットの活用が一般的になってしまえば、もう変えようがない。役人も「事後承認」せざるを得なくなる。
 人々の行動が違えば、世界が変わっていた可能性がある。別の一点で「安定」していた可能性がある。
 インターネット選挙が実現していたかもしれないのだ。
 
 
(注)

 新党さきがけの質問は、押し気味の質問である。つまり、大筋で質問の形をした批判である。質問としてはよく出来ている。
 しかし、現実には、逆効果になってしまった。役人に規制をするきっかけを与えてしまった。
 社会現象として、興味深い事例である。

2007年07月21日

〈問い合わせ〉行為自体が相手の行動を変えてしまう

 新党さきがけは、自治省(当時)に〈インターネットの利用が公職選挙法に違反するかどうか〉を〈問い合わせ〉た。
 〈問い合わせ〉ただけである。
 だから、論理的には、自治省の解釈に影響を与えないはずである。
 
 しかし、現実問題としては違う。
 〈問い合わせ〉があったという事実自体が、彼らの解釈に影響を与えるのである。次のような情報を彼らに与えているのである。
 
 1 〈問い合わせ〉が来るほど重要な問題である。
 2 公職選挙法に違反しているかもしれない問題である。

 
 〈問い合わせ〉をしたという事実が相手の解釈を変えてしまうのである。〈問い合わせ〉が無ければ、見逃していた問題に気がついてしまう。必要以上に、その問題を重要だと考えてしまう。
 〈問い合わせ〉は、単なる〈問い合わせ〉ではない。〈問い合わせ〉という行為をおこなっているのである。
 こちらが〈問い合わせ〉という行為をしたことが、相手の行動を変えてしまうのである。
 
 松井証券が「個人投資家の投資行動」の研究を「無期限で延期」したという報道があった。 

 顧客の株式売買データなどを匿名で一橋大に提供する計画だったが、提供に同意しない顧客からの問い合わせが3千件以上も寄せられたため。松井は「説明不足の面もあり、延期を決めた」としている。……〔略〕……松井によると、5月30日に顧客向けのホームページで研究について、拒否する人は連絡するようにと呼びかけた。〔『朝日新聞』2007.6.6.〕
 
 もう、読者の皆さんはお分かりであろう。
 「拒否する人は連絡するようにと呼びかけた」こと自体が、顧客に間違った情報を与えたのである。〈「拒否」が必要なほど問題のある計画だ〉という情報を与えたのである。
 「売買データ」を「匿名」で統計的に処理することは、顧客に何の被害も与えない。しかし、普通、何の被害も与えないような件で「呼びかけ」はおこなわない。このように「呼びかけ」られれば、〈何か問題があるのではないか〉と不安になるのは自然である。
 
 新党さきがけは、このような〈問い合わせ〉行為自体の影響について無自覚であった。記号活動の複雑性を理解していなかった。
 次のような区別が、この問題の理解の役に立つ。
 
  意味論 …… 言葉とその指示対象との関係の分析
  語用論 …… 言葉とその使用者との関係の分析

 
 〈問い合わせ〉行為は、語用論の範囲の問題である。言葉によって使用者が影響を受けるのである。その影響が問題なのである。
 新党さきがけは、その影響に無自覚であった。間違って意味論範囲の問題だと考えていたのである。
 意味論と語用論の区別が出来ていなかったのである。

2007年07月22日

ブログ規制は民主主義の否定

 ブログについても、「お上」に「お伺い」を立てた者がいる。〈ブログの利用が公職選挙法に違反するかどうか〉を〈問い合わせ〉たのである。
  
  http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2005/08/no_action_lette_3b49.html
  http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2005/09/election_ecb5.html
  
 率直に感想を述べる。
 

 アホか!
 
 まず、次の事実を確認しよう。
 
 あなたのブログを役人は読んでいない。

 
 役人が、全てのブログを確認するのは不可能である。ブログは数百万もあるのだ。
 まず、始めてしまえばいいのである。(既に詳しく論じたように、インターネットの利用を規定する法律など無いのだから。)

 向こうが気づいて何か言ってきたら、その時に対応を考えればいい。
 私ならば、インターネット上の選挙活動が「摘発」されなかった前例を挙げて、説明を求める。「戸田氏のサイトがよくて、なぜ自分のサイトが悪いのか」を文章で回答させる。
 面倒ならば、その時に、候補者名を伏せ字にすればよい。そして、ブログで選管・警察に規制された事実を伝えればよい。
 却って、注目度が上がってアクセスが増えるであろう。(笑)
 
 民主主義とは突き詰めれば、〈一人が一人を説得すること〉である。ある一人の人間が別の一人の人間の考えを変えようと働きかけることである。
 だから、〈一人が一人を説得する〉権利が認められていることが重要である。表現の自由が認められていることが重要である。
 特定の候補者をブログで応援するのは、民主主義の中核的行為である。必要不可欠の行為である。
 だから、ブログでの特定候補者の応援を規制するのは不当である。民主主義社会ではあってはならないことなのである。
 

2007年07月23日

【戸田ひさよし氏がブロガーへ呼びかけ】 「あなたのブログで『特定候補者への投票呼びかけ』を実行しよう」

 門真市議の戸田ひさよし氏は、インターネット活用の先駆者である。「選挙戦にHPを断固活用」と明言して選挙戦を戦い、トップ当選した。

 その戸田ひさよし氏が斬新な提案をしている。「ネット選挙活動規制」に従わないように呼びかけているのだ。 

あなたのHP・ブログで「特定候補者・団体への投票呼びかけ」を断固として実行しよう!「選挙演説の内容報道」も行おう!

 これは、ブロガーへの呼びかけである。
 既に述べたように「ブログ規制は民主主義の否定」である。
 だから、この呼びかけは、民主主義を守るための重要な呼びかけである。

 特集ページは次である。(なぜか、私の文章が満載である。笑)
 
  ● ネット選挙活動規制を今私達が突破する!「自由言論戦士」大特集
 
 ぜひ、ご注目いただきたい。

2007年07月24日

【戸田書簡への返信】 ブログで特定候補を応援するのが民主主義なのだ

 戸田ひさよし氏から次の公開書簡をいただいた。
 
  http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=1866;id=01
  
 下の文章は、それに対する返信である。
 民主主義の根本原理から、ブログ規制に反対する論を立てている。
 ぜひ、ご注目いただきたい。


● ブログで特定候補を応援するのが民主主義なのだ

戸田 ひさよし 様

 民主主義とは、突き詰めれば〈一人が一人を説得すること〉です。ある一人の人間が別の一人の人間の考えを変えようと働きかけることです。
 そのような働きかけによって、最初は少人数の者しか持っていなかった考えが広まって大きな力になる。そのようなダイナミックな過程が民主主義なのです。
 だから、ブログ・ホームページで次のような訴えをするのは、民主主義社会では必要不可欠のことです。
 
 「A候補に投票しよう。理由は……である。」

 しかし、総務省は、この必要不可欠な行為を禁止しようとしています。公職選挙法で禁止されていると言うのです。
 彼らは正気なのでしょうか。
 それは、次のように言っているも同然なのです。
 
 「日本は民主主義国ではありません。言論の自由などありません。」
 
 まず、インターネットの利用を禁止する規定は公職選挙法にはありません。これは、既に詳しく論じました。
 
  ◆ インターネット選挙 アーカイブ
  http://shonowaki.net/cat3/
 
 そして、仮にそんな法律があったとすれば、直ぐに撤廃するべきでしょう。民主主義の中核的な活動を禁止する法律が存在するのならば、そんな国は民主主義国ではありません。
 
 また、別の意味でも、彼らは正気とは思えません。
 彼らは、数百万もあるブログ・ホームページをどうやって監視するつもりなのでしょうか。総務省自身が発表したブログ・ホームページの作成者数が約466万人(2006年10月時点)なのです。数百万を監視できると考える方がどうかしています。
 監視しようがないのです。
 
 戸田さんは「誰もが実行できる戦術」を提案されています。
 ブログ・ホームページを持つ人間が、みんなで次のように書くという「戦術」です。
 
 「A候補に投票しよう。理由は……である。」
 
 これは実に簡単なことです。(そして、重要なことです。)
 そして、たぶん、総務省・選管はその書き込みを発見できません。

 世界は、行動の積み重ねで変わることがあります。何万人という人が、インターネットの利用を始めてしまえば、もう規制のしようがないのです。既成事実化してしまうのです。
 
 この戸田提案に賛成です。
 私は、この戸田提案を全面的にサポートしていくつもりです。
 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                   諸野脇 正 (しょのわき ただし)
                 【Web Site】  http://www.irev.org/
                 【ブログ】   http://shonowaki.net/

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2007年07月28日

【実験】 発見できるかな(笑)

 ブログで特定候補を応援したとしても、総務省・選管・警察は発見できない。
 発見したとしても、「摘発」は出来ない。
 既に、詳しく論じてきた通りである。
 
 それでは、実験をしてみよう。
 このブログで特定候補を応援してみるのである。
 彼らはこの書き込みを発見できるだろうか。(笑)
 

 東京選挙区は 鈴木 寛 に投票しよう。
 理由は、インターネットで〈情報公開〉を熱心にしているからである。
 Yahoo!みんなの政治を見てみる。
 
  参議院議員 民主党 鈴木 寛(スズキ カン)
   http://seiji.yahoo.co.jp/giin/minshu/000113/
  
 活動記録(597件)、議案コメント(649件)と表示される。
 これは驚異的な数である。
 別の議員を見てみよう。
 
  参議院議員 自民党 保坂 三蔵(ホサカ サンゾウ)
   http://seiji.yahoo.co.jp/giin/jimin/000190/
  
 活動記録・議案コメント、ともに0件である。
 どちらがインターネットでの〈情報公開〉に熱心かは一目瞭然である。
 
 東京選挙区は、インターネットによる〈情報公開〉に力を入れている鈴木寛に。
 「議会の〈情報公開〉こそ『変革』の中心」なのであるから。

 
 今、こっそりと(笑)特定候補を応援してみた。
 これは実験である。
 
 このブログは、インターネット選挙問題については目立っているブログである。このブログで問題なければ、普通のブログで問題が起こることはまず無いであろう。

 さあ、どうなるか。
 発見できるかな。(笑)

2007年08月09日

【実験結果】 ブログで特定候補への投票を呼びかけても「お咎め」なし

 ブログで特定候補への投票を呼びかけてみた。(この行為は、総務省の解釈によれば、公職選挙法違反である。)
 次の文章である。
 
  ● 【実験】 発見できるかな(笑)
 
 これは実験である。
 ブロガーが、特定候補への投票を呼びかけたら、どうなってしまうのか。(笑)
 何か恐ろしいことが起こるのか。
 選管・警察から「注意」が来るのか。「逮捕」されるのか。
 それでは実験結果の発表である。

  何の「お咎め」もなかった。
  
 選管からも、警察からも何の連絡もない。
 残念である。(笑)
 
 もちろん、これは予想通りの結果である。
 次の文章で予想した通りである。
 
  ● ブログ規制は民主主義の否定
 
 数百万もあるブログを監視するのは不可能なのである。現実問題として、投票を呼びかける書き込みを発見・「摘発」するのは不可能なのである。
 だから、一般のブロガーが、特定候補への投票を呼びかけても、特に「お咎め」はない。つまり、総務省による公職選挙法の解釈を無視しても、何の問題もないのである。(注)
 

(注)

 誤解があるといけないので、念のため書く。
 この文脈では、私は、法律に違反することを勧めている訳ではない。
 次の二点を確認してもらいたい。

 1 〈ブログで特定候補への投票を呼びかけること〉は合法である。
 2 総務省が違法と考えていても、実務上「摘発」は不可能である。

 違法だというのは、総務省の恣意的な解釈に過ぎない。〈ブログで特定候補への投票を呼びかけることが公職選挙法違反だ〉というのは、間違った解釈なのである。(これについては、既に詳しく説明した。)
 このような間違った解釈に従う必要はない。
 そして、従わなくても、何の問題も起こらないのだ。

2007年08月10日

【「解禁」宣言?】 「ネット選挙活動規制を突破する」運動にも「お咎め」なし

 今回の参院選で、門真市議の戸田ひさよし氏は斬新な運動を実行した。
 次の文章で紹介した。
 
  ● 【戸田ひさよし氏がブロガーへ呼びかけ】「あなたのブログで『特定候補者への投票呼びかけ』を実行しよう」 

 この「呼びかけ」に応えて、多くの人が「特定候補者への投票呼びかけ」をおこなった。
 
  ● ネット選挙活動規制を今私達が突破する!「自由言論戦士」大特集
 
 この結果はどうなったのか。 
 

 何の「お咎め」もなしである。
  
 総務省・選管・警察は、何をしているのだろうか。
 このような行為を「公職選挙法違反である」と主張し続けてきたのである。
 それならば、取り締まるべきであろう。
 なぜ、何の行動も起こさないのか。
 誠に不明朗である。
 
 この運動は次のような特徴を持っている。 
 1 意図性 …… 戸田氏は「ネット選挙活動規制を突破する」という意図を持って呼びかけている。参加者も、その意図に賛同した者である。
 2 公開性 …… この運動はホームページ上でおこなわれている。しかも、アクセス数ナンバー1の有力ホームページ上でおこなわれている。戸田氏のホームページは、市議ホームページの中でもっともアクセス数の多いホームページなのである。
 3 大規模性…… 戸田氏の呼びかけに応じて、多くの者が運動に参加した。
 
 この行為を取り締まらずに、何を取り締まるのか。
 当局の側から見れば、「意図性」は「悪質性」である。気づかずにおこなってしまった行為より、「意図」しておこなった行為の方が「悪質」なのである。
 「公開性」により、「知らなかった」という言い訳が使えなくなる。おおっぴらにおこなわれた行為なのである。「知らなかった」では済まされない。
 「大規模性」は「影響性」である。小規模の行為より、「大規模」な行為の方が、社会に対する影響が大きい。
 
 つまり、本来、取り締まる必要性が高い行為なのである。
 この行為を取り締まらないならば、何も取り締まれなくなる。 
 
 これは、事実上のネット選挙「解禁」宣言である。
 「ネット選挙活動の取り締まりはしません」と宣言したも同然なのである。
  
 当局は、「解禁」宣言を出すつもりなのだろうか。
 出すつもりが無いならば、今からでも遅くはない。
 きちんと取り締まったらどうだろうか。(笑)
 私も含めて。(笑)


〔補〕
 
 彼らには、取り締まれない理由がある。「摘発」できない理由がある。
 次の文章で詳しく説明した。
 
  ● なぜ、世界は変わらないのか
  
 現状で〈安定した世界〉が成立している。
 しかし、「摘発」することによって、〈安定した世界〉が壊れてしまう。
 「摘発」して裁判になったら、却って彼らは困るのである。〈安定した世界〉が壊れてしまうのである。

2007年08月30日

「道徳は法律よりエライ」

 私は、「お上」に「お伺い」を立てる行為を批判した。
 
  ● 「お上」に「お伺い」を立てる愚
  ● ブログ規制は民主主義の否定
 
 なぜ、彼らは「お伺い」を立てたのか。法律を守りたかったのであろう。
 
 私は「法律を守ろう」などと考えたことがない。常に「正しくあろう」としているだけだ。
 私以外の多くの人も同じであろう。自分がすることが「法律違反かどうか」などと考えたこともないであろう。
 「正し」ければ、結果的に「法律を守」ることになる。
 もし、「正しい」行為が「法律違反」になるならば、「法律」の方が間違っているのだ。
 次の標語を覚えていて欲しい。 

 道徳は法律よりエライ

 法律は、所詮、人間が作ったものである。当然、不当な法律・不適切な法律が存在する。それに対して、道徳は法律を作る基となるものである。
 例えば、殺人を考えてみよう。殺人は、法律で禁止されているから悪いのか。違う。それは逆立ちした論理である。
 殺人は、道徳的に悪い行為だから法律で禁止されているのである。道徳の方が先なのである。道徳が法律の基となっているのである。
 だから、道徳の方が法律よりエライのである。
 
 独裁国家の国民は、この違いを実感しているであろう。道徳と法律の違いを実感しているであろう。法律は、独裁者が自分が都合のよいように決めた恣意的なものなのである。
 例えば、北朝鮮の国民は、国外のラジオ放送を聴くことを禁じられている。しかし、それは独裁者が恣意的に決めた法律に過ぎない。
 だから、そんな法律には、国民は従う必要はない。
 次のような報道があった。 
 青森県の深浦港で北朝鮮から逃亡したとみられる一家4人が保護された事件で、一家の所持品の中に、ラジオがあったことが分かった。国外の放送も自由に聴くことができる仕様で、一家は脱北前から韓国の放送などを聴いていて、日本人拉致問題の存在も知っていたという。……〔略〕……
 調べでは、北朝鮮で購入できるラジオは特定の局しか受信できないように周波数帯が固定されているというが、発見されたラジオはチューニングを変えられる仕様だった。既製品ではなく、部品を集めて手作りで組み立てられた可能性があるという。
  http://www.dennougedougakkai-ndd.org/~cielo/tdiary/?date=20070606

 「国外の放送」を聴くことを禁止するのは、独裁者の恣意的な都合に過ぎない。そのような法律には従わない方が道徳的に正しい。「道徳は法律よりエライ」のである。

 特定候補をブログで応援するのもこれと同じである。特定候補を応援する方が道徳的に正しい。
 既に、次の文章で論じた通りである。
 
  ● ブログで特定候補を応援するのが民主主義なのだ
 
 だから、私ならば、「お上」に「お伺い」を立てたりはしないであろう。
 応援したい候補がいれば、直ぐに応援を始めるだろう。
 だって、それが正しいのだから。
 「道徳は法律よりエライ」のだから。

2007年09月01日

「法律を解釈する」という発想

 なぜ、多くの者が総務省に「お伺い」を立てるのか。
 法律で、何が禁止されているのか知りたいのであろう。
 しかし、それは危険である。次の文章で論じた。
 
  ● 〈問い合わせ〉行為自体が相手の行動を変えてしまう
 
 役人は、自分の得になるように法律を解釈する傾向があるのである。
 相手が神であるならば、「お伺い」を立ててもよい。神は公平無私である。(ということになっている。)
 しかし、役人はそうではない。
 
 総務省は次のように解釈する。 

 ホームページの公開は、公職選挙法の禁ずる「文書図画」の「頒布」である。
  
 実に、恣意的な解釈である。「ホームページを頒布(配布)した」などと言う人はいない。日本語として、不自然である。
 私は次のように解釈した。 
 ホームページの公開は「文書図画」の「頒布」ではない。
 「文書図画」を「頒布」すれば、減る。ビラ・葉書を「頒布」すれば、減る。
 しかし、ホームページは、アクセスされても減らない。
 また、ホームページにアクセスするのは、有権者の自発的行動である。
 それに対して、ビラ・葉書は、望まなくてもポストに入っている。
 だから、ホームページの公開は、選挙事務所内の資料室の公開と同様に考えるべきである。

 この解釈の方が、ずっと自然である。
 なぜ、総務省は、自然な解釈をしないのか。不自然な解釈をするのか。
 そう解釈した方が、自分が得をするからではないか。そう疑われても仕方ない。それ位、不自然な解釈なのである。
 
 上の「解釈」という語に注目してもらいたい。
 法律とは、解釈するものなのである。
 
 私は、この文章をキーボードで打っている。確かにキーボードは存在する。
 しかし、それと同じ意味では、法律は存在しない。
 法律は記号である。記号は、解釈されることによって、初めて意味が生ずるものである。解釈を離れて、固定的に意味が定まっているものではない。
 
 まず、自分で法律を解釈してみよう。
 「敵」に解釈をゆだねるようでは、その段階でもう負けである。(笑)
 自分で解釈して、なお心配ならば、弁護士・法学者の解釈を聞いてみよう。
 どの解釈が適切かを決めるのは法曹関係者なのである。
 
 おおまかに言って、どの解釈が適切かは、裁判において裁判官が決める。(裁判官の判断が間違いであるという立場はもちろんあり得るが。)
 総務省の解釈は、そのような司法の判断を一度も受けていない。
 つまり、総務省の解釈が適切であるという判断が下った訳ではない。
 
 なぜ、政治家が、たかが総務省ごときの恣意的な解釈に従っているのか。
 誠に不思議である。
 なぜ、マスコミが、総務省の恣意的な解釈に過ぎないものを事実として報道しているのか。
 誠に不思議である。
 もしかしたら、彼らの頭の中には〈「法律を解釈する」という発想〉自体が無いのかもしれない。間違って、「総務省が事実を伝えている」と誤解しているのかもしれない。「〈事実として存在する法律〉を伝えている」と誤解しているのかもしれない。
 しかし、総務省が伝えているのは事実ではない。彼らの解釈なのである。 
 
 法律は、解釈を離れて存在するものではない。
 解釈されて、初めて意味が生ずるものである。
 
 
 法律とは、解釈するものである。そして、我々は、複数の解釈のどれが適切かを争うのである。それなのに、自分で法律を解釈せず、「敵」に解釈をゆだねてしまえば、負けるに決まっている。
 法律は自分で解釈しよう。(注)
 その前に、〈「法律を解釈する」という発想〉を持とう。
 

(注)

 法律を自分で解釈するためには、法律の原文を読む必要がある。
 次のサイトで読むことが出来る。
 
  ◆ 法庫
  
 総務省の恣意的な解釈に従っている政治家は、原文を読んだのだろうか。また、その恣意的な解釈に過ぎないものを事実として報道しているマスコミ関係者は、原文を読んだのだろうか。
 読んではいないのだろう。
 まず、原文を読んで、自分で解釈しよう。
 「敵」に騙されないために。

2007年09月16日

どのように法律を解釈すればよいのか --文理解釈と論理解釈

 法律は自分で解釈しよう。
 では、どのように法律を解釈すればよいのか。
 法律の解釈を「文理解釈」と「論理解釈(体系的解釈)」に分けるのは、安定した考えである。(注) 

 1 文理解釈……法文を語・文法の通常の知識に基づき解釈する
 2 論理解釈……法文を法的文脈を考慮して解釈する。「法的文脈」とは、法文の意図などである。つまり、法文で何を実現しようとしているかなどである。

 法文の解釈においては、まず文理解釈をおこなう。日本語として普通に法文を解釈するのである。しかし、それだけでは、法文の意味が確定できないことがある。法文が二つの意味に解釈できる場合などである。その場合、論理解釈をおこなう。法文の意図などを考慮して、どの意味が正しいかを判断するのである。
 まず、この二種類の解釈を意識すればよい。 
 次の法文を見ていただきたい。
選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号に規定する通常葉書並びに第1号及び第2号に規定するビラのほかは、頒布することができない。(公職選挙法 第142条)

 この法文を総務省(当時は自治省)は次のように解釈した。 
 ホームページの公開は「文書図画」の「頒布」である。
 
 これは奇怪な解釈である。恣意的な解釈である。
 許し難い。
 では、どうすればいいのか。 
 総務省の解釈を覆す形で、上の二種類の解釈をおこなえばよい。文理解釈と論理解釈をおこなえばよい。
 それをおこなったのが、次の二つの文章である。 
 1 文理解釈……インターネット選挙になるべきだった選挙
              --あなたも公職選挙法に「違反」してみませんか
 2 論理解釈……インターネット選挙は公職選挙法違反か
              --「馬」は「自動車」か
 
 1の文章で、私は次のように書いた。 
 ホームページの公開と「文書図画」の「頒布」とは、どう違うのか。ビラは読みたくなくても、新聞に折り込まれている。葉書も読みたくなくても、ポストに届いている。しかし、ホームページは、本人が望まなくては見ることはない。ホームページを見た人は、アドレスを自分で打ち込んだのである。または、リンクを自分でクリックしたのである。ホームページは、自発的に行動しなくては見ることが出来ない。
 だから、「ホームページの頒布を受ける」という文言には、違和感があるのである。「頒布を受ける」のではなく、「ホームページにアクセスした」のである。「ホームページを見た」のである。
 次のような比喩が正しい。
 
 〈ホームページの公開は、選挙事務所内の資料室の公開である。〉
 
 選挙事務所内に資料室ある。さまざまな政策の資料がある。その資料室は、一般に公開されている。そこに、自発的に閲覧希望者が来る。いろいろな資料を閲覧して、帰っていく。
 おこなわれているのは、〈資料室の公開〉である。「文書図画」の「頒布」ではない。これは、公職選挙法に違反していない。
 
 これは、文理解釈をおこなっているのである。法文を日本語として普通に解釈しているのである。「ホームページの公開」は、「文書図画」の「頒布」と言えるかを検討しているのである。通常の日本語では、「ホームページの公開」は「文書図画」の「頒布」とは言えないことを論証しているのである。つまり、文理解釈をおこなったのである。
 
 私は、大筋でこの検討で十分だと考えていた。しかし、総務省は〈ホームページの公開が「文書図画」の「頒布」である〉という解釈を訂正しなかった。そして、なぜか、ほとんどの政治家がその恣意的な解釈に従っていた。
 仕方がないので、念押しの文章を書くことにした。
 2の文章である。 
 公職選挙法で規定外の「文書図画」の「頒布」を禁止したのはなぜか。「頒布」できる数を制限したのはなぜか。
 公平な選挙活動を望んだからであろう。数の制限がなければ、お金を持っている者だけがたくさんのビラを「頒布」できる。これを不公平と考えたのであろう。
 確かに、ビラをたくさん作るにはお金がかかる。たくさん作れば作るほど、お金がかかる。
 しかし、ホームページの場合は、どうであろうか。アクセスが増えれば増えるほど、お金がかかるのだろうか。大筋でそんなことはないであろう。
ホームページでは、お金を持っている人だけが有利になることはない。
 ……〔略〕……
 「文書図画」の「頒布」を禁止した意図は、〈公平な選挙の実現〉であろう。
 この意図を基準に解釈すると、どうなるであろうか。ホームページの公開は〈公平な選挙の実現〉の妨げにはならない。お金を持っている人だけが有利にはならない。つまり、ホームページの公開を「文書図画」の「頒布」と解釈することは出来ない。

 これは、論理解釈をおこなっているのである。法文の意図を解釈しているのである。
 〈公平な選挙の実現〉という意図を基準にした場合、法文がどう解釈できるかを論じている。意図を基準にした場合、ホームページの公開を「文書図画」の「頒布」と解釈するべきではないことを論証した。つまり、論理解釈をおこなったのである。

 既に、私は、文理解釈と論理解釈の両方をおこなった。
 そして、どちらの解釈においても、〈インターネット上の選挙活動は禁止されていない〉ことを示した。
 
 法律の解釈には、おおざっぱに言って、文理解釈と論理解釈の二種類がある。
 この二種類を意識しよう。
 
 この二種類の解釈をおこなっておけば、まず、だいじょうぶであろう。
 裁判になっても。(笑)
 
 
(注)

 例えば、碧海純一氏は次のように言う。 

 法の解釈については、伝統的に、「文理解釈」(grammatische oder buchstäbliche Auslegung)と「論理解釈」(logische Auslegung)とが区別されてきた。文理解釈とは、法文の意味を文法の知識およびその法文を構成する語の通常の意味の知識にもとづいて説明することであり、法文が十分に明晰で、複数の解釈の余地がないばあいには、解釈は原則として文理解釈に終始する。しかし、法文が不明晰であれば、その文理解釈上の可能な意味がなんらかの見地からさらに限定されねばならない。この限定操作は、まず、その法文のおかれている〈法的文脈〉の考慮によってなされる。「法的文脈」とは、その法文と他の関係諸法文との関連、法秩序全体のなかでその法文が占める相対的な位置、一般的にみとめられる法上の諸原理、法秩序に内在する統制目的、などである。このような法的文脈への考慮にもとづいて法文の文理上可能な意味に対して加えられる限定操作がいままで「論理解釈」とよばれてきたところのものにほかならない。しかし、文理解釈をふくめて、あらゆる解釈は当然論理的でなければならないから、「論理解釈」という名称は誤解をまねきやすい。むしろ、「体系的解釈」という名称のほうが適当であろう。〔傍点を山カッコに改めた。〕
 (『新版 法哲学概論 全訂第一版』弘文堂、148ページ)

2007年09月18日

〈法律は自分で解釈せよ〉という私の主張に中央官庁が賛意を表す(笑)

 〈法律は自分で解釈せよ〉と主張してきた私に大きな援軍が現れた。(笑)
 金融庁である。
 金融庁首脳は言う。 

 すべて行政に指示を仰ぐのではなく、法の趣旨を踏まえ自ら考えて行動できないのか
  (『日本経済新聞』 2007.9.14.)
 
 その通りである。
 「法の趣旨を踏まえ自ら考えて行動」すればいいのである。
 どうやら、金融庁には「指示を仰ぐ」問い合わせが殺到して、困っているらしい。(笑) 
 金融庁は金商法〔金融商品取引法〕の完全施行を目前に控え、金融機関からの問い合わせに追われている。ただ、どうすれば法違反にならないかなど、法解釈にかかわる例が多く、ひっきりなしにかかってくる電話に困惑気味だ。
 「顧客セミナーの日程を案内する資料は広告に含まれるか」「投資信託の基準価格の一覧データを顧客に送る際も、リスクの説明を明記する必要があるか」「商品を販売する時に配る資料の冒頭に、何を書かなければいけないか」--。
 (同上)
 
 金融機関は、自力でものを考えられないのか。
 このようなことは、「法の趣旨を踏まえ自ら考えて行動」すればよい。
 金融商品取引法の趣旨は〈利点だけを強調しての広告・販売の禁止〉であろう。〈利点を強調する際には、リスク・コストも同程度に強調すること〉であろう。
 上の「顧客セミナーの日程を案内する資料は広告に含まれるか」を考えてみよう。これが「広告」かどうかは、どのような「資料」かによる。ただの「日程の案内」ならば、「広告」ではない。だから、特に「リスクの説明」は必要ない。しかし、特定の商品の利点を強調する文言があった場合は、同程度に強調した「リスクの説明」が必要である。
 金融機関も、このように自力で法律を解釈すればよい。
 
 金融庁首脳はよいことを言ってくれた。
 もう一度、引用しよう。 
 すべて行政に指示を仰ぐのではなく、法の趣旨を踏まえ自ら考えて行動でき