2016年02月19日

【いじめ論37】子供集団の影響力を使って、いじめ行動を抑制する

 教師がいくら言っても、女子校生はミニスカートを着るのをやめない。
 教師に従うことより、仲間集団に従うことの方が重要なのである。一人だけミニスカートを着るのをやめては「浮」いてしまう。集団内での位置を失ってしまう。
 いじめも同様である。子供は教師ではなく子供集団に従う。
 いじめは社会的ジレンマなのである。社会的ジレンマであるいじめ状況を発生させないためには、次の二点が重要である。既に詳しく説明した通りである。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 いじめ行動を発生させないことが重要である。発生したいじめ行動は適切に抑制することが重要である。しかし、いじめ行動を抑制できていない例が多い。
 なぜ、抑制できないのか。
 それは「教師が抑制しようとしている」からである。より正確に言えば、「教師が一人で抑制しようとしている」と子供が「解釈」しているからである。子供にとって、教師は「意味のある他者」ではない。
 子供は教師ではなく子供集団に従う。教師に従うことより、子供集団に従うことの方が重要なのである。だから、教師に従って、一人だけでいじめ行動をやめる訳にはいかない。それでは、一人だけ「浮」いてしまう。集団内での位置を失ってしまう。
 だから、いじめの抑制のためには、「子供集団がいじめに反対している」と子供が「思う」ことが重要である。そう「思う」から子供はいじめ行動をやめるのである。
 つまり、2によって1が容易になる。「反いじめ行動が発生」していると「いじめ行動の抑制」が容易になる。子供が反いじめ行動を起こしている事実が、教師の指導の「解釈」を変えるのである。
 例えば、先に示した「いじめ・暴力徹底追放宣言」の採択である。(注1)

いじめ・暴力徹底追放宣言
            ―いじめ・暴力をなくし、住みよい学校を!―

私達、生徒会の基本方針は「住みよい学校をつくることです。私達生徒一人ひとりは、 誰もが「楽しい学校生活を送る権利」を持っています。 この「権〔原文のママ〕を侵害することは誰にもできません。
 しかし、“いじめ”や“暴力”という行為は、この「権利」を侵害するものです。これはいじめられた人の身になって考えれば、よく分かることだと思います。
ですから、“いじめ”や“暴力”を許してしまっては「住みよい学校をつくる」ことはできません。だからこそ、私達生徒は一人ひとりを互いに大切にし合い、「住みよい学校をつくる」ため、“いじめ”や“暴力”を徹底的に追放しなければなりません。
 よって、Y中学校生徒会は次の事を宣言します。
1 どんな理由があっても、“いじめ”・“暴力”を許さない学校をつくっていこう。
2 不正なことには、「やめよう」と言おう。
3 問題が起こった時は“暴力”・“力関係”で解決せず、クラスで討議し、自分達の力で解決していこう。

                 平成6年1月29日
                  Y中学校生徒会

 この「いじめ・暴力徹底追放宣言」は反いじめ行動である。生徒集団がいじめに反対している事実を行動の形で示したのである。
 このような反いじめ行動が発生していれば、いじめ行動を抑制しようとする教師の指導は「子供集団の意思」と「解釈」される。「子供集団の意思」だと「解釈」するから、子供は従う。
 だから、子供が「いじめ・暴力徹底追放宣言」をしている状況では、教師によるいじめ行動の抑制は容易である。「いじめ・暴力徹底追放宣言」は「子供集団の意思」である。教師はそれに従うように子供を促すだけでよい。
 つまり、いじめ行動の抑制に成功した事例は次のような構造になっている。

 子供集団(教師) → 子供

 それに対して、いじめ行動の抑制に失敗した事例は次のような構造になっている。

 教師 → 子供集団

 教師 対 子供集団という構造になっている。例えば、先の野口良子氏の事例は、教師一人が子供集団と戦う構造になっている。(注2)
 これではいじめ行動の抑制は成功しない。教師と子供集団が対立した場合、子供は子供集団に従うのである。
 例えば、向山洋一氏は同様の場面で次のように指導する。(注3)

 私はクラス全員に聞きます。クラス全員を教師の側につけることは大切です。

 みんな聞いたでしょう。○○君は、何となく机を離したそうです。先生は違うと思ってます。○○君は、何となく机を離したと思う人は手をあげてごらんなさい。

 子供たちは手をあげません。あげても一人か二人でしょう。
 私は言います。

 ○○君。みんなは君の言うことがおかしいって。先生もおかしいと思う。
 どうして机を離したのですか。

 教師が「何となく机を離した」という答えを否定しているのではない。子供集団が否定しているのだ。「子供集団の意思」なのだ。教師はそれをはっきりさせただけである。
 向山洋一氏は「クラス全員を教師の側につけることは大切です」と言う。いじめ行動の抑制において、意図的に子供集団を味方につけているのである。
 子供集団が反いじめの「意思」を示している。反いじめ行動を起こしている。そのような状況下で、教師はいじめ行動の抑制に成功することが出来る。
 だから、1のためにも2が重要になる。子供集団が反いじめ行動を起こすことが重要になる。
 つまり、子供の行動を変えるためには子供集団を変えることが重要になる。子供集団を変えることによって、子供の行動を変えるのである。子供集団が反いじめ行動を起こしているという状況下で、教師による指導が可能になる。いじめ行動の抑制が可能になる。
 子供集団の影響力を使って、いじめ行動を抑制するのである。


(注1)

 明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

(注2)

 熱血教師が「いじめは絶対に許されない」と言っても効果は無かった
  http://shonowaki.com/2015/02/post_116.html

(注3)

 向山洋一『いじめの構造を破壊せよ』明治図書、1991年、39~40ページ
 なお、原文では囲みの部分を段下げで表記した。


2016年02月12日

【いじめ論36】子供は教師ではなく子供集団に従う

 大津市のいじめ自殺事件でも、鹿川裕史君の事件でも、教師はいじめを解決できなかった。いじめの事実を知っていたのに解決できなかった。
 教師は「権力」を持っている。命令し、従わない者には罰を与える。最終的には、成績として評価をする。これは大きな「権力」である。
 それにも関わらず、子供は教師に従わなかったのである。
 なぜ、子供は教師に従わないのか。
 小川幸男氏は言う。

 ……〔略〕……多くの学校の場合、すでに上級生が相互非協力状態や、協力状態が下がった状態になっている。入学当初の相互協力状態が落ちている。
 生徒にとって、非協力行為を選んでいる上級生と、様々な規制を行う教師ではどちらが影響力が強いか。これは明らかに、上級生である。中学生である彼らにとって、教師よりも上級生の方が「意味のある他者」として存在するからである。従って、上級生が非協力状態行為を選ぶ生徒生徒〔原文のママ〕が多いと、教師の規制よりも上級生の影響の方を強く受け、下級生の中にも非協力行為を選ぶ生徒が出てくる。(注1)

 教師より、上級生の方が「影響力」が強い。教師より上級生の方が「意味のある他者」として存在する。(さらに、同級生の方が「意味のある他者」として存在する。)
 なぜか。それは、子供にとって重要なのは子供集団の中で位置を占めることだからである。教師に従っても、子供集団の中で位置を占めることは出来ない。

 子供は教師ではなく子供集団に従う。

 教師より子供集団の方が「影響力」が強いのである。
 子供が子供集団に従う例を見てみよう。女子校生のスカートである。(注2)
 極端なミニスカートを着ている女子校生がいる。多くの教師はこのようなスカートを着ることには反対である。
 しかし、教師がいくら反対しても、彼女達は極端なミニスカートを着るのをやめない。それは集団の成員の大多数がミニスカートを着ているからだ。集団内でミニスカートを着ることが「常識」になっているからだ。
 実は、大阪ではロングスカートが「常識」になっている。それに対して、東京の女子校生は何と言ったか。

 東京の女子高生に大阪の写真を見せると「東京だと浮くけど、かわいい」と評判は上々。(『日本経済新聞』2013年12月22日)

 ロングスカートだと「浮く」のである。大多数がミニスカートを着ているからである。「浮」かないためには、ミニスカートを着る必要がある。
 この状況で、教師に従うのは危険である。ミニスカートを着るのをやめるのは危険である。それでは、「浮」いてしまう。それでは集団内での位置を失ってしまう。
 これは社会的ジレンマなのだ。集団内で特定の「常識」が出来てしまっている。一人だけでそれをやめる訳にはいかない。一人だけでやめては「浮」いてしまう。集団内での位置を失うことになる。
 いじめも同様である。いじめにおいても、子供は子供集団に従う。教師の説諭の効果が無かった例を見てみよう。(注3)

 「どういうことなのか、まわりの人、答えなさい!! リカとどうして机をはなさなきゃいけないのか説明しなさい。私は、君たちが中学生になってはじめての授業だからと一週間は黙って様子を見てきたけど、もう我慢できない!! どうしてリカのまわりだけ机の位置が乱れるの!! アキオ、答えてください!!」
 リカの両サイドの子どもたちが目をそらす。いわゆる優等生のアキオは、不服そうな表情のまま、わずかに自分の机をリカの側に寄せる。
 私は邪険にアキオの机を引き寄せ、リカの両サイドの子どもたちの机も強引に移動させる。子どもたちは、机の脚に自分の足をからませながら、素知らぬ顔で私を見つめ、私に机を動かせまいと抵抗している。私は、子どもたちをにらみすえながら荒々しく机や椅子を動かす。子どもたちは、私の力とけんまくに押されながらも、まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている。

 この子供達は教師には従わなかった。「顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあって」いたのである。子供は子供集団に従っていたのである。
 教師に従うことより、仲間集団に従うことの方が重要だったのである。一人だけでいじめをやめる訳にはいかない。一人だけやめては「浮」いてしまう。集団内での位置を失ってしまう。
 子供は教師ではなく子供集団に従うのである。


(注1)

 明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

(注2)

 女子高生のスカート長さが東京と大阪で違う理由
  http://shonowaki.com/2015/05/11_1.html

(注3)

 熱血教師が「いじめは絶対に許されない」と言っても効果は無かった
  http://shonowaki.com/2015/02/post_116.html

2016年02月05日

【いじめ論35】いじめを知っていたにも関わらず教師は解決できなかった

 顕在的な行動が集団に大きな影響を与える。それは、行動だけが意識されるという〈情報の非対称性〉があるからである。このようなバイアスに対処する方法として次の二つを挙げた。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 前回までで、この二つを詳しく説明した。
 この論述は、読者の皆さんにはあまりにも「当たり前のこと」に思えたかもしれない。
 しかし、その「当たり前のこと」が当たり前になっていないのである。
 例えば、大津市のいじめ自殺事件を受けて、平野博文文部科学大臣(当時)は次のように言う。

 いじめが背景事情として認められる生徒の自殺事案が発生していることは大変遺憾です。子どもの生命を守り、このような痛ましい事案が二度と発生することのないよう、学校・教育委員会・国などの教育関係者が担うべき責務をいまいちど確認したいと思います。
 いじめは決して許されないことですが、どの学校でもどの子どもにも起こりうるものであり、その兆候をいち早く把握し、迅速に対応しなければなりません。文部科学省からの通知等の趣旨をよく理解のうえ、平素より、万が一の緊急時の対応に備えてください。(注1)

 平野大臣は「その兆候をいち早く把握し」と言う。「兆候」の「把握」を強調する。これは〈いじめの「兆候」を「把握」できなかったから、対応できなかった〉という「いじめの兆候」論である。(注2)
 しかし、大津市のいじめ自殺事件の実体はそのようなものではない。既に分かっていたいじめを解決できなかったのである。教師がいじめ行動を適切に抑制できなかったのである。
 第三者調査委員会の調査報告書には次のようにある。

 ア担任は.複数回,AがBから暴行を受けている場面を見ており.その度にBを制止しているし.クラスの生徒から「いじめちゃうん。」という言葉を聞いたり.Aがいじめられているので何とかして欲しいという訴えも聴いている。また,Aが.Bから暴行を受けたことについては.養護教諭をはじめとして他の教員から担任に報告か入っている。そして.担任自身も10月3日に養護教諭からBがAを殴ったことの報告を受けた際.「とうとうやりましたか。」と発言している……(注3)

 担任は「暴行を受けている現場を見て」いた。「いじめられているので何とかして欲しい」と生徒からの訴えを受けていた。「兆候」どころか、教師はいじめの明白な事実を知ってた。知っていたにも関わらず、解決できなかった。
 いじめ行動を適切に抑制できなかったのである。
 別の事例を見てみよう。鹿川裕史君が自殺した事件である。

 担任はトイレに捨てられていた裕史くんのスニーカーを洗ってやりながら、「ぼくにできるのこれだけだ」と言った。
 教師でも「バリケード遊び」〔椅子や机を積み上げ人を閉じこめる「遊び」〕をやられて泣きそうになるものもいた。担任もBに殴られて肋骨を痛めたことがあった。それから生徒になめられる。授業中に乱闘騒ぎがあっても知らんふりをしていた。(注4)

 教師は鹿川君がいじめられていることを知っている。スニーカーがトイレに捨てられていたことを知っている。洗いながら「ぼくにできるのはこれだけだ」と言ったのである。
 つまり、教師は知っていたにも関わらず、いじめを解決できなかった。教師自身が「殴られて肋骨を痛め」ても適切な手が打てない。「授業中に乱闘騒ぎがあ」っても止めることが出来ない。(注5)
 いじめ行動を適切に抑制できなかったのである。
 このように、知っていたにも関わらず、いじめを解決できなかった例は多い。
 深谷和子氏の調査では次のような結果が出ている。

 小学校でも中学校でも、「担任は『いじめ』を知っていた」とする者が三分の一、「たぶん知っていた」とする者を合わせると、八割を越える者が「担任はいじめを知っていた」と答えている。担任の知らない「いじめ」は一五%前後であり、「いじめ」は見えにくいと言っても、クラス内の「いじめ」の大半は担任の視野に入るものだ、ということになる。(注6)

 「八割を越える者が『担任はいじめを知っていた』と答えている」のである。
 教師はいじめを知っていた。しかし、それを解決できなかった。いじめ行動を適切に抑制できなかった。そのような事例が多くある。
 それにも関わらず、文部科学省は「兆候」の「把握」を強調する。〈いじめを知っていたにも関わらず、解決できなかった〉という事実は「無視」される。
 やはり、いじめ論において、「当たり前の考え」は当たり前になっていない。
 もう一度、述べる。いじめ行動を発生させないことが重要である。反いじめ行動を発生させることが重要である。それはいじめが集団の問題だからである。心の問題では無いからである。
 この「当たり前の考え」が当たり前になっていない。中核的な問題だと意識されていない。だから、詳しく論ずる必要があったのである。


(注1)

 「すべての学校・教育委員会関係者の皆様へ[文部科学大臣談話]」平成24年7月13日

(注2)

 「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法
  http://shonowaki.com/2015/03/post_121.html

(注3)

 大津市立中学校におけるいじめに対する第三者調査委員会『調査報告書』

(注4)

 武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、2004年、21~22ページ

(注5)

 「無法地帯」では、いじめが多発する
  http://shonowaki.com/2015/05/post_119.html

(注6)

 深谷和子『「いじめ世界」の子どもたち』金子書房、1996年、40ページ


2016年01月29日

【いじめ論34】反いじめ行動の顕在化が協力者を雪崩れ的に増やす

 生徒会が「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択する。挙手・起立・署名など「他の生徒に見える形」で採択する。
 このような宣言が採択されては、いじめをおこなうのは困難である。集団の大多数がいじめに反対を表明しているのである。その状態で、いじめをおこなうのはとても困難である。
 なぜ、困難なのか。それはいじめが社会的ジレンマだからである。
 もう一度、図3を見ていただきたい。
 
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 協力者の初期値がA点以上ならば、好循環が起きる。協力者が増えることによって、さらに協力者が増える。そして、最終的にはC点まで協力者が増える。
 逆に、A点以下ならば、悪循環が起きる。協力者が減ることによって、さらに協力者が減る。そして、最終的にはB点まで協力者が減る。
 最初の小さな違いが、最終的には大きな違いになる。それは、他人の行動を見て自分の行動を決めるからである。社会的ジレンマだからである。
 だから、初期値が重要なのである。小川幸男氏は「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させた。「入学した当初」に採択させた。これによって、協力者の初期値はA点以上になる。協力者がA点以上なのだから、好循環が起きる。協力者はC点まで増える。雪崩れ的に落ち着いた状態になる。
 既に論じたように、いじめには協力者(いじめ否定派)の数が目に見える形では分からない構造がある。これは、いじめと掃除とを比べてみると分かる。掃除では、掃除をしている者が協力者である。掃除をしていない者が非協力者である。〈掃除をしてるか、していないか〉は見て分かる。掃除では、目で見える形で協力・非協力が分かる。行動の形で協力・非協力が分かる。
 しかし、いじめでは、目で見える形で協力・非協力が分からない。行動の形で協力・非協力が分からない。いじめでは、いじめをする者やいじめを止める者は少ない。行動をしている者は少ない。大多数の者が傍観者なのである。傍観者は行動をしていない。行動をしていないので、目で見える形で協力・非協力が分からない。
 つまり、いじめでは協力者の実数は分からない。「予測」するしかないのだ。だから、「協力者の予測数」が問題なのである。生徒がどう「予測」しているかが問題なのである。
 そして、この「予測」には特定のバイアスがかかっている。「協力者の予測数」は、少なく見積もられがちなのである。それは、いじめ行動だけが発生するからである。いじめている様子だけが見えるからである。いじめ行動が発生し、それが咎められていない。そのような状態では、集団内でいじめが認められているように感じられる。傍観者が「いじめを容認」しているように感じられる。
 このように、「協力者の予測数」は目に見える行動によって大きく左右される。いじめ行動が発生していれば、「協力者の予測数」は少なくなる。〈いじめ容認派〉が多く見積もられる。
 これが〈情報の非対称性〉である。顕在的な行動の影響が大きくなるバイアスである。内面で「いじめは許せない」という「思い」を持っていても、それは見えないのである。
 「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させる実践は、このバイアスの悪影響を防止するものであった。さらに、バイアスを逆に利用するものであった。小川幸男氏は反いじめ行動を発生させたのである。宣言文の採択という形で発生させたのである。(注)
 宣言文の採択によって、「いじめは許せない」という「思い」が顕在化した。行動の形になった。この行動によって、「協力者の予測数」は多くなる。〈いじめ否定派〉が多く見積もられる。他者の行動の「予測」が大きく変わる。
 宣言の採択によって、生徒は「みんなはいじめをしないであろう」と「予測」するようになる。この「予測」が自分の行動を変える。生徒はいじめ行動をしないようになる。もともと、多くの生徒は、いじめを「自発的」におこなう訳ではないのだ。他者の行動に合わせているだけなのだ。
 「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させる影響は大きい。反いじめ行動を起こす影響は大きい。それはいじめが社会的ジレンマであるからである。いじめに〈情報の非対称性〉があるからである。宣言の採択によって〈情報の非対称性〉の悪影響を防止できるからである。
 反いじめ行動の顕在化によって、協力者を雪崩れ的に増やすことが出来たのである。


(注)

 「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させる実践は以前からあった。
 しかし、小川幸男氏はいじめを社会的ジレンマと捉え、〈情報の非対称性〉に対処することを意図して実践をおこなったのである。A点以上に協力者を維持することを意図して実践をおこなったのである。この点で小川幸男氏の実践は新しい。
 また、いじめを社会的ジレンマと捉える論理は、小川幸男氏が既に次の論文で論じている。
 
  明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年
 
 もちろん、私は小川幸男氏の論文を引用して論じている。しかし、長い文章の複数箇所に引用が分かれているので、解りにくくなっている。
 だから、この事実を特に注記しておく。


2016年01月22日

【いじめ論33】反いじめ行動を発生させることによって、いじめを抑止する

 顕在的な行動が集団に大きな影響を与える。行動は見える。しかし、内面の「思い」は見えない。〈情報の非対称性〉があるのである。
 だから、いじめ行動が放置されれば、〈いじめ容認派〉が多数派に見える。いじめ行動が目立って見えるからである。多くの生徒が「いじめは悪い」と思っていたとしても、〈いじめ容認派〉が多数派に見える。内面の「思い」は見えないからである。
 顕在的な行動が集団に大きな影響を与える。そのようなバイアスがある。
 このバイアスに対処する方法として次の二つを挙げた。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 行動のレベルで変化を起こすのである。
 既に、1については説明した。いじめ行動の発生を適切に抑制すれば、バイアスの悪影響は防止できる。いじめ行動が抑制されれば、当然〈いじめ容認派〉が多数派には見えない。
 以下、2を説明する。これは1と逆の発想である。顕在的な行動が大きな影響を与えるのならば、反いじめ行動を顕在化させてしまえばよい。反いじめ行動を発生させることが、集団によい影響を与える。反いじめ行動を顕在化すれば、〈いじめ否定派〉が多数派に見える。
 実は、初期値においては、多くの学級で〈いじめ否定派〉が多数派なのである。だから、それを顕在化させればよいのである。行動の形にすればよいのである。
 次の小川幸男氏の実践を見ていただきたい。反いじめ行動を発生させる実践である。「いじめや暴力をしない」ことを生徒に宣言させるのである。(注1)


 できれば入学した当初に、生徒の思いを吸い上げる形で「決意文」「宣言文」を作らせる。そして、その「決意文」「宣言文」を集団で採択させる。
 教師が「いじめはやめよう」と思いを語るだけでは、余り効果はない。自分たちで決意をした形をつくることが重要である。
 他の生徒も「いじめや暴力をしないと宣言したこと」をお互いに確認しあうことが大きな目的である。だから、採択の際には挙手をする、起立をする、あるいは署名をするなど賛成したことが他の生徒にも見える形を必ずとる。……


 小川幸男氏は次のような「宣言文」を採択させた。
 生徒会として「いじめ・暴力徹底追放宣言」を採択させた。(注2)


いじめ・暴力徹底追放宣言
            ―いじめ・暴力をなくし、住みよい学校を!―

私達、生徒会の基本方針は「住みよい学校をつくることです。私達生徒一人ひとりは、 誰もが「楽しい学校生活を送る権利」を持っています。 この「権〔原文のママ〕を侵害することは誰にもできません。
 しかし、“いじめ”や“暴力”という行為は、この「権利」を侵害するものです。これはいじめられた人の身になって考えれば、よく分かることだと思います。
ですから、“いじめ”や“暴力”を許してしまっては「住みよい学校をつくる」ことはできません。だからこそ、私達生徒は一人ひとりを互いに大切にし合い、「住みよい学校をつくる」ため、“いじめ”や“暴力”を徹底的に追放しなければなりません。
 よって、Y中学校生徒会は次の事を宣言します。
1 どんな理由があっても、“いじめ”・“暴力”を許さない学校をつくっていこう。
2 不正なことには、「やめよう」と言おう。
3 問題が起こった時は“暴力”・“力関係”で解決せず、クラスで討議し、自分達の力で解決していこう。

                 平成6年1月29日
                  Y中学校生徒会


 このような「いじめ・暴力徹底追放宣言」の採決は有効である。
 いじめに反対する宣言を生徒自身が採択したのである。挙手・起立・署名などの行動が「他の生徒に見える形」で採択したのである。
 これは反いじめ行動である。生徒集団はいじめに反対している。その事実を行動の形で顕在化したのである。
 反いじめ行動を発生させることは重要である。反いじめ行動を発生させることには次のような効果がある。

 〈いじめ否定派〉が多数派であることを見せる。

 いじめに反対する宣言が挙手・起立・署名など「他の生徒に見える形」で採択された。集団の大多数がいじめに反対している事実が示されたのである。
 通常、「いじめは悪い」という内面の「思い」は、行動として顕在化することはない。いじめを傍観する傍観者が大多数を占めるからである。しかし、宣言を採択する形式を取ることで、反いじめ行動が顕在化したのである。
 反いじめ行動が見えるようになった。それによって、学級の大多数が〈いじめ否定派〉にカウントされるようになる。〈いじめ否定派〉と見なされるようになる。生徒は「〈いじめ否定派〉が多数派である」と感じるだろう。
 このような宣言が採択されては、いじめをするのは困難である。
 いじめは社会的ジレンマ現象である。いじめる者は、自分たちの行動が集団に容認されていると感じるからいじめをおこうなうのである。それが、実際は少数派だったらどうだろうか。集団に容認されていないことが分かったらどうだろうか。いじめを続けるのは難しいだろう。
 〈いじめ否定派〉が多数を占める中では、いじめをおこなうのは困難である。だから、〈いじめ否定派〉が多数派であるという事実を見えるようにすることが重要である。
 「いじめや暴力をしない」という宣言を採択することによって、〈いじめ容認派〉が多数派に見えるバイアスに対処することが出来た。顕在的な行動が集団に与える影響が大きいというバイアスに対処することが出来た。〈情報の非対称性〉に対処することが出来た。
 反いじめ行動を発生させることによって、いじめを抑止できたのである。


(注1)

  小川幸男「社会的アプローチによる世論づくり」『楽しい学級経営』明治図書、1994年10月


(注2)

  明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年


2015年12月18日

【いじめ論32】教師の存在がいじめ行動を抑制する

 いじめ行動は適切に抑制されなければならない。いじめ行動を抑制するのは、〈教師の役割〉である。監督者の役割である。
 教師が〈教師の役割〉を果たさないと、集団はいじめ状態に陥る。いじめ行動を放置すると、集団はいじめ状態に陥る。教師の「不在」がいじめを発生させるのである。
 前回、教師がいじめ行動が抑制できなかった事例を挙げた。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 教師はこのいじめ行動を抑制できなかった。指導できなかった。
 このいじめ行動をどう抑制すればよかったのか。どう指導すればよかったのか。
 思考実験してみよう。(注1)
 まず、第一声はこうである。気迫を込めて言う。

 大樹君、立ちなさい。
 今言ったことをもう一度言ってみなさい。

 通常は、大樹君は立ったまま黙るはずである。大樹君は、ついかっとなって言った。しかし、落ち着いてみると「マズいことを言ってしまった」と自分で気がつくのである。感情モードから思考モードに変わるのである。(注2)
 黙っているので、次のように追い打ちをかける。

 どうしたのですか。
 今言ったばかりです。
 覚えているでしょう。
 言ってください。

 大樹君はさらに黙り続ける。
 大樹君がとても申し訳なさそうしていたら、助け船を出す。(注3)

 黙っているということは悪いことをしたと思っているのですね。

 この言葉に大樹君が頷いたら言う。

 悪いことをしたと分かったのですね。
 では、俊介君に謝りなさい。

 謝ったら、俊介君に聞く。

 俊介君、いいですか。

 俊介君が頷いたら、大樹君の指導は完了である。
 続いて、全体に対して指導をする。

 人のお家の仕事をとやかく言って、相手をバカにするのは差別です。
 先生は、差別は絶対に許しませんよ。

 こう言って、全体に対していじめ行動は許さないという宣言をするのである。
 大筋でこのような流れの指導になるだろう。これで必要な指導がされた。
 大樹君の発言を許さず、撤回させる。悪いと認めさせる。そして、俊介君にきちんと謝罪させる。
 この指導で学級の正当な秩序が保たれる。教師が〈教師の役割〉を果たしたのである。いじめ行動を適切に抑制したのである。これが教師が存在する状態である。監督者がいる状態である。
 先の事例と比べて欲しい。先の事例では、教師が〈教師の役割〉を果たせなかった。いじめ行動を放置してしまった。教師が「不在」であった。監督者がいない状態であった。
 その結果、坂を転げ落ちるようにいじめ状態に陥ってしまった。「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 「いじめの原因はいじめ」である。いじめ行動を放置すれば、いじめ状態に陥ってしまう。だから、いじめ行動を適切に抑制しなければならない。
 そのためには教師が〈教師の役割〉を果たす必要がある。教師が存在する必要がある。教師の存在がいじめ行動を抑制するのである。


(注1)

 教師の指導中にこのような発言がされること自体が異常な事態である。
 だから、本来は、このような発言がされないように前もって手を打っておくべきである。
 しかし、この異常な発言をどう指導したらいいかを考えることは有益である。いじめ行動の抑制の例を示すことができるからである。
 だから、これは思考実験である。


(注2)

 感情モードを思考モードに変えるためには、静寂が必要である。緊張した雰囲気が必要である。静まりかえった教室に一人で立っているから、自分の言動を反省できるのである。だから、教室が騒がしい時には、静かにさせる必要がある。静かにさせるには様々な方法がある。
 しかし、その前提として、教師が差別に対して〈強い怒り〉を持っていることが重要である。教師の〈強い怒り〉は子供に伝わるのである。


(注3)

 この段階で大樹君が反省の色を見せない場合は、さらなる手立てが必要である。
 例えば、次のようにである。

 大樹君が言ったことがよいと思う人は手を挙げなさい。ほら。誰も手を挙げていないよ。みんな、君がしたことが悪いと言っているよ。

 集団が大樹君の言動を支持していないことを顕在化させるのである。

2015年12月11日

【いじめ論31】教師の「不在」がいじめを発生させる

 前回、休み時間に教師が存在するといじめが少なくなる事実を述べた。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめ行動を抑制するのである。
 この「教師」とは〈教師の役割〉のことである。「教師の存在」とは、「教師」と呼ばれている者がその場にいることではない。その場で、教師が〈教師の役割〉を果たしていることである。
 教師が〈教師の役割〉を果たしていない場合は、当然、いじめ行動は抑制されない。
 次の事例を見ていただきたい。教師が〈教師の役割〉を果たしていない事例である。教師が「不在」である事例である。

 学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった。
 ……〔略〕……
 昨日、探りを入れた結果、「この先生ならいける」と、子どもたちは思ったのであろう。大樹君は昨日以上に、私が話している時に、口をはさむようになる。大声で、全然関係のない話をし始める。
 私が注意しても、聞こうとしない。逆に、「うるさいなー。先生、いちいち注意するなよ」というようなふてくされた態度をとる。
 見かねた俊介君が、「大樹君、静かにしいや!」と勇気を出して、注意してくれる。しかし、その注意に対して、
 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」
 (俊介君のおうちではおじいさんが豆腐屋さんをしておられた)
 あっけに取られた。「小学3年生になったばかりの子どもやで。一言注意されたぐらいで、ここまで言うのか?」と思った。
 勇気を出して注意をしてくれた俊介君。罵声を浴びせられ、「先生、何とかして! 助けて!」という目で私を見つめた。
 でも、私は何もできなかった。動けなかった。大樹君に対してどうしたらいいのか、俊介君に対してどうしたらいいのか、まったくわからなかった。
 でも、他の子どもたちはしっかりみていた。
 「この先生、あかんわ」
 「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」
 「あーあ、情けな」
 というような雰囲気が子どもたちの間を流れたことだけは、教師二日目の私にもわかった。(注1)

 教師が全く〈教師の役割〉を果たしていない。いじめ行動を抑制していない。
 この教師は子供に負けている。これでは、この教師に従うより、乱暴な大樹君に従った方が安全である。教師に従うのは危険である。「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」という教師に従うのは危険である。
 この学級には、実質的に教師は存在しない。〈教師の役割〉を果たす者がいないのである。「ひどいことした」者を注意をして、学級の秩序を保つ者がいないのである。監督者がいないのである。
 監督者がいなければ、学級が荒れる。この事例では「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 〈教師が教師として存在する学級〉ではいじめは発生しにくい。しかし、〈教師が教師として存在しない学級〉ではいじめが発生する。〈教師が「不在」である学級〉ではいじめが発生する。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 このような発言を許してはいけない。この発言自体がいじめ行動なのである。
 だから、教師はこの発言を撤回させなければならない。大樹君にこの発言の非を認めさせ、俊介君に謝罪させなければならない。(注2)(注3)
 それが出来るから学級の正当な秩序が保たれるのである。それが出来るから教師なのである。〈教師の役割〉を果たすから教師なのである。子供に負け、いじめ行動を放置しているようでは、それは実質的に教師ではない。

 「この先生、あかんわ」
 「あんなひどいことしたはんのに注意もできひんわ」
 「あーあ、情けな」
 というような雰囲気が子どもたちの間を流れた。

 これはもう実質的に教師として認められていないのである。監督者として認められていないのである。当然、子供はこの教師を無視して行動するようになる。結果として、学級は弱肉強食の状態になる。乱暴な大樹君のやりたい放題になる。
 先に私は次のようなスローガンを述べた。

 いじめの原因はいじめである。
 だから、いじめ行動が適切に抑制されなければならない。

 この事例では、教師が〈教師の役割〉を果たせず、いじめ行動を抑制できなかった。いじめ行動を放置してしまった。
 いじめ行動を放置していては、〈いじめ容認派〉が多数派に見えてしまう。乱暴な大樹君の行動だけがはっきりと見えるのだから、〈いじめ容認派〉が多数派に見えるのは当然である。人は顕在的な情報に反応するのである。いじめ行動がおこなわれ、それが通ってしまっている。教師は注意すらしていない。学級の成員に見えているのはそのような状態である。
 これでは、坂を転げ落ちるようにいじめ状態に陥ってしまう。現に、この事例では「学級が騒乱状態に入るまで、三日しか必要としなかった」のである。
 注目していただきたい事実がある。それは、乱暴な大樹君に対して俊介君が注意をしている事実である。つまり、この段階では協力者が存在したのである。〈いじめ否定派〉が存在したのである。教師が大樹君のいじめ行動を適切に抑制していれば、〈いじめ否定派〉が多数派に見えたはずである。大樹君に自分の発言の非を認めさせ、俊介君に謝罪させていれば、学級の正当な秩序が保たれたはずである。
 しかし、教師はいじめ行動を適切に抑制できなかった。大樹君の行動を適切に指導できなかった。それによって、〈いじめ容認派〉が多数派に見える状況になってしまった。非協力者が多数派に見える状況になってしまった。結果として、学級は三日で「騒乱状態」になってしまった。
 教師が「不在」であることが集団の状態を変える。教師が「不在」であると、いじめ行動は抑制されない。すると、〈いじめ容認派〉が多数派のように見えてしまう。いじめ行動は顕在的だからである。そのようないじめ行動が放置されては、集団はいじめ状況に陥っていく。この意味で、「いじめの原因はいじめ」である。
 だから、いじめ行動は適切に抑制されなければならない。いじめ行動を抑制するのは、〈教師の役割〉である。監督者の役割である。
 教師が〈教師の役割〉を果たさず、いじめ行動を放置した時、集団はいじめ状態に陥る。教師の「不在」がいじめを発生させるのである。


(注1)

 向山洋一編著『学級崩壊からの生還』扶桑社、1999年、126~128ページ


(注2)

 この発言がされること自体が異常事態である。

 「うるさいんじゃ。かっこつけるな! あほの俊介! おまえなんかにいわれたくないんじゃ! この前、おまえのとこで豆腐買ったら、腐ってたわ。くさったとーふー」

 だから、この発言をどう指導するかは本筋ではない。この発言を防止するためにはどうすればよかったのかが本筋である。
 この発言の前に問題があるはずである。

 ……〔略〕……大樹君は昨日以上に、私が話している時に、口をはさむようになる。大声で、全然関係のない話をし始める。
 私が注意しても、聞こうとしない。逆に、「うるさいなー。先生、いちいち注意するなよ」というようなふてくされた態度をとる。

 「昨日」の段階で「注意」が必要だったのである。教師が話している時に「口をはさむ」のを許してはいけなかったのである。
 また、指導自体が私語を許す「ぬるい」構造になっているのである。


(注3)

 指導時間内でおこなわれたいじめを教師が注意・指導できない事態は深刻である。
 これは、教師がいない休み時間にいじめ行動がおこなわれたのとは意味が違う。
 つまり、監督者であるべき教師に監督能力が無いことが明らかになってしまったのである。教師の能力の無さを学級の成員全員が見てしまったのである。教師が「不在」であることが明らかになってしまったのである。
 これでは、三日で「騒乱状態」になるのも当然である。


2015年12月04日

【いじめ論30】休み時間に教師が存在するといじめは抑止される

 ノルウェーの都市ベルゲンでの調査を基にダン・オルウェーズは言う。

 ベンゲン研究では、休み時間および昼休みにおける監督方法といじめとの関係を調べることができた。この研究に参加した約四〇の小学校および中学校において、こうした時間に『生徒と一緒にいる教師の数』といじめの件数との間には、はっきりしたマイナスの関連性が認められた。つまり、こうした時間に監督している教師の数(生徒一〇〇人あたりの教師の数)が多ければ多いほど、その学校のいじめの件数は少なかったのである。(注1)

 休み時間に「生徒と一緒にいる教師の数」と「いじめの件数」とは「はっきりしたマイナスの関連性」があった。休み時間に教師がいるといじめは少なくなる。教師がたくさんいればいるほど少なくなる。
 この事実をどう解釈するか。
 これは、いじめが社会的ジレンマである証拠である。先に私は次のように述べた。

 1 いじめは社会的ジレンマである。
 2 いじめを予防するためには過半数以上の「協力者」が必要である。
 3 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉がある。
 4 いじめ行動を放置すると傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされ、過半数以上の「協力者」が維持できなくなる。いじめ状態に陥ってしまう。
 5 だから、いじめ行動を抑制する必要がある。また、反いじめ行動を促進する必要がある。

 休み時間に教師が存在するといじめが少なくなる事実はこの理論と整合している。
 私は〈いじめ行動を抑制すれば、いじめ状況は発生しない〉という趣旨を述べていた。
 教師が存在する状況は、正にいじめ行動の抑制である。教師が存在する事実が集団の状態を変える。
 教師の「監督」下でいじめをするのは難しい。いじめをすれば教師に注意される。いじめをするのが難しいので、いじめ行動は発生しない。いじめ行動が発生しなければ、傍観者は〈いじめ容認派〉と見なされない。過半数以上の「協力者」を維持できるので、いじめ状態に陥らない。
 教師の存在がいじめを少なくする事実はこのように解釈できる。いじめは社会的ジレンマなのである。集団の問題なのである。
 この事実を基にオルウェーズは次のような対策を提案する。

 いじめの大部分は、登下校時より学校内で起きる。すでに見たように、休み時間や昼休みの時間に比較的多くの教師が生徒たちと一緒にいる学校では、いじめはあまり起きない。したがって、適当な数の外部の大人(訳者注-たとえばPTAのメンバー)が昼休み時間に生徒と一緒に過ごすことや、学校側が生徒の活動について適切に監督することが重要である。このことは昼休みの時間(多くの学校では、大人の監督なしに生徒たちは完全に野放しにされている)にもあてはまる。このことを実行する一つの確実な方法は、休み時間や昼休みの監督が円滑に行なわれるようなはっきりした計画を作ることである。(注2)(注3)

 つまり、オルウェーズは次のような論理を述べている。

 a いじめは主に休み時間に起こる。
 b 休み時間に教師がいれば、いじめは発生しにくい。
 c だから、教師(またはそれに代わる大人)が休み時間に子供を「監督」すればよい。

 これは具体的な事実を基にした論理である。そして、a~cが密接に繋がっている。論理の飛躍が無い。
 休み時間に教師が存在するといじめが抑止される。
 これは明確な事実である。この明確な事実は、いじめという複雑な現象を理解するための手がかりになる。(注4)
 いじめを社会的ジレンマと捉える理論はこの事実と整合している。社会的ジレンマとしてまとめよう。

 1 休み時間に教師(またはそれに代わる大人)がいるといじめ行動が発生しにくい。
 2 いじめ行動が発生しないならば、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされない。
 3 よって、教師が存在するといじめ状況に陥りにくい。

 いじめを社会的ジレンマと捉える理論は、いじめを集団の問題と捉える理論である。集団の状態と捉える理論である。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめ行動を抑制する。いじめ行動の抑制が傍観者の解釈を変える。傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされるのを防止する。〈いじめ容認派〉が多数派と見なされるのを防止する。それによって、いじめ状況に陥ることがなくなる。
 教師の存在が集団の状態を変える。教師の存在がいじめを抑止するのである。


(注1)

 ダン・オルウェーズ著 松井賚夫・角山剛・都築幸恵訳『いじめ こうすれば防げる』川島書房、1995年、45ページ

(注2)

 同、96~97ページ

(注3)

 原著では傍点の部分を強調に変えた。

(注4)

 確かに、〈休み時間に教師が存在するといじめが抑止される〉のは当たり前の事実である。しかし、文部科学省を含めてほとんどの論者が、この当たり前の事実を踏まえていないのである。
 文科省は、いじめを防ぐために「道徳教育」をおこなうと言う。それは、いじめをおこなう者の道徳意識が低いと考えるからである。
 しかし、既に述べたように、それは間違った論理である。また、何の成果も出ていない。「道徳教育」によって、いじめが減ったというエビデンスはない。
 それに対して、オルウェーズの論理は現実にいじめを減らしているのである。そして、その論理には、「道徳意識」も「心」も想定されていない。いじめを減らすためには「道徳意識」も「心」も必要なかったのである。
 いや、「道徳意識」や「心」を想定すること自体が問題を見えにくくしているのである。

2015年11月27日

【いじめ論29】行動レベルでの変化を起こすことで傍観者を〈いじめ否定派〉にする

 いじめ行動が発生している状況では、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされる。〈いじめ容認派〉と見なされる。そして、傍観者の割合は九割に及ぶ。傍観者は圧倒的な多数派なのである。
 その九割が〈いじめ容認派〉にカウントされては、いじめ状態に陥ってしまう。図3のBの状態になってしまう。社会的ジレンマに陥ってしまう。
 しかし、傍観者が〈いじめ否定派〉にカウントされれば、落ち着いた状態になる。図3のCの状態になる。
 傍観者の内面は不明なのだから、傍観者はどちらにもカウントされる可能性がある。傍観者は〈いじめ容認派〉と見なされる可能性がある。逆に、〈いじめ否定派〉と見なされる可能性もある。傍観者がどちらにカウントされるかで大きな違いが生じる。いじめ状態になるか、それとも落ち着いた状態になるかの違いが生じる。
 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉が存在する。いじめ行動は見える。しかし、いじめに否定的な内面は見えない。そのため傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされてしまう。バイアスがかかるのである。
 このバイアスに対処する方法は原理的に次の二つである。

 1 いじめ行動を発生させない。
 2 反いじめ行動を発生させる。

 顕在的な行動が集団に大きな影響を与える。はっきと見える行動によって、集団の状態が大きく変わる。だから、行動レベルでの変化を起こせばよいのである。
 いじめ行動の発生を抑止すれば、いじめ行動が見えなくなる。それによって、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされなくなる。〈いじめ容認派〉と見なされなくなる。
 また、反いじめ行動の発生を促進すれば、反いじめ行動が見えるようになる。それによって、傍観者は〈いじめ否定派〉にカウントされるようになる。〈いじめ否定派〉と見なされるようになる。
 顕在的な行動が傍観者の解釈を変える。傍観者が〈いじめ容認派〉に入れられるか、〈いじめ否定派〉に入れられるかを変える。「協力者の予測数」を変える。
 つまり、いじめを予防するためには、傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされるのを防止すればよい。〈いじめ否定派〉にカウントされるようにすればよい。「協力者の予測数」を過半数以上にすればよい。図3のA点以上にすればよい。
 そのためには、上の1・2の状況を作ればよい。いじめ行動を発生させず、反いじめ行動を発生させるのである。
 ここまでの論述をまとめよう。

 1 いじめは社会的ジレンマである。
 2 いじめを予防するためには過半数以上の「協力者」が必要である。
 3 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉がある。
 4 いじめ行動を放置すると傍観者が〈いじめ容認派〉と見なされ、過半数以上の「協力者」が維持できなくなる。いじめ状態に陥ってしまう。
 5 だから、いじめ行動を抑制する必要がある。また、反いじめ行動を促進する必要がある。

 いじめにおいては、大多数を占める傍観者の内面は不明である。だから、顕在的な行動の影響が大きくなる。そのような状況下では、いじめ行動が発生すること自体が協力者数の「予測」を大きく左右する。いじめ行動が放置されていれば、子供は集団内でいじめ行動が容認されていると「予測」する。〈いじめ容認派〉が多数派であると「予測」する。いじめ行動が多発する。結果として、いじめ状態に陥ってしまう。だから、いじめ行動が適切に抑制される必要がある。
 スローガンとして述べれば次のようになる。

 いじめの原因はいじめである。
 だから、いじめ行動が適切に抑制されなければならない。

 いじめ状態の「原因」はいじめ行動である。いじめ行動が放置されていると、子供はいじめが容認されていると思ってしまう。〈いじめ容認派〉が多数派だと思ってしまう。〈情報の非対称性〉があるからである。
 その結果、「協力者予測数」が図3のA点以下になってしまう。そして、坂を転げ落ちるようにいじめ状態に陥ってしまう。
 それを防止するためには、行動レベルの変化が必要である。いじめ行動を抑制し、反いじめ行動を促進するのである。
 行動レベルの変化を起こすことが〈情報の非対称性〉のバイアスへの対処である。〈いじめ否定派〉が多数派であることを傍観者に「見せる」のである。

2015年11月20日

【いじめ論28】大多数を占める傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされてしまう

 いじめを予防するためには過半数以上の協力者を維持することが必要である。社会的ジレンマに陥らないためには一定数以上に協力者を維持することが必要である。図3のA点以上に協力者を維持することが必要である。
 しかし、いじめには〈情報の非対称性〉がある。いじめを容認する側の情報だけが入ってくる。いじめ行動は見える。しかし、「いじめは悪い」と思っている内面は見えない。
 つまり、いじめにおいては、協力者の数とは「協力者の予測数」なのである。この点で、いじめはクールビズ問題とは違う。クールビズ問題ならば、ネクタイをしている者の数は一目で分かる。協力者の実数が分かる。しかし、いじめに反対の立場である者の数は一目では分からない。協力者の数は一目では分からない。「予測」するしかない。だから、いじめにおいては「協力者の予測数」なのである。
 「予測」において問題になるのが傍観者である。傍観者をどちらの側と見るかで、結果が大きく変わってくる。
 傍観者の割合は大きいのである。(注1)
 深谷和子氏の調査によると、いじめを傍観した者は九割に達する。


 まず、「クラスのいじめをやめさせようとして、あなたは何かしましたか」と聞いてみた(表4ー1)。「いじめ」の解決に向けて何もしなかった者、すなわち全くの傍観者だった者は、小学校で六一%、中学校で六七%にものぼる。
 bokansha.jpeg

 むろん「多少働きかけれみたが、途中で断念した」と言っている者も二、三割いるが、個別に聞き取りをしてみると「やめなよ」ぐらいで、形勢不利とみてか、早々と断念しているケースが多く、これもほとんど傍観に近い。したがって、先の全然しなかった者と合わせると、九割にもなる。友だちの窮状に対して、何とかしようと懸命に働きかけた者は、たったの一割でしかない。
 傍観者はいじめっ子たちにとって、その行為を支持してくれている強い味方なのだから、当事者以外の九割から支持されている「いじめ」であれば、大人が何を言おうと彼らが勢いづくのは当然だろう。(注2)


 いじめを傍観した者は九割に及んでいる。
 傍観している者は、内面はいじめに否定的かもしれない。しかし、傍観している者の内面は見えない。
 だから、「いじめっ子」には「その行為を支持してくれている」ように思える。「強い味方」のように思える。また、傍観者にも、他の傍観者が「その行為を支持」しているように思える。
 いじめ行動は見える。しかし、傍観している者の内面は見えない。すると、いじめを「支持」している者が九割いるように見える。「いじめっ子」にもそう見えるし、傍観者にもそう見える。
 いじめ行動が発生している状況では、傍観者は〈いじめ容認派〉にカウントされる。そして、傍観者の割合は大きい。傍観者の割合は九割に及ぶ。
 つまり、いじめ行動が発生しそれを放置した場合、九割以上の〈いじめ容認派〉が存在するように思えてしまう。協力者が一割以下だと思えてしまう。
 これでは、いじめ状況に陥ってしまう。図3のBの状態になってしまう。社会的ジレンマに陥ってしまう。
 〈情報の非対称性〉によって、〈いじめ容認派〉の情報だけが伝わる。その結果、九割を占める傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされてしまう。それによって、加速度的にいじめが蔓延するようになる。いじめ状況に陥ってしまう。
 いじめ予防には過半数以上の協力者が必要である。しかし、いじめにおいては協力者の数とは、実際には「協力者の予測数」である。傍観者の内面は見えないからである。さらに、いじめには〈情報の非対称性〉がある。だから、「予測数」にはバイアスがかかる。いじめ行動だけが見えるため〈いじめ容認派〉が過大に見積もられる。大多数を占める傍観者が〈いじめ容認派〉にカウントされてしまうのである。


(注1)

 いじめを加害者・被害者・観衆・傍観者の「四層構造」と捉えたのは森田洋司・清水賢二氏である。『いじめ ――教室の病』(金子書房、1986年)を参照。


(注2)

 深谷和子『「いじめ世界」の子どもたち』金子書房、1996年、52ページ

2015年10月23日

【いじめ論27】〈情報の非対称性〉によって、いじめが発生する

 いじめは社会的ジレンマである。しかし、いじめは一般的な社会的ジレンマではない。いじめには特殊な傾向がある。どのような特殊性があるのか。まず、それをはっきりさせよう。
 そのために、いじめとクールビズ問題とを比べる。クールビズ問題は一般的な社会的ジレンマである。一般的な社会的ジレンマと比較すると、いじめの特殊性が分かりやすくなる。
 クールビズ問題においては協力・非協力が一目で分かる。その人がネクタイを締めていれば、クールビズに非協力である。締めていなければ協力である。ネクタイを締めているか、いないかは一目で分かる。それによって、クールビズに非協力か、協力かが一目で分かる。つまり、協力者の割合は一目で分かる。
 それに対して、いじめにおいては協力・非協力が一目で分からない。いじめをしている者がいたとする。もちろん、いじめをしている者はいじめに賛成の立場である。しかし、その他の大多数はどうなのか。多くの場合、大多数の者は何もしないであろう。この大多数の者はいじめに賛成の立場なのか。そうとは限らない。いじめに批判的である場合も多い。「いじめは悪い」と思っている場合も多い。しかし、それは他の者には分からない。いじめに対する賛否が一目では分からないのである。つまり、いじめにおいては協力者の割合が一目で分からない。いじめに対して批判的な者の割合は一目で分からない。
 誰かがいじめをしている行動は見える。しかし、いじめに批判的な内面の「思い」は見えない。いじめを扇動する声は聞こえる。しかし、いじめに批判的な内面の「声」は聞こえない。
 つまり、いじめ状況においては、いじめを容認する側の情報だけが伝わるのである。いじめに批判的な側の情報は伝わらないのである。「いじめは悪い」と思っている側の情報は伝わらないのである。
 まとめよう。


 クールビズ問題 → 協力者、非協力者の両方の情報が伝わる
 いじめ       → 非協力者の情報だけが伝わる


 クールビズ問題においては、クールビズに協力している側の情報も、協力していない側の情報も両方伝わる。しかし、いじめにおいては、協力していない側の情報だけが伝わる。
 いじめには、このような〈情報の非対称性〉がある。いじめを容認する側(非協力者)の情報しか伝わらないのである。「いじめは悪い」と思っている側(協力者)の情報は伝わらないのである。(注1)(注2)
 この〈情報の非対称性〉がいじめの特殊性である。いじめは特殊な社会的ジレンマなのである。
 いじめには〈情報の非対称性〉がある。この事実から、次の重要な原理を導き出すことが出来る。

 大多数の子供が「いじめは悪い」と思っている状況下でも、いじめは発生しうる。

 子供は不完全な情報を基に行動を「選択」している。いじめを容認する側の情報だけを基に行動を「選択」している。非協力者の情報だけを基に行動を「選択」している。
 いじめ行動だけが見える。いじめを容認する行動だけが見える。しかし、「いじめは悪い」と思っている内面は見えない。つまり、本当は「いじめは悪い」と思っている方が多数派であっても、それは分からない。傍観者が「いじめは悪い」と思っていても、それは見えない。
 このような状況下では、いじめを容認する側の割合が過大に見積もられる。現実において見えているのは、いじめ行動がおこなわれ、それを咎める者がいない状況である。その状況では、子供はいじめが容認されていると判断するだろう。何もしない傍観者は、いじめを容認する側にカウントされるだろう。
 このような不完全な情報を基に行動を「選択」すれば、偏りが出る。いじめを容認する側の情報を基に行動を「選択」すれば、いじめを容認する「選択」をすることになる。非協力を「選択」することになる。
 だから、集団内の大多数の子供が「いじめは悪い」と思っていても、いじめは発生しうる。「いじめは悪い」と思っている多数派の「思い」は見えず、いじめ行動だけが見えるのだから。
 このような構造によって、いじめが発生する。それは情報が不完全だからである。一方の情報だけが入るからである。その情報を基に行動を「選択」しているからである。
 〈情報の非対称性〉によって、いじめが発生するのである。


(注1)

 もちろん、いじめを止めようとする者がいれば、それは見える。協力者の情報は伝わる。
 しかし、そのような行動をしない状態では、「いじめは悪い」と思っている事実は伝わらない。協力者の情報は伝わらない。


(注2)

 先の論文で小川幸男氏は次のように述べている。

 「暴力」や「いじめ」をしないという行為が意識されずに、「暴力」や「いじめ」をするという行為のみ意識されるため、少数の非協力者が「暴力」や「いじめ」の行為をしただけで、実際よりも多くの者が「暴力」や「いじめ」の行為を感じとってしまう。そのことが、非協力状態が広がりやすくなる原因となっている。

 小川幸男氏は、これを「一面性のできごと」という用語で説明している。


2015年10月16日

【いじめ論26】いじめ観のパラダイム転換

 注目していただきたい事実がある。それは「いじめの〈発生のメカニズム〉」を説明するために心的な用語を全く使っていない事実である。「いじめの解決が難しい理由」「いじめの予防」を論ずるために心的な用語を全く使っていない事実である。「心」「道徳意識」などの用語を全く使っていない事実である。
 この連載の最初で、私は次のように述べた。

 いじめについて広く信じられている考えがある。それは「悪い心がいじめを引き起こす」という考えである。「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えである。
 この考えはあまりにも一般的すぎて、教育界で疑われることはなかった。その考えを信じている者も、特定の考えを「信じている」と自覚すらしていないだろう。

 ……〔略〕……

 この考えは、広く信じられている。いじめは心・道徳意識の問題であるという考えは、多くの人が信じ、疑いすらしない考えなのである。
 しかし、この一般的な考えは、正しいのだろうか。いや、正しくない。

 ……〔略〕……

 いじめが、心・道徳意識の問題であるという考えは間違っているのだ。それは部分的な間違いではない。根本的な間違いである。
 だから、「悪い心がいじめを引き起こす」・「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えは、全く別の考えに変えなくてはならない。

 ここまでの論述で「全く別の考え」を示した。
 それは〈いじめは社会的ジレンマである〉という考えである。
 いじめを止めるのは危険である。それは、自分がいじめのターゲットになるかもしれないからである。だから、個人としてはいじめを傍観する方が得である。しかし、全員が傍観していじめが横行する学級になっては全員が損をする。
 一人ひとりが個人として得な「選択」した結果、全体としては全員が損をする状態になってしまう。これが社会的ジレンマである。
 いじめを社会的ジレンマと捉え、詳しく説明した。いじめを社会的ジレンマの〈発生メカニズム〉の理論モデルで説明した。いわゆる「臨界質量」の理論モデルで説明した。
 概略をもう一度述べよう。
 協力者の数が臨界点(図3のA点)以下の場合は、次のような悪循環に陥る。

 悪循環  45%協力 → 35%協力 → 22%協力 → 7%協力

 45%しか協力していないのを見て10%が非協力に転ずる。それを見て11%が非協力に転ずる。最終的には7%しか協力しない状態になる。
 いじめとはこのような状態である。7%しか協力していない状態である。
 この状態を変えるのは難しい。なぜか。それはお互い影響を与え合って陥った状態だからである。
 もし、協力者を35%に増やしたとしても、また同じ原理で7%に戻ってしまう。7%は安定した状態なのである。
 だから、いじめ状態の解決は難しい。いじめの解決のためには臨界点を超える協力者が必要になる。7%の協力者を過半数以上に増やさなくてはならない。
 そのようにいじめの解決は難しいのだから、予防が重要になる。予防とは臨界点以上に協力者を維持することである。逆に言えば、非協力者(いじめを傍観する者)を一定数以上に増やさないことである。協力者を一定数以上に増やすことである。図3のA点以上に増やすことである。
 ある一定数以上に協力者を維持することが大切である。いじめ状態に陥ることを予防するためには、傍観者を増やさないことが大切である。いじめ行動を起こさせないことが大切である。
 私は、既に次のようなスローガンを掲げていた。

 いじめの原因は心ではない。
 いじめの原因はいじめである。

 より正確言えば、いじめ状態の「原因」はいじめ行動の発生である。いじめは周りの人間の行動を環境として生じる状態である。いじめは社会的ジレンマである。
 そう考えるから、いじめ予防のイメージがわく。いじめ対策のイメージがわく。それは、過半数以上に協力者を増やすというイメージである。A点以下にしてはまずいというイメージである。
 そのようなイメージは、いじめを「心」「道徳意識」の問題と考えていては出てこない。
 先の引用に続いて私は次のように述べていた。

 間違ったいじめ観を基にしていては、有効ないじめ対策を作ることは出来ない。間違ったいじめ観は、歪んだ基礎のようなものである。歪んでいるので、その上に建物を建てることは出来ない。建てようとすると倒れてしまう。
 有効な対策のためには、正しいいじめ観が必要である。
 つまり、いじめ観のパラダイム転換が必要なのである。
 以下の論述で私がおこないたいのは、そのようなパラダイム変換である。いじめを捉える枠組み自体を変えることである。いじめを心・道徳意識の問題と捉える枠組みに代わる新しい枠組みを提供することである。

 ここまでの論述で、「いじめ観のパラダイム転換」をおこなった。「間違ったいじめ観」を正した。「新しい枠組みを提供」した。
 それによって、「いじめ対策を作る」ことが出来るようになった。「建物を建てる」ことが出来るようになった。
 どのように「建物を建てる」のか。
 今後、詳しく論じていく。

2015年10月09日

【いじめ論25】いじめの予防を理論モデルで説明する

 前回、いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルを使って、いじめの解決が難しい理由を説明した。いじめの解決のためには「7%協力 ⇒ 65%協力」のような大きな変化が必要なのである。これは非常に大きな変化である。いわば学級で「革命」が起きたようなものである。
 いじめを解決するためには、7%しか協力していない状態を過半数が協力する状態に変える必要がある。しかし、そのような大きな変化を起こすのは大変難しい。それは「革命」を起こすようなものなのである。
 社会的ジレンマを解決するのは難しい。いじめを解決するのは難しい。「革命」は簡単には起こせない。
 だから、いじめの解決は難しい。それならば、最初からいじめを発生させなければよい。社会的ジレンマを発生させなければよい。
 つまり、いじめを予防すればよいのである。それでは、いじめの予防とはどのような状態なのか。前回と同じように、いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルを使って説明しよう。
 再度、図3を示す。

rinkai3.gif

 A点に注目いただきたい。
 A点より協力者が多ければ、協力状態に到る。A点より協力者が少なければ、非協力状態に到る。A点が、坂を登るか、坂を下るかの分岐点である。
 協力者がA点以下の場合は非協力状態に陥る。例えば、45%しか協力していない場合は次のような悪循環に陥る。

 悪循環  45%協力 → 35%協力 → 22%協力 → 7%協力

 45%しか協力していないのを見て10%が非協力に転ずる。それを見て11%が非協力に転ずる。最終的には7%しか協力しない状態になる。これが非協力状態である。7%しか協力せず、いじめが多発する状態である。
 それでは、協力者がA点以上の場合はどうなるか。協力状態になる。例えば、65%が協力している場合は次のような好循環が発生する。

 好循環  65%協力 → 79%協力 → 91%協力

 65%が協力しているのを見て14%が協力に加わる。それを見て12%が協力に加わる。最終的には91%が協力する状態になる。これが協力状態である。91%が協力し、いじめが無い状態である。
 A点が分岐点として、好循環になるか、悪循環になるかが分かれる。いじめが無い状態になるか、いじめが多発する状態になるかが分かれる。(注1)
 だとすれば、A点以上に協力者の数を維持すればよいのである。A点以上に協力者の数を維持することが、いじめの予防である。(注2)

 いじめの予防 = A点以上に協力者の数を維持すること

 A点以上に協力者の数を維持すれば、悪循環が起きない。非協力状態に陥らない。いじめ状態に陥らない。つまり、A点以上に協力者の数を維持することがいじめの予防である。
 A点以上に協力者の数を維持して、悪循環を起こさないようにするのである。
 くだけた言い方をすれば、いじめを予防するとは、いじめを起こさないことである。いじめを傍観する者(非協力者)を一定数以上に増やさないことである。逆に言えば、いじめを容認しない者(協力者)を一定数以上に維持することである。A点以上に維持することである。
 図3から分かるのはA点以上に協力者を維持すればよいという事実である。
 周りの人間の行動を見て、自分の行動を決める状況がある。周りの人間の行動が環境になるのである。「いじめの原因はいじめ」なのである。
 そのような状況下においては、いじめを傍観する人間を増やさないことが予防である。協力者を増やすことがいじめの予防である。いじめ行動を起こさせないことがいじめの予防である。
 以上、いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルを使って、いじめの予防を説明した。
 それでは、具体的にどのようにいじめを予防するのか。どのように協力者を増やすのか。A点以上に協力者数を維持するのか。それは次回以降に論ずる。


(注1)

 これは、あくまで理論モデルである。大筋の説明である。
 もちろん、現実はもっと複雑である。
 今後詳しく論ずる。

(注2)

 先の論文で小川幸男氏は言う。

 多くの生徒が協力するようになる相互協力状態になるか、多くの生徒が協力しない相互非協力状態になるかの境目はこの場合、A点だということになる。
 つまり、相互非協力状態に陥らないようにするためには、ある臨界点A以上にみんなが協力している状態をつくることなのである。逆に言えば、臨界点A以下に協力状態を下げないことが必要である。

 「相互非協力状態に陥らないようにするため」には、「A点以上」の協力が必要だという原理を述べていた。

2015年10月02日

【いじめ論24】いじめの解決が難しい理由

 社会的ジレンマは、周りの人間の行動を環境として発生した状態である。お互いに影響を与え合った結果がその状態なのである。
 だから、非協力状態に陥ってしまった場合は、それを変えるのは難しい。いじめが横行する状態に陥った場合は、それを解決するのは難しい。
 もう一度、図3を見ていただきたい。
 
rinkai3.gif
 
 非協力状態は次のように発生する。

 悪循環  45%協力 → 35%協力 → 22%協力 → 7%協力

 周りの人間が45%しか協力していないのを見て10%が非協力に転ずる。それを見て11%が非協力に転ずる。そのような形で最終的には7%しか協力しない状態で安定する。これが社会的ジレンマ状態である。7%しか協力していない状態である。
 この社会的ジレンマ状態を変えるためにはどうすればいいのか。非協力状態から協力状態に変えたいのである。しかし、現状は7%で安定してしまっている。たとえ35%に協力者を増やしても、7%に戻ってしまう。
 図3から分かる結論は次の通りである。社会的ジレンマを解決するためには、協力者を一気に増やすしかない。7%しか協力していない状態から、協力者をA点(52%)以上に増やすのである。過半数を超える人間を協力者にしなくてはならない。
 もし、協力者を7%から65%に増やすことができれば、次のような好循環が起こる。

 好循環  65%協力 → 79%協力 → 91%協力

 周りの人間の65%が協力しているのを見て14%が協力に加わる。それを見て12%が協力に加わる。そのような形で最終的には91%が協力する状態に改善される。
 しかし、どのように協力者を7%から65%にするのか。7%に陥ってしまっている社会的ジレンマ状態をどのように変えるのか。非常に難しい。
 だから、解決には「爆発」が必要である。「大きな力」が必要である。
 既に、いくつかの「爆発」の例を挙げた。
 例えば、クールビズ問題である。夏に上着を着てネクタイを締めると苦しい。しかし、周りの人間がそうしているため自分もそうせざるを得なかった。この社会的ジレンマはどのように解決されたのか。
 東日本大震災で福島第一原発が爆発した。また、火力発電所が止まった。そのため、深刻な電力不足が起きた。停電になり、電気が止まった。冷房が止まった。
 その状況下では、上着を着てネクタイを締めていることは困難である。それでは、あまりにも暑い。だから、周りの人間がクールビズに協力するという「予測」が生じる。好循環が起きる。

 好循環 7%協力 ⇒ 65%協力 → 79%協力 → 91%協力

 爆発によって、協力者が7%から65%に増える。それを見て、協力者がさらに増える。そして、最終的には91%が協力する。大多数が、上着を脱ぎネクタイを外す。
 爆発によって、クールビズ問題が解決された。会社員が夏に適した服装をするようになった。社会的ジレンマが解決されたのである。逆に言えば、爆発が起きなければ社会的ジレンマは解決されなかっただろう。
 いじめを解決した事例も挙げた。向山洋一氏がいじめ行動を追及した事例である。

 ○○君、どうしたのですか。そうですか。言わないのですか。では、言うまで聞きましょう。
 ××君。あなたはさっき○○君をひやかしていました。あれは何のことですか。

 http://shonowaki.com/2015/09/22_1.html


 いじめをした当人だけでなく、傍観者(扇動者)も追及された。追及され苦しい思いをすることになった。
 この追及が「爆発」として機能した。「大きな力」として働いた。その結果、好循環が生じ、いじめが解決された。社会的ジレンマが解決された。
 つまり、社会的ジレンマを解決するために必要なのは「爆発」のような「大きな力」である。それによって協力者を一気に増やすことである。7%から半数以上に協力者を増やすことである。例えば、65%に協力者を増やすことである。
 まとめよう。

 社会的ジレンマ解決のために必要な変化 7%協力 ⇒ 65%協力

 こうまとめてみると、社会的ジレンマを解決する難しさが分かる。いじめを解決する難しさが分かる。
 7%協力を65%協力に変えなければならないのである。ほとんどの人間が協力していない状態を半数以上の人間が協力する状態に変えなくてはならないのである。
 そのような変化を生じさせるには「爆発」が必要である。「大きな力」が必要である。
 だから、「いじめは人間として絶対に許されないことだ」と説諭しても効果が無いのだ。言い聞かせても、いじめは解決しないのだ。そのような普通の方法では7%協力を65%協力に変えることが出来ない。
 いじめを解決するのは大変難しいことなのである。社会的ジレンマを解決するのは大変難しいことなのである。
 いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルを使って、いじめの解決が難しい理由を説明した。解決のためには「7%協力 ⇒ 65%協力」の変化が必要なのである。そのような大きな変化を起こすのは大変難しい。

2015年09月25日

【いじめ論23】いじめの〈発生メカニズム〉

 いじめを解決するためには「爆発」が必要であった。「大きな力」が必要であった。
 隣の子供と机を付けない子供に対して、向山洋一氏は言った。

 ○○君、どうしたのですか。そうですか。言わないのですか。では、言うまで聞きましょう。
 http://shonowaki.com/2015/09/22_1.html

 
 そして、本当に「言うまで聞き」続けるのだ。子供は「言うまで」許してもらえない。「言うまで聞き」続けるのは「爆発」である。それは、子供にとっても、教師にとっても大変なことである。
 なぜ、このような「爆発」が必要なのか。それは、いじめが社会的ジレンマだからである。一度できてしまった社会的ジレンマをなくすのは困難なのだ。だから、「爆発」が必要であった。「大きな力」が必要であった。
 「爆発」は無くて済めばその方がいい。そのためには、いじめの予防が重要である。いじめが発生していなければ「爆発」は必要はない。社会的ジレンマが発生していなければ「爆発」は必要ない。「大きな力」は必要ない。
 予防のためには〈発生メカニズム〉を知る必要がある。いじめはどのように発生するのか。社会的ジレンマはどのように発生するのか。それを知る必要がある。
 既に、いじめの〈発生メカニズム〉を考えるための重要な鍵となる事実を述べた。いじめは二極化する。いじめが多発する学級といじめが無い学級とに極端に分かれる。中間が少なくなる。正規分布にならない。
 
    〈いじめを傍観する者の数〉は二極化している
     http://shonowaki.com/2015/06/14_1.html
 
 このような二極化が起こるのは、いじめが集団的現象だからである。周りの人々の行動が〈環境〉になるからである。お互いが影響を与え合うからである。
 お互いが影響を与え合った結果、いじめが無い学級が発生する。逆に、いじめが多発する学級が発生する。そのように二極化する。
 初期状態では、いじめを傍観する者の割合が学級によって大きく違う訳ではない。それが時間が経つにつれて二極化するのである。いじめを傍観する者が多い学級と少ない学級に二極化するのである。
 大まかに、二極化する過程を説明しよう。初期状態での小さな差が大きな差になる。いじめを傍観する者が多ければ、影響を与え合い傍観する者がさらに多くなる。いじめが多くなる。いじめを傍観する者が少なければ、影響を与え合い傍観する者がさらに少なくなる。いじめが少なくなる。
 最初の小さな差が、最終的に大きな差になってしまう。極端に違う状態になってしまう。社会的ジレンマが発生してしまう。
 このような社会的ジレンマの〈発生メカニズム〉を小川幸男氏は次のように説明する。(注)


 ある活動に対して、協力する生徒と、協力しない生徒は二つに分かれる。その活動に対する自らの行動の選択肢は、協力、非協力の二つしかないからである。しかし、実際に協力しようとする傾向は、……〔略〕……連続して様々に分布する。その時点で、同じ協力をしている生徒の中にも、多くの生徒が協力しているから協力している生徒もいれば、少人数しか協力しなくても協力している生徒もいる。
 これを図式化してみる。
rinkai.gif

 図1は、横軸に「ある時点で実際に行動に『協力』している生徒の割合(%)」、縦軸に「“横軸のある時点の割合以上ならば、自分も協力する”と考える生徒の割合(%)」をとるったものである。
 また、図1のグラフの棒グラフを左から累積していくと図2のようなグラフができる。図2のグラフの縦軸は、「実際に協力している生徒が横軸の割合のとき、協力しようと思う生徒の割合」を示している。
 図3は、図2のグラフを一般化したものである。
 この図からわかることは、自然の状態では次のようになることである。

 イその時点で実際に協力をしている割合が図3のA点より多ければ、その後に点Cの多くの生徒が協力している状態まで自然に上がる。
 ロその時点で実際に協力をしている割合が図3のA点より少なければ、その後、点Bのほとんどの生徒が協力しない状態まで自然に下がる。

 例えば、図3で65%の生徒が実際に協力しているときには、協力してもよいと考えている生徒は79%いる。つまり、65%の生徒が実際に協力している状態を見せれば79%の生徒は協力をしだすわけである。さらに79%の生徒が協力すれば、91%の生徒が協力してもよいと考え協力する。というように、この場合結果として95%の生徒が協力し、協力しない生徒が5%だけ残る状態で安定する。
 逆に、45%が実際に協力しているときには、協力してもよいと考える生徒は35%である。つまり、45%の生徒が実際に協力している状態を見せると35%しか協力しなくなってしまうのである。さらに、35%の生徒しか協力していない状態を見ると、22%しか協力しなくなってしまう。最終的な結果として、7%の生徒しか協力しなくなってしまうのである。
 多くの生徒が協力するようになる相互協力状態になるか、多くの生徒が協力しない相互非協力状態になるかの境目はこの場合、A点だということになる。


 A点より協力する人数が多ければ協力状態になる。少なければ非協力状態になる。坂を上るか、坂を下るかである。
 初期状態での小さな差が大きな差になる。いじめを傍観する者が多ければ、それを見ていじめを傍観する者がさらに多くなる。そして、最終的には、いじめ状態(非協力状態)に陥る。
 いじめを傍観せず止める者が多ければ、それを見ていじめを止める者がさらに多くなる。そして、最終的には、いじめが無い状態(協力状態)になる。
 最初の小さな差が最終的に大きな差になる。極端に違う状態になる。二極化する。
 それは、周りの人間の行動が〈環境〉になるからである。周りの人間の行動によって、自分の行動を決めるからである。
 確認しよう。協力者は次のように変化した。

 好循環  65%協力 → 79%協力 → 91%協力

 65%が協力しているのを見て14%が協力に加わる。それを見て12%が協力に加わる。そして、最終的には91%が協力するよい状態が発生する。
 逆も同様の原理である。

 悪循環  45%協力 → 35%協力 → 22%協力 → 7%協力

 45%しか協力していないのを見て10%が非協力に転ずる。それを見て11%が非協力に転ずる。それを見てさらに15%が非協力に転ずる。そして、最終的には7%しか協力しない悪い状態が発生する。
 最初の小さな差によって、極端に違う二つの状態が発生した。91%が協力する状態と7%しか協力しない状態である。
 周りの人間の行動によって、自分の行動を決める。それによって、雪崩れ的な変化が生じる。極端な状態が発生する。
 これが社会的ジレンマの〈発生メカニズム〉の理論モデルである。いじめの〈発生メカニズム〉の理論モデルである。


(注)

 次の論文である。

   明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」
   『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

 なお、小川幸男氏は長年にわたる研究仲間である。

2015年09月18日

【いじめ論22】いじめを解決する「爆発」とは何か

 教師が「いじめは人間として絶対に許されない行為だ」などと言う。道徳の授業で語る。しかし、それに子供は従わないだろう。
 それは、クールビズを提唱した政府に会社員が従わなかったのと同じである。会社員は自分だけネクタイを外す訳にはいかなかった。政府の呼びかけに集団の成員全員が従うならばネクタイを外すことが出来る。しかし、政府の呼びかけにそのようなものすごい影響力があるとは思えない。それならば、ネクタイは外さない方が安全である。
 同様に、教師が「いじめは人間として絶対に許されない行為だ」などと言っても、子供はその言葉に従わないだろう。子供も自分だけいじめをやめる訳にはいかない。いじめを容認するのをやめる訳にはいかない。
 教師の言葉でみんながいじめをやめるか。それが問題なのだ。みんながやめるならば、やめられる。しかし、みんながいじめをやめない状態で、自分だけやめるのは危険である。
 いじめは社会的ジレンマである。みんながいじめをやめるならば、自分もやめられる。みんながいじめをやめないなら、自分もやめられない。
 いじめを解決するためには他者の行動の「予測」が変わることが必要である。「いじめを全員がやめる」という予測を子供が持つことが必要である。
 政府が呼びかけても解決しなかったクールビズ問題は「爆発」によって解決した。福島第一原発が爆発し、電力不足が深刻化したことによって解決した。
 「爆発」が他者の行動の「予測」を変えた。「爆発」による深刻な電力不足によって、「みんながネクタイを外す」という「予測」が生じた。みんなが外すなら、自分も外せるのである。
 それでは、いじめの場合の「爆発」とはどのような事態か。
 「爆発」の例を挙げよう。
 向山洋一氏の実践である。

 クラスで席がえをします。すると、ある女の子のとなりになった男の子を、まわりの子がはやしたてます。本人も、いやがります。
 これは、クラスの男の子の間で、暗黙のうちに、時には公然と差別をされてきた女の子がいたということです。
 これに近いことは、けっこう生じます。
 注意深く見ていると見つかるものです。これをほうっておくと、その子から給食を受けとらないという事態にまで発展します。
 このようなことは、小さなうちに教師がとりあげ、とりあえず毅然と対処することが必要となります。
 これは、闘いです。闘いですから勝たなくてはなりません。
 まずは、現象をとりあげます。

 ○○君。となりの人と机を離してはいけません。つけなさい。

 子供は、しぶしぶつけます。
 ここから、「闘い」は始まります。

  ……〔略〕……

 ○○君、どうして机を離したのですか。理由を聞かせて下さい。

 毅然と言います。
 こんなことを許してはならないという教師の気迫こそ大切です。
 まわりの子はシーンとしてます。
 しぶしぶ机をつけた男の子は、何も言いません。黙って下を向いています。(多くの場合、このようになります)

 ○○君、どうしたのですか。理由を聞かせて下さい。

 教師は、更に追いうちをかけます。
 教室はシーンとなっています。

   ……〔略〕……

 男の子は黙っています。
 絶対、中途にしてはいけないのです。

 ○○君、どうしたのですか。そうですか。言わないのですか。では、言うまで聞きましょう。

 このように言います。

   ……〔略〕……

 ここらあたりで、多くの子は、べそをかきます。
 べそをかいたら、一応はしおどきです。

 ○○君。自分から、いけないことをしたと思っているのですね。
 (○○君はうなずきます)
 先生は、こんなことが大嫌いなのです。二度と言わないで下さい。

 こうやって、○○君から離れます。教室は少し、ほっとします。
 が、二の矢がとびます。
 さっき、野次をとばしていた△△君や××君をそのままにしてはおけません。
 でも、この段階で、はやした全員をとりあげるのは考えものです。
 中心になった、一人か二人をとりあげます。

 △△君、立ちなさい。あなたはさっき○○君をひやかしてました。あれは何のことですか?

 前よりもっと教室は緊張します。△△君は黙っています。
 もう一人くらい立たせます。

 ××君。あなたはさっき○○君をひやかしていました。あれは何のことですか。

 時には、とてもいいことを言う子も出ます。
 「ごめんなさい。ぼくは悪いことをしました。もうしません」

   ……〔略〕……

 こういう子が一人出れば、他の子も次に続きます。
 でも、多くは立ったままでしょう。
 そんな時、教師は聞いてやります。

 △△君、あなたは良いことをしたのですか。

 ふつうの子なら、がぶりをふります。

 △△君、悪いことをしたのですね。

 △△君は、頭をこくりとします。
 そうしたら「もう二度としないで下さい」と言ってすわらせます。××君も同じにします。ここまでやって、更につけ加えます。

 ○○君のことを、はやした人全員立ちなさい。

 こんな時、みんな立つものです。

   ……〔略〕……

 立った子は、短くしかります。
 「正しいことをしたと思う人は手をあげてごらんなさい」
 誰も手はあげません。
 「先生は、こういうことが大嫌いです。今度やったら許さないですよ」
 こう言ってすわらせます。(注)
 (向山洋一『いじめの構造を破壊せよ』明治図書、1991年、29~38ページ)

 教師はいじめを厳しく追及した。これは「爆発」である。
 このような教師がいる学級でいじめをするのは「自殺行為」である。いじめをすれば、厳しく追及をされる。この状況下では、いじめをするのは著しく困難である。そのような困難を乗り越えて、いじめをする子供はほとんどいないだろう。
 だから、子供は「みんながいじめをやめる」という「予測」を持つ。みんながいじめをやめるなら、いじめをやめることが出来る。教師の追及が「爆発」として機能したのだ。
 この事例と対照的な事例を先に挙げた。
 同様のいじめに対して、教師が説諭した事例である。

 「君たち。君たちは、人を差別したり、いじめたりすることは、とっても悪いことだって知ってるネ」
 「……」
 「君たち、自分が、リカと同じようにされたらどんな気がする? 嬉しい? 学校へくるのが楽しくなる?……〔略〕……」
 「……」
 「……〔略〕……こんなふうに毎日毎日、リカをいじめている。このことの方が、二年や三年のツッパッてる子よりうんと悪い、ものすごく悪い、人間として許せないくらい悪い!! って思ってる。人間には、許せる誤ちと許せない誤ちってものがあるのよ。服装違反をしてることは許せても、人間をバカにする、いじめる、差別するってことは許せない。……〔略〕……」
 http://shonowaki.com/2015/02/post_116.html

 教師が話していて、子供は黙っているだけである。教師の話を黙って聞いていれば、それで済むのだ。楽なものだ。
 これでは恐くない。「みんながいじめをやめる」という「予測」が生じない。みんながいじめをやめないなら、いじめをやめる訳にはいかない。
 社会的ジレンマを解決するためには「爆発」が必要である。「大きな力」が必要である。教師の説諭はそのような「大きな力」にはならない。
 この教師は言う。「いじめる、差別するってことは許せない」
 「許せない」ならば、直ぐに「罰」を与えるべきである。いじめた者に苦しい思いをさせるべきである。
 しかし、この教師は「許せない」と言うだけなのだ。いじめた者は「許せない」と言うのを聞くだけで済む。これでは、〈いじめをしても教師の説教を聞くだけで済む〉と教えているようなものである。〈いじめはたいしたことではない〉と教えているようなものである。〈人間として最低の行為をして説教されるだけ〉という構造が間違っているのだ。
 この事例と向山洋一氏の事例を比べて欲しい。向山洋一氏の実践では、いじめをした子供が追及される。いじめをした子供が苦しい思いをする。
 次のようにである。

 ○○君、どうしたのですか。そうですか。言わないのですか。では、言うまで聞きましょう。

 原理的に、この追及は子供が「理由」を言うまで続く。
 しかし、「理由」を言う訳にはいかないのだ。「理由」を言うとその内容をさらに追及される。隣の子供と机をつけない「理由」を正直に言ったら、怒られるに決まっている。だから、子供は黙るしかなくなる。子供は窮地に陥ったのだ。
 さらに、傍観者(扇動者)も追及される。

 △△君、立ちなさい。あなたはさっき○○君をひやかしてました。あれは何のことですか?

 「ひやかし」がいけないのならば、学級の成員の多くが追及を受ける可能性がある。だから、「前よりもっと教室は緊張」するのだ。
 重要なのは、その追及を学級の全員が見ている事実である。いじめをすると、教師に追及され窮地に陥る。さらに、傍観者(扇動者)も窮地に陥る。そして、その事実を学級の全員が見ている。
 向山洋一氏は「いじめる、差別するってことは許せない」などと言わなかった。言葉では言わなかった。
 向山洋一氏は子供を追及したのである。机をつけない「理由」を訊いたのである。「理由」を言うまで許さないという厳しい姿勢を見せたのである。つまり、行動で「いじめは許さない」姿勢を見せたのである。
 この教師の行動が「爆発」として機能した。子供に「みんながいじめをやめる」という「予測」を持たせた。みんながいじめをやめるから、いじめをやめることが出来た。「爆発」によって、いじめが解決された。
 「爆発」の一例を示した。社会的ジレンマを解決するためには「爆発」が必要である。「大きな力」が必要である。それは「いじめは許さない」と言うことではない。実際に「いじめは許さない」姿勢を見せることである。いじめが許されていない事実を見せることである。


(注)

 次のように引用した文章の表記を変えた。

  囲みを段下げにした。

 これは、私のコンピューターで書籍通りの表記が出来なかったためである。

2015年09月11日

【いじめ論21】社会的ジレンマを解決するには「爆発」が必要

 社会的ジレンマは解決が難しい。それは、一人ひとりが自分が得な「選択」をした結果だからである。
 クールビズ問題も社会的ジレンマであった。夏にネクタイをするのは、個人にとっては得な「選択」であった。無難な「選択」であった。その結果、社会全体としては大きな損失が発生していた。
 しかし、最近、クールビズ問題は大筋で解決された。現在、夏には、多くの会社員がネクタイを外し、上衣を脱いでいる。夏の暑さに適した服装をしている。
 なぜ、クールビズ問題は解決されたのか。それは東日本大震災で福島第一原発が「爆発」したからである。また、火力発電所が止まったからである。それによって、夏の電力不足が深刻化したからである。
 電力不足が深刻化し、オフィスの冷房の温度が上げられた。あらゆる場所で節電がおこなわれた。
 現実に電気が足りないのだから、節電は必須である。だから、冷房をやめたり、弱めたりする必要がある。その状況下ではネクタイを外す必要がある。ネクタイをしていては節電が徹底できないのである。
 だから、節電のためにみんながネクタイを外すと想定できる。みんながネクタイを外すと信じることが出来る。政府でさえ作ることが出来なかった集団の成員への信頼感が「爆発」によって作られたのである。
 クールビズ問題は社会的ジレンマである。一人だけネクタイを外すことは難しい。全員がネクタイをしている中で、一人だけ外すと「失礼な奴」と思われるのである。しかし、全員がネクタイを外すならば、ネクタイを外すことが出来る。全員がネクタイを外しているならば、ネクタイを外しても失礼にならない。全員が一斉にネクタイを外すならば、何の問題もない。だから、ネクタイを外すことが出来る。
 重要なのは、「みんながネクタイを外す」という「予測」が「爆発」によって生じたことである。実際にみんながネクタイを外している状況が生じたことである。みんなが外すなら、自分も外せるのである。
 社会的ジレンマを解消するためには「爆発」が必要だった。「爆発」によって、「みんながネクタイを外す」という「予測」が生じた。全員が行動を変える状況が生じた。
 一度できてしまった社会的ジレンマを解決するためには「大変な力」が必要である。全員の行動を一斉に変える「大きな力」である。
 それは、クールビズ問題の場合は福島第一原発の「爆発」であった。深刻な電力不足であった。
 いじめの場合はどのような事態が「爆発」なのか。どのような事態によって、「みんながいじめをやめる」と子供が「予測」するようになるのか。〈全員がいじめ行動をやめる〉状況が生じるのか。


2015年09月04日

【いじめ論20】「いじめは許されない」といくら説諭しても解決できないのは社会的ジレンマだから

 夏にネクタイをすると、暑く苦しい。しかし、苦しい格好を多くの会社員がしていた。それは大多数の会社員がネクタイをしていたからである。所属集団の大多数がネクタイをしていたからである。
 政府は省エネルックを提唱した。「涼しい格好をして省エネしましょう」という趣旨の呼びかけをした。これは個人の「心・意識」に働きかけようとしたのである。「心・意識」を変えようとしたのである。
 しかし、それは効果がなかった。政府の呼びかけに国会議員すら従わなかった。
 なぜか。ネクタイを外したくても外すことは出来なかったのである。そのような状況があったのである。
 集団の大多数がネクタイをしているという状況がある。服装は相手に対する敬意の表現でもある。自分だけ外せば、相手が敬意を表しているのに自分は表さないことになる。この状況は一人では変えられない。相手がネクタイを外さないと、こちらも外すことが出来ないのだ。
 大多数がネクタイをしている状況下では、ネクタイをするのが得な「選択」になる。相手の服装にこちらも合わせなくてはならなくなる。自分だけが相手に敬意を表さないのはまずいからだ。
 クールビズ問題は「心・意識」の問題ではなく集団の問題だった。社会的ジレンマであった。一人ひとりが自分が得な「選択」をした結果であった。だから、政府が「涼しい格好をして省エネしましょう」と呼びかけても効果が無かったのである。
 いじめも同様である。
 集団の大多数がいじめを傍観する状況下では、個人としてはいじめを傍観するのが得な「選択」になる。いじめを「容認」するのが得な「選択」になる。
 教師が「いじめは人間として絶対に許されない行為だ」などと説諭する。個人の「心・意識」に働きかけようとする。「心・意識」を変えようとする。
 しかし、それではいじめはほとんど解決しない。それは、いじめが「心・意識」の問題ではなく集団の問題だからだ。社会的ジレンマだからだ。一人ひとりが自分が得な「選択」をした結果だからだ。
 いじめが横行してはクラスの雰囲気が悪くなる。びくびくしながら生活せざるを得なくなる。勉強が出来る落ち着いた環境ではなくなる。
 ネクタイで自分の首を絞める。いじめを傍観して自分の首を絞める。自分で自分の首を絞めているのである。
 社会的ジレンマは「自分で自分の首を絞める」状況なのである。
 「首を絞める」のは苦しい。しかし、大多数の人間が「絞め」ている状況では、自分だけが「絞め」るのをやめる訳にはいかない。
 これが社会的ジレンマの構造である。
 だから、解決が難しいのである。
 

2015年08月28日

【いじめ論19】クールビズ問題も社会的ジレンマだった

 結局、いじめは全員にとって損である。しかし、全員が損をするいじめをやめることが出来ない。それはいじめが社会的ジレンマだからである。
 同様の事例を見てみよう。全員が損をしている状態を変えられなかった事例である。
 日本の夏は暑い。しかし、数年前までは、多くの会社員が上着を着てネクタイを締めていた。これは明らかに夏に適した服装ではなかった。汗だくになりながら、全員が苦しい思いをしていた。快適性という点では不合理であった。
 また、エネルギーの無駄であった。上着を着て快適なように冷房を強くせざるを得なかった。
 だから、だいぶ前からクールビズが提唱されていた。夏は、涼しい服装をしようというのである。政府も旗を振った。古くは、1970年代の省エネルックである。
 しかし、会社員の服装はほとんど変わらなかった。それは、この問題が社会的ジレンマだったからである。
 全員が上着を着てネクタイをしている状態で、自分だけ軽装になる訳にはいかない。
 服装は相手に対する敬意の表現でもある。だから、自分だけ軽装になった場合、相手が敬意を表しているのに自分は表さないことになってしまう。
 だから、全員がネクタイをしている集団内で、一人だけネクタイをしないのは困難である。「失礼な奴」と思われる可能性が高いのである。「失礼な奴」と思われるくらいならば、ネクタイを締めた方が得である。
 つまり、ネクタイを締めるのは、一人ひとりにとっては得な選択だった。そして、一人ひとりが自分にとって得な行動をした結果、社会全体としては大きな損失になってしまった。
 これは社会的ジレンマである。

 a 一人ひとりの個人としては、ネクタイを締めた方が締めないより得をする。
 b しかし、全員がネクタイを締めた場合は、全員が損をする。

 上着を着てネクタイを締めたせいで、暑さで体調を崩す。上着を着た人を基準にオフィスの冷房の温度が設定されて、エネルギーの無駄になる。冷え性の人が冷房の寒さで体調を崩す。
 これは全員が損をしている。しかし、それをやめることは出来なかった。
 なぜか。全員が同時にネクタイを外すのならば、外せる。「いっせいのせ」で全員がネクタイを外すなら、外せる。しかし、一人だけ外すことは出来ない。「失礼な奴」と思われてしまうからだ。
 政府がクールビズを勧めようと、状況は同じである。政府の勧めに従って、みんながネクタイを外すなら、外せる。しかし、みんなが政府の勧めに従うことはありえない。それならば外さない「選択」をする方が得である。
 羽田孜元首相を思い出してみよう。羽田孜元首相は省エネルックを一人だけ着続けて、変人扱いされてた。変人扱いされても着続けるのは信念の人である。信念の人しか大多数と違う服装は出来なかった。
 政府の勧めに国会議員すら従わなかったのである。国会議員すら従わない政府の呼びかけに一般国民が従うはずがない。
 政府が呼びかけたくらいでは、クールビズ問題は解決しなかった。(注)
 それはクールビズ問題が社会的ジレンマだったからである。


(注)
 クールビズ問題は数年前にかなり改善された。
 なぜ、改善されたのか。それはこの先の文章で論ずる。

2015年08月18日

【いじめ論18】いじめは社会的ジレンマなのである

 「社会的ジレンマ」とは、次のような特徴がある状況であった。

 a 一人ひとりの個人としては、協力を選択するより非協力を選択した方が得をする。
 b しかし、全員が非協力を選択した場合は、全員が損をする。

 いじめは社会的ジレンマである。(注)
 この二つの特徴を持っているのである。

 a 一人ひとりの個人としては、傍観者になる方が得である。
 b しかし、全員が傍観者になった場合は、全員が損をする。

 ある子供がいじめを見たとする。個人としては傍観する方が得である。止めようとするのは危険なのである。いじめを止めようとした結果、いじめられたという話を多く聞く。

 グループ内の交換日記に、順番にいじめがはじまり、次は誰をターゲットにするかというなかで、晶子さんがやめようと言い出したことでやられはじめたと書いていた。
 (武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、2004年、65ページ)

 いじめられたきっかけは「やめようと言い出した」ことである。いじめを止めようとした結果、自分がいじめられることになってしまったのである。
 いじめを止めようとするのは危険である。だから、傍観者になるのは、個人としては楽な「選択」である。得な「選択」である。
 しかし、全員が傍観者になり誰もいじめを止めないと、いじめが横行する状態になってしまう。それは、学級の成員全員にとって損な状態である。
 先に、学級が荒れたため受験で苦労したという事例を挙げた。

 現在中三なので受験生ですが、この時の仲間のほとんどは、小学校時代の基礎ができていなかった為からか、とても苦労しています。
 (朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、1999年、41ページ)

 この子供の学級は荒れてしまい、小学六年生の一年間、満足に学習が出来ない状態になってしまった。そのため「基礎ができていな」い状態になってしまった。受験で苦労することになってしまった。
 荒れて、いじめが横行する学級で勉強をするのは難しい。生活するのは難しい。いじめが横行する学級では、全員が損をする。
 全員が損をしたのは、一人ひとりが個人として得な傍観を「選択」した結果なのである。個人として得な「選択」した結果、全体としては全員が損をする状態になってしまう。
 これは正に社会的ジレンマである。
 いじめは社会的ジレンマなのである。


(注)

 いじめを社会的ジレンマと捉える発想は次の論文にある。
 
  明石要一・小川幸男「生徒会活動を通じた学校活性化の方法」
   『千葉大学教育学部研究紀要』第45巻 、1997年

 また、次の本にもある。
 
  山岸俊男『日本の「安心」はなぜ消えたのか』集英社、2008年
 

2015年06月30日

【いじめ論17】社会的ジレンマ

 石油ショック当時、人々は買いだめに走った。その結果、社会全体で大きな損失が発生してしまった。既に論じた通りである。
 一人ひとりが得をしようとした結果、社会全体では大きな損失が発生した。自分にとって得な行動した結果、結局、全員が損をすることになってしまった。
 これは、「社会的ジレンマ」と呼ばれる状況である。
 「社会的ジレンマ」をロビン・ドーズは次のように説明する。(注1)(注2)
 

 (a)一人ひとりの個人は、社会の他の人々がたとえ何をしようとも、社会的に協力しない選択(例えば、子供を増やすこと、可能な限りエネルギーを使うこと、環境を汚染すること)をすることによって、社会的に協力する選択をした場合よりも多くの利益を得る。しかし、(b)もし、全員が協力したとすれば、全員が協力しないより、全員にとってよい結果になる。


 
 「トイレットペーパーが無くなる」という噂を聞いた時、一人ひとりの人間は、トイレットペーパーを買いだめすることも出来るし、何もしないでいることも出来る。自分の得になる行動を「選択」することも出来るし、社会全体の得になる行動を「選択」することも出来る。「非協力」を「選択」することも出来るし、「協力」を選択することも出来る。
 全員が「協力」を「選択」すれば、社会の成員全体が得をする。トイレットペーパー不足は起こらず、探し回る必要がなるなる。
 しかし、全員が「非協力」を「選択」すれば全員が大きな損をする。トイレットペーパーは不足し、探し回らなければならなくなる。全員が苦労することになる。
 一人ひとりが自分の得になる行動を「選択」すると、社会全体としては全員が損をする。
 「社会的ジレンマ」とは、このような特徴を持つ状況である。
 確認しよう。
 

 a 一人ひとりの個人としては、協力を選択するより非協力を選択した方が得をする。
 b しかし、全員が非協力を選択した場合は、全員が損をする。


 「社会的ジレンマ」は様々な領域に存在する。ドーズは、人口問題、エネルギー問題、環境問題を例とした挙げた。
 もちろん、「社会的ジレンマ」は教育にも存在する。いじめも「社会的ジレンマ」である。
 個人がいじめを傍観するという得な「選択」をした結果、全体としていじめが荒れ狂う学級になってしまう。いじめが荒れ狂っていては、結果的に全員が損をする。
 一人ひとりが自分にとって得な「選択」をした結果、全員が損をする。
 それが「社会的ジレンマ」なのである。
 


(注1)
  Robyn M. Dawes "Social dilemmas",1980,p.169

(注2)
 日本における「社会的ジレンマ」研究の先駆者は山岸俊男氏である。
 次の本を参照のこと。
 
  山岸俊男『社会的ジレンマのしくみ』サイエンス社、1990年

2015年06月23日

【いじめ論16】一人ひとりが得な行動をした結果、全体として大きな損失が発生する

 人々の行動が〈環境〉になる状況が存在する。人々の行動によって、「適応的」な行動が変わってくるのである。
 例えば、石油ショック当時、人々は買いだめに走った。よく知られているのがトイレットペーパーの買いだめである。(注1)
 このような行動は〈環境〉になる。
 当時、普通に使う分としては、トイレットペーパーは十分にあった。そして、製造が出来なくなることもありえなかった。だから、物理的な条件だけを考慮すれば、買いだめ行動は必要なかった。
 しかし、周りの人々が買いだめ行動をしてる状況ではどうだろうか。人々が買いだめ行動をしている状況では、トイレットペーパーは不足する。現実に店頭から完全にトイレットペーパーが無くなってしまう。トイレットペーパーの在庫は、通常の使用が基準である。当然、買いだめをする分を見こした在庫などない。
 だから、結果的に買いだめ行動をしなかった人が困ることになる。トイレットペーパーを手に入れられなくなる。逆に、買いだめ行動をした人は得をする。
 つまり、人々が買いだめ行動をしている状況では、自分も買いだめ行動をしなくてはならなくなる。買いだめ行動をした人が得をし、しなかった人が損をする。
 人々の行動が〈環境〉になる。そして、その〈環境〉に適応する者が得をする。そのような状況がある。
 別の観点から論じる。
 確かに、トイレットペーパーの買いだめは、一人ひとりの人間にとっては得な「選択」である。しかし、社会全体にとってはどうだろうか。社会全体にとっては大きな損害である。全員が損をしているのである。
 まず、人々がトイレットペーパーを探すのがコストである。また、買うために列に並ぶ時間がコストである。さらに、トイレットペーパーのために争い悩むのがコストである。これらは人々が買いだめ行動をしなければ、必要ないコストであった。(注2)
 つまり、一人ひとりが得をしようとした結果、社会全体では大きなコストが発生してしまった。一人ひとりがトイレットペーパーを買いだめするという得な行動した結果、全員が損をすることになってしまった。
 いじめも同様の現象である。
 いじめを傍観するというのは一人ひとりにとって楽な「選択」である。得な「選択」である。しかし、その結果、いじめが荒れ狂う学級になってしまっては、全員が損をする。
 事例を挙げる。
 

 現在中三なので受験生ですが、この時の仲間のほとんどは、小学校時代の基礎ができていなかった為からか、とても苦労しています。
 (朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、41ページ)


 
 この子供の学級は荒れてしまった。小学六年生の一年間、満足に学習が出来ない状態になってしまった。そのため「基礎ができていな」い状態になってしまった。受験で苦労することになってしまった。
 いじめが荒れ狂う学級で勉強をするのは難しい。いじめが荒れ狂う学級で生活するのは苦しい。当然、本人の将来に影響がある。
 いじめが荒れ狂っている学級では、みんなが損をする。
 そして、それは一人ひとりが自分にとって得な「選択」をした結果なのである。


(注1)
 「トイレットペーパー騒動」
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E9%A8%92%E5%8B%95

(注2)
 それだけではない。店側にも殺到する客に対応するコストが発生する。問屋にも異常な量の注文に対応するコストが発生する。製紙会社にもコストが発生する。増産しなければならなくなる。
 さらに、その後がある。何しろ人が使うトイレットペーパーの量は一定なのである。皆が買いだめをしたら、その後トイレットペーパーは売れなくなる。
 このような一時的な需要に対応するのには大きなコストがかかる。

2015年06月16日

【いじめ論15】周りの人々の行動が〈環境〉なのである

 宇佐美寛氏は言う。(デューイの「環境」概念を分析する文章である。)
 

 諸井薫『昭和原人』(文藝春秋、一九八九年)に次の文章がある。(一三九 - 一四〇ページ)

 アメリカあたりでは、あの石油ショックのとき、文句もいわずにガソリンスタンドに延々長蛇の列を作ってはいたが、ではガソリンを自発的に節約しようとしたかといえば、そんな気配はなかった。買ったガソリンは遠慮なく使い果たして、なくなればまた行列するだけなのである。それに対して日本人は、長い行列に並んで時間を無駄に使うくらいなら、いっそ我慢して生活の方法を変えることを考えようとする。要するに、状況がそれを求めるなら、自分の欲望をあっさりと収斂してそれに慣れようという自己調節を無理なくやってのけられるのである。
 ……〔略〕……

 どちらの生き方も、それによって命を失うことはない。どちらの生き方も、そう生きている本人たちは、よく適応していると思っている。
 この日米二つの場合、環境とは何なのだろうか。ある物資の欠乏という条件は、ある社会では、人々が物資を求めようと探しまわる活動を促進する。別の社会では、落ちついて仕事を減らし、休み待つという活動を促進する。(注)
 (『宇佐美寛・問題意識集9 〈実践・運動・研究〉を検証する』明治図書、241~242ページ)

 「環境に適応する」と言えば、通常は物理的環境への「適応」を思い浮かべる。「物質の欠乏に適応して~の活動が発生した」という形式である。
 しかし、「物資の欠乏」に「適応」して、極端に違う二つの「活動」が発生している。物理的環境への「適応」では説明できない状況が発生してる。
 この状況をどう説明すればよいのか。
 この場合の「環境」とは何か。いじめを論ずるために必要な範囲で述べる。
 「環境」とは、周りの人々の行動である。集団の行動パターンである。
 周りの人々が「探しまわる活動」をとることが、「探しまわる活動」を促進する。「探しまわる活動」を「適応的」にする。
 逆に、周りの人々が「休み待つという活動」をとることが、「休み待つという活動」を促進する。「休み待つという活動」を「適応的」にする。
 自分だけが「休み待つという活動」をして、ガソリンを使わず節約したとする。しかし、周りの人々が「探しまわる活動」して、どんどんガソリンを使っていては節約の効果がない。自分だけがガソリンを使えなくなってしまう。損をしてしまう。
 自分だけが「探しまわる活動」をして、ガソリンを得ようとしたとする。しかし、周りの人間が「休み待つという活動」をしていては、うまくいかない。ガソリンスタンドが閉まっていたり、数量制限をしていたりするからである。
 つまり、人々の行動によって、「適応的」な行動が変わってくるのである。
 複数の適応が可能な事態がある。人々はそのどれかを選ぶ。その行動によって、ある適応の仕方が有利になる。「適応的」になる。人々の行動が〈環境〉になる。そのような状況が存在するのである。
 〈女子高生のスカートの長さ〉はそのような状況である。短いスカートが多い東京では短いスカートを着ることが「適応的」になる。長いスカートが多い大阪では長いスカートを着ることが「適応的」になる。「防寒」「日焼け対策」などの物理的な条件は副次的である。周りの人々の行動が〈環境〉なのである。
 いじめも同様である。いじめにおいては、周りの人々の行動が〈環境〉なのである。


(注)

 引用した文章の表記を一部変えた。

  1 傍点を強調にした。
  2 引用を表す囲みを段下げにした。

 これは、私のコンピューターで書籍通りの表記が出来なかったためである。

2015年06月09日

【いじめ論14】〈いじめを傍観する者の数〉は二極化している

 スローガンをもう一度書く。

 いじめの原因は心ではない。
 いじめの原因はいじめである。

 いじめを一人でやめることは困難である。「やめようと言い出した」者がいじめられたりする。それは、いじめが集団的現象だからである。
 いじめは〈女子高生のスカートの長さ〉と同様の集団的現象である。スカートの短い女子高生は東京では極端に多い。大阪では極端に少ない。同様に、いじめも、多いクラスでは極端に多い。少ないクラスでは極端に少ない。
 この事実を示す調査結果がある。正高信男氏による調査である。
 正高信男氏は、いじめの指標となる〈いじめを傍観する者の数〉が両極端になる事実を発見した。(注1)


bunpu.jpg
  (正高信男『いじめを許す心理』岩波書店、108ページ)


 この図には山が二つある。5~15パーセントと30~35パーセントの二つである。
 この調査によって、傍観者の数が二極化している事実が発見された。次の二つに大きく分かれている。

 1 いじめを傍観する者が少ないクラス
 2 いじめを傍観する者が多いクラス

 つまり、傍観者は、少ないか、多いかのどちらかになっている。中間が少ない。傍観者の割合が5~15パーセント(いじめを傍観する者が少ないクラス)と30~35パーセント(いじめを傍観する者が多いクラス)とピークが二つになっている。
 これは、いじめが集団的現象であることを示している。
 集団の影響を受けない個人的現象ならば、ピークは一つのはずである。正規分布になるはずである。
 例えば、身長である。身長の分布は次のような形になる。


g_h17m.png
 http://www.geocities.jp/resultri/crankcho/height_j.html より


 個々人の身長は、どのような集団に入ろうと変化しない。身長の分布は正規分布になる。中間が多くなる。(注2)
 しかし、集団的現象はそれとは違う。集団が影響を与え合うからである。
 スカートの短い生徒の分布は、正規分布にはならない。クラス内のスカートの短い生徒の割合は東京では多い。大阪では少ない。両極端になる。ピークは二つになる。それは、集団的現象だからである。
 いじめは〈女子高生のスカートの長さ〉と同様の集団的現象である。だから、傍観者の分布は正規分布にならない。両極端になる。
 それは、集団が影響を与え合いながら行動パターンを作るからである。
 クラスにおいて、集団の行動パターンが作られる。いじめを容認する行動パターンが作られるか。容認しない行動パターンが作られるか。傍観するか。いじめを止めるか。
 いじめが容認される行動パターンが作られれば、いじめが横行する。それは、集団が影響を与え合った結果なのである。
 女子高生のスカートが短くなる「原因」は何か。それは、みんながスカートを短くしていることである。
 では、いじめの「原因」は何か。それは、みんながいじめをしていることである。みんながいじめを容認していることである。傍観者が多いことである。
 つまり、「いじめの原因はいじめ」である。


(注1)

 正高信男氏は言う。

 調査対象となったクラスの先生に改めていじめの有無を尋ねたところ、横軸の値が三〇のあたりにできたピークにあたるクラスの大半では、特定の生徒への暴力行為が常習化していることも、判明しました。もう一つの大きいピークを構成しているクラスでは同様の報告は一切、出てきませんでした。
 (同上、108~109ページ)

 〈いじめを傍観する者の数〉は、いじめの指標となる。
 傍観者の多いクラスでは、いじめが「常習化」している。それに対して、傍観者の少ないクラスでは、そのような「報告」は無かった。


(注2)

 これは「いじめの原因は心ではない」証拠である。
 個人が持っている確固たる心(道徳意識)がいじめの「原因」であるならば、いじめの分布は正規分布になるはずである。身長と同じように中間が多くなるはずである。
 しかし、実際には二極化しているのである。

2015年06月02日

【いじめ論13】「いじめの原因はいじめ」である

 誤解を恐れず、ズバリと言い切ってみよう。

 いじめの原因は心ではない。
 いじめの原因はいじめである。

 スローガンとしてはこれでよい。(注)
 スローガンなので、もちろん雑である。それは、今後の論述で精密にしていく。
 「いじめの原因はいじめ」である。いじめは「女子高生のスカート長さ」と同様の現象である。
 東京の女子高生のスカートは短い。
 パンツが見えそうな位にスカートが短い女子高生がいる。あのように短くては、確かに冬は寒いだろう。必ずしも機能的とは言えない格好である。
 なぜ、スカートがそんなに極端に短くなるのか。
 そのような女子高生のありさまを思い浮かべて欲しい。スカートが短い女子高生が単独で存在することはない。スカートが極端に短い女子高生は集団で存在するのだ。仲間集団全体が短い状態なのだ。
 スカートを短くするのは集団の他の成員が短くしているからだ。集団の他の成員が短くしている以上、短くせざるを得ないのだ。
 だから、大阪では長いスカートを着ていた女子高生が、東京に引っ越したら短くせざるを得なくなる。
 つまり、これは集団的現象なのである。ある生徒の行動が他の生徒の行動に影響を与える。その行動がまた他の生徒の行動に影響を与える。生徒同士が影響を与え合う。その結果、極端な状態が発生する。
 いじめも同様の集団的現象である。「女子高生のスカートの長さ」と同様の集団的現象なのである。
 もし、「短いスカートをやめたい」と思っても、一人では出来ない。スカートが短い仲間集団内で一人だけ長いスカートを着るのは困難である。
 いじめも同様である。「いじめをやめたい」と思っても、一人ではやめられない。
 具体例を見てみよう。

 グループ内の交換日記に、順番にいじめがはじまり、次は誰をターゲットにするかというなかで、晶子さんがやめようと言い出したことでやられはじめたと書いていた。
 (武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、65ページ)

 晶子さんがいじめられたきっかけは「やめようと言い出した」ことである。一人でいじめをやめようとした結果、自分がいじめられるようになったのである。
 「いじめをやめたい」と思っても、一人ではやめられない。「やめようと言い出した」者がいじめられる。
 それは、いじめが集団的現象だからだ。
 「いじめの原因はいじめ」なのである。


(注)
 スローガンに頼っていては理論は出来ない。
 だから、理論からはスローガンを排除するべきである。
 しかし、現在、「いじめの原因は心である」という悪影響が大きいスローガンが信じられている。
 それに対抗するため「いじめの原因はいじめである」というスローガンを対置してみた。方向性が正しいスローガンである。
 また、このスローガンによって、今後の論述の方向性がはっきりしたはずである。
 

2015年05月24日

【いじめ論12】いじめっ子も「なぜ、いじめたのか」が分からないのだ

 大阪と東京では女子高生のスカートの長さが違う。大阪の女子高生はロングスカート、東京の女子高生はミニスカートである。
 大阪の女子高生は「冬は防寒、夏は日焼け対策」という理由でスカートを長くしていると言う。
 しかし、それは「後づけの理由」に過ぎない。
 先に挙げたウィトゲンシュタインの論をもう一度見てみよう。

 広くゆきわたった一種の思考法の病気ある。それは、我々のすべての行為が、あたかも貯水池から湧きでてくるように、そこから湧きでてくる心的状態とも呼べようものを探し求め(そして見つけ出してしまう)病気である。例えば、「流行が変わるのは、人の趣味が変わるためである」、と言う。趣味が心的な貯水池なのだ。しかし、洋服屋が今日、服のカットを一年前のとは違うふうにデザインする場合、彼の趣味の変化と呼ばれるものは実は、そのデザインをするというそのこと、またはそれを一部として含んでいるものであってはならないのか。
 (『ウィトゲンシュタイン全集6 青色本・茶色本 他』大修館書店、230ページ)

 人々が以前とは異なったデザインの服を着るようになった事態を「趣味が変わった」と言うことがある。しかし、「趣味」という「心的状態」が変わったから、着る服が変わったのか。「流行が変わる」のは「趣味」という「心的な貯水池」が変わるからなのか。
 違う。人々が着ている服のデザインが変わったのを見て、「趣味が変わった」と言っているだけなのである。着る服が変わったこと知る以外に「趣味が変わった」ことを知る方法はない。これは「後づけの理由」に過ぎない。
 大阪の女子高生と東京の女子高生は着ている服のデザインが違う。大阪の女子高生はロングスカートで、東京の女子高生はミニスカートである。
 これは大阪と東京で「趣味」が違うからなのか。何らかの「心的状態」の違いが理由なのか。
 確かに、両者とも自分の意図(心的状態)が行動の理由だと思っていた。スカートの長さを決める理由だと思っていた。例えば、大阪の女子高生は「防寒」「日焼け防止」という意図がスカートを長くする行動の理由だと思っていた。
 しかし、このような意図は行動の理由ではない。大阪の女子高生が東京に引っ越せば、周りの長さに合わせてスカートを短くするだろう。前回の文章で詳しく説明した通りである。
 いじめをした子供がその理由を述べることがある。自分の意図を述べることがある。しかし、これも「後づけの理由」に過ぎない。いじめっ子本人が述べる意図も「後づけの理由」なのである。
 実例を見てみよう。

 私にはいじめをした体験があります。なぜ、人をいじめたのか、私なりの説明を試みたい。
 だいたい、いじめられる子って、いつもオドオドしているでしょう。上目使いに人を見てさ。そんな〝姿〟を見てるだけで、非常にむかつく! 〝一発、いじめてやっか〟という気分にさせる子ばっかりなんですよ。
 それと、私たち子どもって、勉強、受験のストレスがびっしりとたまってるでょ。なのに、ストレスの発散場所、方法がない。そういう意味で、いじめって手軽なストレス発散方法なんです。
 そんな環境がつづく限り、いじめは絶対になくなりませんよ。ずっとつづきますよ。 (13歳・女性)
 (土屋守監修『ジャンプ いじめリポート』集英社、201ページ)

 もちろん、この「説明」も「後づけの理由」である。
 このいじめっ子は言う。「いじめられる子って、いつもオドオドしている」
 自分をいじめる相手の前で「オドオド」するのは当然である。別の相手の前ではのびのびしているかもしれない。自分が「オドオド」させているのを相手のせいにしている可能性がある。また、いじめの結果「オドオド」したのを、いじめのきっかけと勘違いしている可能性がある。
 また、いじめっ子は言う。「勉強、受験のストレスがびっしりとたまってる」
 「受験のストレス」が理由ならば、受験前の三年生の方がいじめが増えるはずである。そのような事実があるのか。
 さらに、「オドオド」している者をいじめない者も多い。「受験のストレス」があってもいじめない者も多い。
 これらの事実から次のことが分かる。このいじめっ子も、自分が「なぜ、人をいじめたのか」を知らない。私達と同じように、「第三者」として「なぜ、人をいじめたのか」を考えているのである。そして、「後づけの理由」を発見してしまったのである。
 思い出していただきたい。大阪の女子高生はスカートを長くする理由を「防寒」と述べていた。「防寒」はもっともらしい理由である。しかし、「防寒」は「後づけの理由」に過ぎなかった。
 いじめっ子がいじめをする理由を「受験のストレス」と述べるのも、これと同様である。「受験のストレス」はもっともらしい理由である。しかし、「受験のストレス」は「後づけの理由」に過ぎない。
 そのような意図(心的状態)がいじめ行動を引き起こしたのではない。それは、「防寒」という意図がスカートの長さを決めていなかったのと同様である。
 いじめ行動をおこなった後に、「受験のストレス」という意図によっていじめ行動を説明しているだけなのである。「心的状態」による行動の説明は、「後づけの理由」に過ぎないのである。

2015年05月17日

【いじめ論 番外編3】 「無法地帯」では、いじめが多発する

 いじめが事件化すると学校関係者がよく次のように発言する。

 いじめのサインに気がつかなかった。

 このような発言は虚偽である場合が多い。(注)
 実例を見てみよう。鹿川裕史君が自殺した事件である。

 担任はトイレに捨てられていた裕史くんのスニーカーを洗ってやりながら、「ぼくにできるのこれだけだ」と言った。
 教師でも「バリケード遊び」〔椅子や机を積み上げ人を閉じこめる「遊び」〕をやられて泣きそうになるものもいた。担任もBに殴られて肋骨を痛めたことがあった。それから生徒になめられる。授業中に乱闘騒ぎがあっても知らんふりをしていた。
 (武田さち子『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、21~22ページ)

 この教師は、鹿川君のスニーカーがトイレに捨てられていたことを知っている。
 そして、洗いながら「ぼくにできるのはこれだけだ」と言ったのである。
 つまり、既に、いじめについては知っていて、それを解決できなかったのである。自分が「殴られて肋骨を痛め」ても適切な手が打てない。「授業中に乱闘騒ぎがあ」っても止めることが出来ない。
 いじめで自殺が起こるような事件では、多くの場合で学級が荒れた状態にある。仮に、いじめは見えなくても、荒れは見える。学級が荒れていれば、いじめが起こるのは当然である。
 大津のいじめ自殺事件でも、教師が骨折させられている。教師が骨折させられるのだから、同様の暴力が生徒に向けられていると考えるのが当然である。
 いじめ自殺が起こるような学級は荒れていることが多い。荒れの状態を教師は認識している。そして、荒れているならば、いじめもあると想像するのが当然である。
 それにも関わらず、学校関係者は言う。「いじめのサインに気がつかなかった。」
 「サイン」どころではない。公然と暴力が振るわれているのだ。教師にすら暴力が振るわれているのだ。それを学校が解決できないのだ。
 なぜ、学校関係者は「サイン」などと言うのか。意図は分からない。
 しかし、客観的効果としては、責任を逃れる効果がある。「サイン」で見つけにくいものならば、見つけられなくても仕方がない。「気がつかなかったので、手が打てなかった」と主張できる。「気がついていたけれど、能力が足りなく解決できなかった」という事実を「隠す」ことが出来る。
 文部科学省は、いじめについて繰り返し通知を出している。〈いじめのサインを見逃さないように〉と早期発見を求めている。早期発見はもちろん大切である。
 しかし、これも客観的効果としては「責任逃れ」かもしれない。「めくらまし」かも知れない。
 まず、学校が荒れていることこそ問題なのである。普通に授業が出来ていないことこそ問題なのである。当然、提供されるべき教育サービスが提供されていないのだから。〈いじめのサインを見逃さないように〉と問題をいじめに限定することによって、このような明確な不祥事を「誤魔化す」ことができる。
 次のような比喩が分かり易い。

 いじめは「ゾウの鼻」である。

 ゾウの鼻は目立つ。鼻はゾウらしい部分である。しかし、鼻にヒモをかけてもゾウは持ち上がらない。ゾウを持ち上げるためには、胴体にヒモをかけなければならない。
 いじめも同様である。いじめは目立つ。しかし、いじめの発生を防止するためには、いじめだけに注目してもだめである。学校の荒れに注目するべきである。荒れを防止することが必要である。
 ある母親は言う。

 子どもたちが、怪我をせず無事に帰宅できるのは、当たり前なのではなくて、奇跡に近いのかも知れません。無法地帯にやるのですから。
 (朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、221頁)

 「無法地帯」ではいじめが多発する。
 学校の荒れを防止する必要がある。
 まず、正常な秩序が必要なのである。
 

(注)

 次の文章で詳しく論じた。
 
  「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法
   http://shonowaki.com/2015/03/post_121.html

2015年05月10日

【いじめ論11】女子高生のスカート長さが東京と大阪で違う理由

 〈いじめ〉を理解するために事例を分析する。重要な事例である。

 女子高生のスカートの長さ

 東京に住んでいると、短いスカートの女子高生ばかり見る。極端なミニの女子高生もいる。女子高生と言えば、ミニスカートという意識がある。
 しかし、大阪に赴任した日経新聞の記者は言う。

 大阪に赴任した際、街中で見かける女子高生の制服のスカート丈が長いことに驚いた。東京ではふとももが見えるミニが主流だったのに、こちらはふくらはぎが半分隠れるくらい長い生徒が目立つ。独自のファッション感覚なのか。  (『日本経済新聞』2013年12月22日) http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH1100H_R11C13A2AA1P00/

 大阪では「スカートの丈が長い」のだ。
 東京と大阪では、スカートの長さが大きく違う。東京はミニスカート。大阪はロングである。
 大阪の女子高生はロングスカートを着る「理由」を次のように述べる。

 府立高2年生は「短いのは安っぽいし、昔っぽい」ときっぱり。10人以上に聞いたが、学校では長い丈が主流という。「冬は防寒、夏は日焼け対策」という説明にもうなずける。(同上)

 「冬は防寒、夏は日焼け対策」と言う。しかし、これは「後づけの理由」に過ぎない。この女子高生は、自分がスカートを長くしている理由を自覚できていないのだ。
 現に、大阪より寒い東京ではスカートは短い。夏には、日にも焼けるだろう。それにも関わらず、東京ではスカートは短いのである。「防寒」や「日焼け対策」が理由ならば、東京でもスカートは長くなるはずだ。大阪の女子高生だけ「防寒」や「日焼け対策」への意識が高いのか。それは違う。
 ずばり言えば、大阪の女子高生がスカートを長くしている理由は次の通りである。

 周りの仲間が長くしているから。

 「短いのは安っぽいし、昔っぽい」とは〈周りの仲間が短くしていない〉の言い換えに過ぎない。大阪では、周りの仲間がスカートを長くしている。だから、この女子高生も長くしているのだ。
 例えば、「冬は防寒、夏は日焼け対策」と語っていた大阪の女子高生が東京に引っ越したと仮定してみよう。どうなるだろうか。

 周りのスカートの長さにに合わせて、スカートが短くなる。

 「冬は防寒、夏は日焼け対策」が理由ならば、スカートの長さは変わらないはずである。しかし、スカートの長さは変わるだろう。
 大阪から東京に引っ越した女子高生が一人だけ違った格好をするのは難しい。だから、周りと同じ長さに変わるだろう。つまり、ミニスカートに変わるだろう。
 現に、東京の女子高生は言っている。

 東京の女子高生に大阪の写真を見せると「東京だと浮くけど、かわいい」と評判は上々。(同上)

 長いスカートを着ていると、「東京だと浮く」のだ。大阪からの転校生が一人だけスカートを長くし続けるのは困難である。
 だから、東京に引っ越した大阪の女子高生のスカートは短くなる。東京の女子高生の長さになる。
 この大阪の女子高生がロングスカートを着る「理由」を述べたのと同じように、東京の女子高生もミニスカートを着る「理由」を述べている。

 「長いとスタイルが悪く見える。膝上15センチメートルにハイソックスかタイツを履くのが奇麗な脚の黄金比。私服は長めのスカートが好きな子も、制服はミニが普通」(同上)

 「長いとスタイルが悪く見える」のでミニスカートにしていると言うのだ。これも「後づけの理由」に過ぎない。
 次の部分に注目して欲しい。「私服は長めのスカートが好きな子も、制服はミニが普通」
 「長いとスタイルが悪く見える」ならば、私服でも「ミニが普通」になるはずである。私服では「スタイルが悪く見え」てもよいのか。よくはないだろう。
 私服と制服でスカートの長さが変わっているのである。制服ではミニスカートを着なければならない理由がある。
 それは、周りの仲間がミニスカートを着ているからだ。それこそ、寒かろうが日に焼けようがミニスカートを着なくてはならない。そうしないと「東京だと浮く」のだから。
 この〈女子高生のスカートの長さ〉と〈いじめ〉は似ている。
 どう似ているのか。
 今後、詳しく論じていく。

2015年05月03日

【いじめ論10】間違った〈いじめ認識〉が間違った〈いじめ対策〉を導く

 何か問題が起こった時に、「心・意識」に「原因」を求めるのは簡単なことである。それは、飲み屋の野球談義に似ている。飲み屋で、贔屓のチームが負けた理由を「気合いが足りなかった」「向かっていく気持ちが足りなかった」など話すのである。つまり、「心・意識」に問題があることにするのである。このような発言は非常に簡単に出来る。現実を詳しく検討しなくても、いくらでも出来る。
 これは野球ファンのストレス発散なのである。「心・意識」に「原因」を求めて、ファンがストレス発散をするのはあまり害は無い。
 しかし、そのようなことをいくら言っても、チームが負けた理由ははっきりしない。そして、チームを強くする方法も分からない。
 だから、チームの監督やコーチが飲み屋レベルの野球談義をしていたら大きな問題である。監督やコーチが「気合いが足りなかった」「向かっていく気持ちが足りなかった」などと言っていたら大きな問題である。
 同様に文部科学省が飲み屋談義レベルであるのは大きな問題である。「『いじめは人間として絶対に許されない』という認識を徹底できなかった」などと言っているのは大きな問題である。それでは、〈いじめの事実〉が明らかにならない。いじめを解決する方法も分からない。
 そして、文部科学省は飲み屋の談義レベルの認識に基づき、対策を立ててしまう。
 教育再生実行会議は「いじめの問題等への対応について」で言う。

 1.心と体の調和の取れた人間の育成に社会全体で取り組む。道徳を新たな枠組みによって教科化し、人間性に深く迫る教育を行う。   いじめの問題が深刻な事態にある今こそ、制度の改革だけでなく、本質的な問題解決に向かって歩み出さなければなりません。  (「いじめの問題等への対応について(第一次提言)抜粋」平成25年2月26日 教育再生実行会議)

 「いじめの問題等への対応」のために「道徳」を「教科化」せよ、と首相直属の諮問機関である教育再生実行会議が提言したのである。
 この提言を受け、現実に「道徳」が「教科化」されようとしている。
 つまり、「心・意識」がいじめの「原因」であるという認識が、間違った対策を導いたのである。文部科学省は飲み屋の談義レベルの認識に基づき、アホらしい対策を立てしまったのである。
 教育再生実行会議は先の提言において言う。

 ○ 子どもが命の尊さを知り、自己肯定感を高め、他者への理解や思いやり、規範意識、自主性や責任感などの人間性・社会性を育むよう、国は、道徳教育を充実する。

 これは、飲み屋で「気合いが足りなかった」「向かっていく気持ちが足りなかった」などと言うのと同じレベルである。
 このように文部科学省や首相直属の諮問機関の認識が飲み屋の野球談義レベルであるのは大きな問題である。それでは、〈いじめの事実〉が明らかにならず、有効な対策が立てられないからである。
 間違った〈いじめ認識〉を基にしていては、有効な〈いじめ対策〉を作ることは出来ない。有効な対策のためには、正しいいじめ認識が必要である。
 次回以降の論述で〈いじめの事実〉を明らかにする。〈いじめの過程〉をい明らかにする。〈いじめの発生メカニズム〉を明らかにする。
 つまり、私がおこないたいのは、〈いじめ認識〉のパラダイム転換である。いじめを捉える枠組み自体を変えることである。いじめを「心・道徳意識」の問題と捉える枠組みに代わる新しい枠組みを提供することである。

2015年04月26日

【いじめ論9】〈いじめの「原因」〉ではなく〈いじめの発生メカニズム〉を問うべき

 「心の教育」という考えはナンセンスである。「運をよくしよう」いう考えと同じくらいナンセンスである。既に、詳しく説明した通りである。
 確かに、我々は次のように言うことがある。
 

 「最近、運がよい。」
 
 これは、よいことが続いているという意味である。宝くじに当たったり、会ったことも無いブラジルのおじさんの遺産を相続することになったりしたのであろう。
 しかし、「運」が実体として存在する訳ではない。ある状態を「運がいい」と表現できるだけである。事後的に「運」という語を使って、その状態をそう表現できるだけである。
 だから、「運」を実体化して、次のように考えるのは問題である。
 
 「運をよくするためにはどうしたらいいだろうか。」
 
 このように考えては、間違った方向に行動してしまう可能性がある。
 例えば、次のような行動を引き起こす可能性がある。負けが続いている野球チームがベンチに塩を盛ったりする。勝ち続けているチームのキャッチャーが同じパンツをはき続けたりする。
 このような行動は本筋から外れている。(また、不潔である。)
 チームが負け続けている理由を考えるためには、別の種類の語を使わなくてはならない。その事実を見えにくくする点で、「運」という語は有害である。「運」という語は事実を明らかにするためには使えない。
 「心」という語もこれと同様である。
 教育関係者が次のよう言ったらどうだろうか。
 
 「心を善くするためにはどうしたらいいのか。」
 
 〈「心の教育」を推進すればいい〉となるのであろう。これは、とんでもない間違いである。「運」をよくしようと考えて、ベンチに塩を盛ったりパンツをはき替えなかったりするレベルの間違いである。
 プロ野球の監督ならば、連敗の理由を「運」に帰結させるべきではない。より具体的なレベルの事実に帰結させるべきであろう。例えば、先発メンバーの選択ミス、投手の交代時期のミス、バント・ヒットエンドランなどの作戦の選択ミスなどである。
 教育関係者もこれと同様である。
 「心」ではなく、具体的なレベルの事実の検討が必要である。
 確かに、一般的な領域では、「心」という語は一定の役に立っている。(注)
 しかし、教育方法を構想する領域では「心」という語は役に立たない。「心」という語は害になる。
 いじめ問題を「心」という語を使って説明しようという試みも有害である。いじめの「原因」が「心」だと考えると、次のような間違った教育方法を導くことになる。〈一人ひとりの心が悪いからいじめが起こる。だから、「心の教育」を強化しなければならない〉
 「心」という語は有害である。
 なぜ、「心」という語を使いたくなるのか。
 
 「いじめの原因は何か。」
 
 この問いが「思考法の病気」を引き起こす。
 「いじめの原因」と名詞で表現すると、「いじめの原因」があるような気がしてくる。単純な答えがあるような気がしてくる。「いじめの原因は、心・道徳意識の悪さである」などと言いたくなる。「心・道徳意識」に「原因」を求めたくなる。
 「いじめの原因は何か」と問うのではなく、「いじめはどのようなプロセスで発生するのか」と問うべきである。「いじめがある集団はどのような状態なのか」と問うべきである。
 〈いじめの「原因」〉ではなく〈いじめの発生メカニズム〉を問うべきである。〈いじめの過程〉を問うべきである。〈いじめの事実〉を問うべきである。
 事実の確認をすっ飛ばして「原因」を問うことが、「思考法の病気」を引き起こす。擬似的・事後的な説明に過ぎない「心・道徳意識」を「原因」だと考えるようになってしまう。
 〈いじめの事実〉を明らかにするが言葉が必要なのである。
 
 
 
(注)
 
 我々は次のように言うことが出来る。
 
 「心が苦しい。」
 
 この言葉で、我々は意味のある会話ができる。友人は心配してくれるであろう。これはこれでよい。
 「心」という語は、ある状況では十分役に立つ。
 しかし、ある領域で役に立つ語が別の領域では役に立たない。教育方法を考えるためには害になる。
 この事実に注目いただきたい。

2015年03月22日

【いじめ論 番外編2】 「いじめの兆候を把握できなかった」は虚偽の論法

 大津のいじめ自殺事件を受けて、平野博文文部科学大臣(当時)は言う。

 いじめが背景事情として認められる生徒の自殺事案が発生していることは大変遺憾です。子どもの生命を守り、このような痛ましい事案が二度と発生することのないよう、学校・教育委員会・国などの教育関係者が担うべき責務をいまいちど確認したいと思います。

 いじめは決して許されないことですが、どの学校でもどの子どもにも起こりうるものであり、その兆候をいち早く把握し、迅速に対応しなければなりません。文部科学省からの通知等の趣旨をよく理解のうえ、平素より、万が一の緊急時の対応に備えてください。
 (「すべての学校・教育委員会関係者の皆様へ[文部科学大臣談話]」平成24年7月13日)

 平野大臣は「その兆候をいち早く把握し」と言う。なぜ、「いじめ…自殺案件」で「兆候」の「把握」を強調するのか。〈いじめの「兆候」を「把握」できなかったから、対応できなかった〉と主張しているのか。
 しかし、大津のいじめ自殺事件の実体はそのようなものではない。
 第三者調査委員会の調査報告書は次の通りである。

 ア担任は.複数回,AがBから暴行を受けている場面を見ており.その度にBを制止しているし.クラスの生徒から「いじめちゃうん。」という言葉を聞いたり.Aがいじめられているので何とかして欲しいという訴えも聴いている。また,Aが.Bから暴行を受けたことについては.養護教諭をはじめとして他の教員から担任に報告か入っている。そして.担任自身も10月3日に養護教諭からBがAを殴ったことの報告を受けた際.「とうとうやりましたか。」と発言している……
 (大津市立中学校におけるいじめに対する第三者調査委員会『調査報告書』)

 担任自身が「暴行を受けている現場を見て」いる。「いじめられているので何とかして欲しい」と生徒からの訴えを受けていた。「兆候」どころか、教師はいじめの明白な事実を知ってた。知っていたにも関わらず、解決できなかった。
 「いじめの兆候」論は、このような事実を「隠蔽」する効果がある。

 いじめは発見しにくい → 兆候を見逃さないようにしなくてはならない → 残念ながら兆候を見逃してしまった → 兆候なので見逃してしまうのも仕方ない

 「いじめの兆候」論は、このように悪用可能な論なのである。
 教師はいじめを知っていた。しかし、それを解決できなかった。「いじめの兆候」論は、その事実を「隠蔽」してしまうのである。
 「いじめを知っていたが、解決できなかった」例は多い。
 深谷和子氏の調査では次のような結果が出ている。(学生に過去を思い出してもらう回顧的調査の結果)

 小学校でも中学校でも、「担任は『いじめ』を知っていた」とする者が三分の一、「たぶん知っていた」とする者を合わせると、八割を越える者が「担任はいじめを知っていた」と答えている。担任の知らない「いじめ」は一五%前後であり、「いじめ」は見えにくいと言っても、クラス内の「いじめ」の大半は担任の視野に入るものだ、ということになる。
 (深谷和子『「いじめ世界」の子どもたち』金子書房、40ページ)

 「八割を越える者が『担任はいじめを知っていた』と答えている」のである。
 教師はいじめを知っていた。しかし、それを解決できなかった。そのような事例が多くある。
 この事実を認めるべきである。
 失敗を認めずに、解決策を考えることは出来ない。いじめを知っていながら解決できなかった。この事実を認めなければ、いじめに対する対策は立てられない。
 「いじめ兆候」論が唱えられたら、注意する必要がある。それは事実を「隠蔽」するためかもしれない。


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2015年03月15日

【いじめ論8】 いじめの原因となる「道徳意識」は存在しない

 「道徳意識」と名詞で表現すると、「道徳意識」が存在するような気がする。しかし、いじめを引き起こす「道徳意識」は存在しない。
 全ての行動の原因となる「心・意識」は存在しない。
 この原理はギルバート・ライルによって定式化された。

 きわめて一般的に表現するならば、主知主義者の説話に潜む不合理な仮定は、理知的であると称せられる行為においてはそれがいかなる種類のものであれ、まずなすべきことを企画するというある内的作業がその行為に先行していなければならない、という仮定である。
 (ギルバート・ライル『心の概念』みすず書房、32ページ)

 「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が「心・意識」である。しかし、「行為に先行」する「内的作業」が必ず存在するという仮定は間違っている。
 ライルは次のような例を挙げる。

 機智 wit に富んだ人が冗談を言いそれを楽しんでいるとき、彼が依拠している格率ないし基準は何かと尋ねるならば、彼はその問いに答えることはできない。われわれはいかにして機転のきいた冗談を言うか、あるいはまたいかにして下手な冗談を見分けるかということは知っているが、その処方を他人のみならず自分自身に対してさえも告げることはできない。同様に、ユーモアの実践はユーモアの理論の従者ではないのである。
 (同、30ページ)

 ユーモアがある人が「冗談」を言う時、それに先だって「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が存在する訳ではない。彼は、自然に「冗談」を言うのである。だから、彼は次の問いに答えることは出来ない。「その『冗談』はどういうルール(格率・基準)を使って作ったのか。」
 同様に、いじめに関わる子供にも「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が存在する訳ではない。いじめをする子供は「まずなすべきことを企画するというある内的作業」を経ていじめる訳ではない。また、いじめを止める子供も、傍観する子供も「内的作業」を経てその行為をする訳ではない。いじめの原因になる「心・意識」が存在する訳ではない。
 次の事例で「まずなすべきことを企画するというある内的作業」が存在するか。存在しない。

 なぜ、彼女のことをいじめたのか。とくに理由はありません。ただ、なんとなく、その子がキライだったというか、虫が好かなかっただけ。いじめの原因なんて、そんなものではないでしょうか。
 (土屋守監修『ジャンプ いじめリポート』集英社、66ページ)

 標的になったのは、留年した男の子。すごくおとなしくて、マジメを絵にかいたような子です。
 最初のうちは、私たちもそれがいじめだとは思いませんでした。実際、留年したことをからかっている程度のことだったんです。
 ところが、日を追って、その男の子に対する〝攻撃〟はエスカレートしていきました。〝パシリ〟に使うのはもちろん、床に正座をさせて、殴ったり蹴ったり…。8人の男の子が交替しながらいじめるんです。
 (同、58ページ)

 前者では、いじめた本人が「とくに理由はありません」「虫が好かなかった」と言っている。後者では、いじめが「エスカレート」していった。
 これらのいじめ行動に先立って「まずなすべきことを企画するというある内的作業」があったのだろうか。違う。
 「ユーモアがある人が『冗談』を言う」ようにいじめがおこなわれたのである。「自然に」いじめがおこなわれたのである。
 だから、自分の行動の原因を当人も説明できない。「とくに理由はありません」「虫が好かなかった」と言うしかない。
 また、「エスカレート」させようと「内的作業」で決定した訳では無い。「自然に」「エスカレート」したのである。
 いじめ行動の原因となるような「内的作業」は存在しない。そのような「心・意識」は存在しない。

 〈全ての行動の原因になる心〉は存在しない。

 ライルが定式化したこの原理は、哲学の世界では前世紀中には常識になっていた。(何しろ『心の概念』は1949年発行である。)
 関連諸科学でも、「心」という概念が事実を明らかにするためには使えないという常識を作ってきた。
 しかし、教育界では未だに「心の教育」などと言う者がいる。まさに未開状態である。
 例えば、文部科学省は言う。

 ③ ……生きることの素晴らしさや喜び等について適切に指導すること。特に、道徳教育、心の教育を通して、このような指導の充実を図ること。
 (「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」)

 「心の教育を通して……指導の充実を図る」とある。しかし、「心の教育」と考えていては、いじめの事実は明らかにならない。いじめの事実を明らかにしないで、いじめ解決のための理論を作ることは出来ない。
 「心の教育」と言う者は、言葉に騙されているのである。
 いじめを引き起こす「心・意識」は存在しないのである。


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 第九週目、成功である。

2015年03月08日

【いじめ論7】 〈結果の記述〉と〈発生メカニズムの記述〉とは違う

 ウィトゲンシュタインは「哲学的困惑の大きな源の一つ」として次のものを挙げる。

 名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねば困るという考え
 (『ウィトゲンシュタイン全集6 青色本・茶色本 他』大修館書店、21ページ)

 私達は「運が悪かった」と言うことがある。これ自体は、十分理解できる普通の発言である。
 しかし、私達は、「運」と名詞で呼んだ途端、「対応する何かのもの」を探す方向に一歩進んでしまうのだ。例えば、次のように考えてしまうのだ。

 「運とは何か」
 「運をよくするためには、どうしたらよいのか」

 「運」という名詞で呼ぶと、実在する「運」を探してしまう。「名詞があればそれに対応する何かのものを見付け」ようとしてしまう。
 これが「哲学的困惑」「思考法の病気」の大きな源である。
 先に述べたように、「運」と「趣味」「道徳意識」とは同類である。
 「趣味」と名詞で呼ぶと、実在する「趣味」を探してしまう。しかし、実在する「趣味」が変わったから、服装が変わったのか。服装が変わったこと自体が「趣味が変わった」と表現されているだけではないのか。
 「道徳意識」と名詞で呼ぶと、実在する「道徳意識」を探してしまう。しかし、実在する「道徳意識」が変わったから、いじめをしなくなったのか。いじめをしないこと自体が「道徳意識が変わった」と表現されているだけではないのか。「道徳意識が徹底された」と表現されているだけではないのか。
 ある状態をある表現で記述できることがある。それは〈結果の記述〉としては役に立つ。しかし、事実のメカニズムを明らかにするためには役に立たない。〈発生メカニズムの記述〉としては役に立たない。
 ある学級が「道徳意識が徹底された」と表現されたとする。落ち着いていて、いじめが無いクラスになったのであろう。これは現状のクラスの状態をおおまかに理解するためには役に立つ。しかし、この記述は、いじめの〈発生メカニズムの記述〉としては役に立たない。いじめの事実を明らかにするためには役に立たない。

 〈結果の記述〉と〈発生メカニズムの記述〉とは違う。

 「道徳意識」と名詞で呼べるからといって、「対応する何かのもの」が存在する訳では無い。いじめが無いという結果を「道徳意識が徹底された」と記述できるからといって、「道徳意識」が存在する訳では無い。
 「道徳意識」という名詞があるから、「対応する何かのもの」が存在すると考えるのは間違いである。それは〈結果の記述〉に過ぎない。

 「道徳意識とは何か」
 「道徳意識をよくするためには、どうしたらよいのか」

 〈結果の記述〉として「道徳意識が徹底された」と表現することは出来る。しかし、「道徳意識」が存在すると考え、それによっていじめが発生すると考えるのは間違いである。「道徳意識」が存在すると考え、それに働きかけようとするのは間違いである。
 「道徳意識が徹底された」という表現では、いじめがどのように解決されたかは全く明らかにならない。いじめの事実は全く明らかにならない。これは〈発生メカニズムの記述〉ではないのである。
 それにもかかわらず、文部科学省は「道徳意識」の実体があると考え、「道徳意識」を変えようとする。「道徳意識」を変えることによって、いじめを防止しようとする。「道徳教育」「こころの教育」の推進を主張する。
 これはナンセンスである。お札を身につけたり、財布の色を黄色にしたりするのと同じレベルのナンセンスさである。
 「道徳意識」を変えようとするのは、「運」を変えようとするのと同様な行為なのである。「運」が実在する訳ではない。同様に「道徳意識」が実在する訳ではない。
 しかし、「道徳意識」と名詞で表現すると、「道徳意識」が存在するような気がしてしまう。そして、それを変えようとしてしまう。
 まさに、文部科学省は「思考法の病気」にかかっているのである。


【追記】

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 第八週目、成功である。

2015年03月01日

【いじめ論6】 ウィトゲンシュタインは〈行動の原因となる心〉を探すことを「思考法の病気」と捉えた

 「道徳意識が高まったから、いじめが無くなった」という文言はトートロジーである。「道徳意識が高ま」ったことは「いじめが無くなった」事実から判断されるのだから。
 これは、「いじめが無くなった」事実から、それに対応する「心・意識」を想定する思考である。我々には、行動の「原因」を「心・意識」に求める傾向がある。何か行動が起こった時に、それに対応する「心・意識」の状態を探す傾向がある。
 これは、既にウィトゲンシュタインによって指摘されていた。

 広くゆきわたった一種の思考法の病気ある。それは、我々のすべての行為が、あたかも貯水池から湧きでてくるように、そこから湧きでてくる心的状態とも呼べようものを探し求め(そして見つけ出してしまう)病気である。例えば、「流行が変わるのは、人の趣味が変わるためである」、と言う。趣味が心的な貯水池なのだ。しかし、洋服屋が今日、服のカットを一年前のとは違うふうにデザインする場合、彼の趣味の変化と呼ばれるものは実は、そのデザインをするというそのこと、またはそれを一部として含んでいるものであってはならないのか。
 (『ウィトゲンシュタイン全集6 青色本・茶色本 他』大修館書店、230ページ)

 「趣味が変わったので、流行が変わった」はトートロジーである。「趣味が変わった」となぜ分かるのか。「流行が変わった」からである。人々が着ている服が変わったからである。服のデザインが変わったからである。服のデザインが変わったという事実から、「趣味」という「心的状態」が変わったと想定したのである。
 「道徳意識が高まったから、いじめが無くなった」も同様である。「道徳意識が高まった」となぜ分かるのか。「いじめが無くなった」からである。子供がいじめをしなくなったからである。机を離したり、物を投げつけたりしなくなったからである。そのようないじめ行動が無くなったという事実から、「道徳意識」という「心的状態」が変わったと想定したのである。
 また、「道徳意識が低いから、いじめが起こった」も同様である。いじめが起こっているという事実から、「道徳意識」という「心的状態」を想定したのである。
 それでは、なぜ、〈行為に対応する心的状態を想定すること〉は悪いのか。「思考法の病気」なのか。
 それをはっきりさせるために、まず「運」という概念を考えてみよう。
 私達は、事故に遭った時などに、次のように言うことがある。

 「運が悪かった」

 これは、ごく普通の発言である。たまたまそこを通りかかったから事故に遭った。事故に遭わない他の可能性もあった。「運が悪かった」という文言で、そのような偶然性を表現できる。これは、一般的には特に問題ない発言である。
 しかし、このように言うことで、我々は「思考法の病気」に一歩近づいている。「運」と言うことによって、次のような思考に一歩近づいている。

 「運をよくするためには、どうしたらよいのか」

 これは「思考法の病気」である。「運」を実体があるものと考えているのである。「運」が存在すると考えて、働きかけようとしているのである。
 このように考えることによって、人は奇妙な行動をするようになる。「運」を操作しようとし始める。例えば、お札を身につけたり、財布の色を黄色にしたりするようになる。
 しかし、「運」など存在しない。壊れた車と同じ意味では存在しない。
 同様に「趣味」も存在しない。服と同じ意味では存在しない。
 同様に「道徳意識」も存在しない。いじめの手紙と同じ意味では存在しない。
 「道徳意識」が存在すると考え、それに働きかけようとするのは間違いである。いじめ対策として、「心の教育」をしようとするのは間違いである。それは、「運」をよくしようとしてお札を身につけたり、財布を黄色くするのと同じ類いの間違いである。存在しないものを存在すると想定して、それに働きかけようとしているのである。


【追記】

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 第七週目、成功である。

2015年02月22日

【いじめ論5】 「『いじめは許されない』という意識」が「徹底」されたと何を根拠に判断するのか

 もう一度、文部科学省の認識を見てみよう。

 ① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……
  (「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」)

 誠にアホらしい。
 「いじめは人間として絶対に許されないことですか」と訊けば、多くの者が「許されない」と答える。
 実例を挙げよう。少年院に在院中の中学生への意識調査である。

 クラスの子をいじめる 86.7% (「悪いこと」と答えた回答率)
  (品川裕香『心からのごめんなさいへ』中央法規、206ページ)

 大きな問題行動を起こした中学生ですら、86.7パーセントが「いじめるのは悪いこと」と答えている。さらに、一般の中学生では91.2パーセントが「いじめるのは悪いこと」と答えている。
 既に、大多数の子供は「いじめは悪い」と思っている。(少なくとも、「いじめは悪い」と言った方がよいことは知っている。)
 もし、野口良子氏が「道徳」授業で「いじめは人間として絶対に許されないことですか」と訊いたとすれば、生徒は「許されない」と答えるであろう。
 しかし、それに何の意味があるのか。口で「絶対に許されない」と答える者が、行動ではいじめをおこなう。それがいじめ問題の難しさなのだ。
 現に、野口良子氏の学級ではいじめが続いたのである。教師が情熱を込めて「いじめは人間として絶対に許されない」と語る。生徒も「いじめは許されない」と言う。それにもかかわらず、いじめは続くのである。
 別の観点から論ずる。
 文部科学省は、何を根拠に「徹底」されたと判断するのか。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が「児童生徒に徹底」されたと判断するのか。
 大まかに言って、二つの基準が考えられる。

 1 子供が口頭で「いじめは絶対に許されない」と言う。
 2 子供がいじめ行動をおこなわない。

 既に論じたように、1はアホらしい。
 「道徳」の授業で訊けば、子供は「許されない」と答える。しかし、そう答えた子供がいじめをするのである。だから、「許されない」と言うことは、「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」を持ったと判断する基準にはならない。
 それでは、2はどうだろうか。いじめ行動をおこなっていない事実を基準とするのである。いじめが発生していなければ、「徹底」されたと判断するのである。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が「徹底」されたと判断するのである。
 しかし、これは〈いじめが無い〉という結果から「道徳意識」という「原因」を想定したに過ぎない。「道徳意識」が「徹底」されたというのは、〈いじめが無い〉ことと同義である。つまり、これは実質的にトートロジーに過ぎない。
 次の文言を見ていただきたい。

 「いじめは絶対に許されない」という意識を持ったので、いじめが無くなった。

 この文言はトートロジーである。結果から「原因」を想定したに過ぎない。〈いじめが無い〉という事実から「道徳意識」という「原因」を想定したに過ぎない。
 口頭での答えに頼るのは無意味である。子供は「いじめは悪い」と「道徳」授業では言う。しかし、「いじめは悪い」と言った子供がいじめをするのである。
 〈いじめが無い〉という行動に注目するならば、特に「意識」を想定する必要がなくなる。「道徳意識」が「徹底」されたと言う必要がなくなる。「いじめは無い」・「いじめは無くなった」と言えばいいのである。
 「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が存在すると考えること自体が間違いなのである。


【追記】

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 第六週目、成功である。

2015年02月15日

【いじめ論4】 熱血教師が「いじめは絶対に許されない」と言っても効果は無かった

 「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせた実例を挙げる。
 中学校教師である野口良子氏は〈机をつけてもらえない子〉を発見した。それを「いじめ」と判断した。
 そして、野口良子氏は激しい怒りを示した。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせた。説諭をした。
 次のようにである。

 「どういうことなのか、まわりの人、答えなさい!! リカとどうして机をはなさなきゃいけないのか説明しなさい。私は、君たちが中学生になってはじめての授業だからと一週間は黙って様子を見てきたけど、もう我慢できない!! どうしてリカのまわりだけ机の位置が乱れるの!! アキオ、答えてください!!」
 リカの両サイドの子どもたちが目をそらす。いわゆる優等生のアキオは、不服そうな表情のまま、わずかに自分の机をリカの側に寄せる。
 私は邪険にアキオの机を引き寄せ、リカの両サイドの子どもたちの机も強引に移動させる。子どもたちは、机の脚に自分の足をからませながら、素知らぬ顔で私を見つめ、私に机を動かせまいと抵抗している。私は、子どもたちをにらみすえながら荒々しく机や椅子を動かす。子どもたちは、私の力とけんまくに押されながらも、まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている。どうやら「抵抗はムダ、野口はしつこいぞ、もうやめとこ」となったらしく、机の脚から足をはなし、抵抗をやめる。私は黙々と、自分の手で次々と机の位置をととのえ、三八名の子どもたちの机の間をゆっくりと歩く。ひとりひとりの子どもたちの目を見つめる。いつのまにか、教室は静まりかえる。
 「君たち。君たちは、人を差別したり、いじめたりすることは、とっても悪いことだって知ってるネ」
 「……」
 「君たち、自分が、リカと同じようにされたらどんな気がする? 嬉しい? 学校へくるのが楽しくなる? 私は、リカに感心しているよ。リカは、たくましい子だと思うの。君たちから、毎日毎日こんな扱いを受けても、こんなに明るい顔をして休まずに学校へ来ている。私がリカだったら、悲しくて学校なんか休んでしまうだろうと思うの。今の野口先生はたくましいけど、中学生の頃の私は、弱い子だったから……」
 「……」
 「君たちは、A中学校は悪いと思っているネ。二年や三年の先輩が、これ見よがしにタバコ吸って廊下を歩いていたり、服装違反してたり、先生にまき舌で文句言ってたりするのを見て、悪い奴って思ってるネ。でもネ、私は、あの子たちより、一年生の君たちの方が恐ろしい、心配だって思っているの。こんなふうに毎日毎日、リカをいじめている。このことの方が、二年や三年のツッパッてる子よりうんと悪い、ものすごく悪い、人間として許せないくらい悪い!! って思ってる。人間には、許せる誤ちと許せない誤ちってものがあるのよ。服装違反をしてることは許せても、人間をバカにする、いじめる、差別するってことは許せない。許してはいけないことなの。二年の子がタバコを吸っているからといって、学校へ来るのがイヤになるほどみじめな心になったり、となりの席の子が服装違反しているからって、生きることに絶望して自殺することなんてある? ないでしょ。でも、もし、リカのようにたくましい子でなければ、毎日のようにこんな『いじめ』されたら死にたくなるかもしれない。君たちのやっていることは、殺人的な悪さ、犯罪だってことをわかりなさい。二年、三年のツッテパッてるあの子たちより、何十倍、何百倍も悪いことをしているのです……」
 (野口良子『いじめを跳ね返した子どもたち1』明石書店、12~14ページ)

 野口良子氏は「いじめは絶対に許されない」という趣旨を言って聞かせた。
激しい怒りを示した。厳しく説諭した。
 「リカと同じようにされたらどんな気がする?」と〈他人の気持ちになる〉ことを求めた。〈ツッパリ行為よりいじめが悪い〉という原理を説いた。
 しかし、この後も、リカへのいじめは止まらなかったのである。
 説諭には効果が無かった。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせることは効果が無かった。
 国立教育政策研究所が発行した事例集には次のようにあった。
 

・いじめの意味を理解し、いじめを絶対に許さない心を育てる。
(『いじめ問題に関する取組事例集』40ページ)

 野口良子氏も「いじめの意味」を語った。
 次のようにである。

 「となりの席の子が服装違反しているからって、生きることに絶望して自殺することなんてある? ないでしょ。でも、もし、リカのようにたくましい子でなければ、毎日のようにこんな『いじめ』されたら死にたくなるかもしれない。君たちのやっていることは、殺人的な悪さ、犯罪だってことをわかりなさい。」(同上)

 野口良子氏は「いじめの意味」を語った。「こんな『いじめ』されたら死にたくなる」と語った。いじめを「殺人的な悪さ、犯罪」と位置づけた。
 しかし、これを聞いた生徒達はいじめをやめなかった。生徒達はリカをいじめ続けた。
 「いじめの意味」を語っても効果は無かった。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせても効果は無かった。説諭しても効果は無かった。
 なぜ、説諭は効果が無かったのか。ここでは、簡単に概略だけを示しておく。
 説諭に効果が無かったのは、いじめが〈集団的現象〉だからである。

子どもたちは、私の力とけんまくに押されながらも、まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている。どうやら「抵抗はムダ、野口はしつこいぞ、もうやめとこ」となったらしく、机の脚から足をはなし、抵抗をやめる。(同上)

 「子どもたちは……〔略〕……まわりの子どもたちと顔を見合わせ、抵抗を続けるべきか否かを暗黙のうちに相談しあっている」のである。集団でいじめを続けるかどうか「相談しあっている」のである。
 このような〈集団的現象〉に対して、個人の「心・意識」に働きかけようとしても効果は無い。「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせても効果は無い。(この論点は先の章で詳しく説明する。)
  次の事実に注目していただきたい。
 野口良子氏は情熱あふれる指導をした。具体的ないじめの事実を発見して怒りをあらわにした。理を尽くして原理を説明し、「君たちのやっていることは、殺人的な悪さ、犯罪」とまで言った。「いじめは絶対に許されない」という趣旨を厳しく言って聞かせた。
 それにもかかわらず、いじめは無くならなかったのである。
  「校長、教頭や生徒指導主任等による講話」「学年集会での生徒指導主任等による講話」が効果が無いのは当然である。ただ、 「いじめは絶対に許されない」と話をするだけだからである。
 野口良子氏の指導はそのような「講話」とは違う。野口良子氏の指導は多くの人が理想と考えるような指導である。言わば、金八先生的熱血指導である。しかし、その熱血指導は効果が無かったのである。
 情熱を込めて「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせても効果は無かったのである。


【追記】

 十週連続ブログ更新に挑戦中である。

  ● コミットメットが世界を変える ――烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付してダイエットしませんか

 第五週目、成功である。

2015年02月08日

【いじめ論3】 「いじめは絶対に許されない」と言って効果があるのか

 いじめを「道徳意識」の問題と捉える傾向は一般的である。
 例えば、国立教育政策研究所が発行した事例集には次のような指導案がある。

 

2 本時のねらい
・いじめの意味を理解し、いじめを絶対に許さない心を育てる。
・自他の生命を尊重する態度を育てる。
・いじめをなくすために自分ができることを進んで行う主体的態度を育てる。
 (『いじめ問題に関する取組事例集』40ページ)
 

 「いじめを絶対に許さない心を育てる」とある。つまり、そのような「心」があると思っている。「心を育てる」ことによっていじめが防止できると考えている。〈いじめを容認する心〉がいじめを引き起こすと思っている。
 この事例集は国立教育政策研究所が発行したものである。国立教育政策研究所も同様の認識に立っているのであろう。〈いじめを容認する心〉がいじめを引き起こすと考えているのだろう。少なくとも、間違った考えだとは認識していないことは確かである。間違った考えだと認識してたら、事例集には載せない。
 しかし、既に述べたようにいじめを「心・意識」の問題と捉える理論は間違いなのである。いじめを「道徳意識」の問題と捉える理論は間違いなのである。
 同じ子供達がいじめをしたり、しなかったりする。教師が変わると行動が変わる。教師が変わっただけでいじめが解決する。
 だから、子供の「道徳意識」がいじめを起こすと考えるのは不自然である。
 いじめは「道徳意識」の問題ではない。個人の意識の問題ではない。〈いじめを容認する心〉の問題ではない。
 「いじめを絶対に許さない心を育てる」を「ねらい」にするのは間違いである。「自他の生命を尊重する態度を育てる」を「ねらい」にするのも同様の間違いである。「生命を尊重する態度」が無いから、いじめが起こるのではない。
 注目していただきたい事実がある。
 これらの「ねらい」が「本時のねらい」になっていることである。つまり、一時間の授業の「ねらい」なのである。一時間の授業で、「いじめを絶対に許さない心を育てる」「自他の生命を尊重する態度を育てる」という壮大な「ねらい」を達成するらしい。
 それは不可能である。この「本時のねらい」は誠に不可解である。(国立教育政策研究所は、この異常な「本時のねらい」を見て何とも思わなかったのか。)
 百歩譲って、この「本時のねらい」をこの授業を含む全体の活動の「ねらい」だと考えよう。一年を通じた「ねらい」だと考えよう。この授業は、「学校における非行防止教室を支援する取組」の一環である。

 県教育委員会では、5月から7月を「非行防止強化期間」と定めるとともに、年間を通して、各県公立小学校・中学校・高等学校において児童生徒の「人を思いやる豊かな心の育成」、「規範意識の醸成」などを目的とした「非行防止教室」を実施している。

 年間を通して「ねらい」を達成するというのならば、まだ理解できる。(つまり、ナンセンスさの程度は低くなる。)
 それでは、具体的には何がおこなわれているのか。

 

<具体的な取組例・内容>
○ 関係機関から講師を招いての講話やビデオ視聴等
○ 校長、教頭や生徒指導主任等による講話 ○ 学年集会での生徒指導主任等による講話
○ HRでの担任による講話            ○ 作文、感想文やディベート
○ 学校だより、PTA広報誌等を使い、家庭や地域との連携
 

 結局のところ、活動の中心は「講話」である。〈「いじめは絶対に許されない」と指導者が言って聞かせる〉という形式である。
 「言って聞かせる」は典型的な形式である。説諭は典型的な形式である。
 例えば、「道徳」授業で「いじめは絶対に許されない」と教師が説諭する。いじめが起きた時に学級会を開いて「いじめは絶対に許されない」と教師が説諭する。教師がいじめをした子供を呼び出し「いじめは絶対に許されない」と説諭する。
 これらは一般的におこなわれている指導方法である。そして、効果が無い場合が多い。
 次のような図式である。

 子供は「いじめを絶対に許さない心」を持っていないと考える。

      ↓

 「いじめは絶対に許されない」と言って聞かせる。

 いじめを「心・意識」の問題と捉えているので、「心・意識」に働きかけようとする。言って聞かせようとする。説諭という方法を採る。
 いじめを「道徳意識」の問題と捉えているので、文部科学省は道徳教育の強化を求める。いじめを「道徳意識」の問題と捉えていると、その「道徳意識」に働きかけたくなる。説諭したくなる。
 いじめ観の間違いが指導方法の間違いを引き起こしているのである。


【追記】

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 第四週目、成功である。

2015年02月01日

【いじめ論 番外編1】 いじめの責任を論ずるための論理 ――「いじめられた子・家庭に責任がある」のか

 いじめの責任を問われた側が、次のような発言することがある。

 「家庭に責任がある」  「いじめられた子に責任がある」

 このような発言をどう考えたらいいのか。
 「家庭」に責任があるからといって、学校に責任がない訳ではない。同様に、「いじめられた子」に責任があるからといって、いじめる子に責任がないことにはならない。
 次のような比喩が分かり易い。

 学校の暖房装置が故障した。真冬だったので、教室の温度が氷点下になってしまった。子供は風邪気味だった。しかし、家庭は子供を学校に行かせた。そして、子供は肺炎になって死んでしまった。

 子供が死んだ原因は、暖房装置の故障か。それとも家庭が登校させたことか。無理をして学校に行った子供か。それとも肺炎の菌か。
 この問いはアホらしい。それぞれに、別種の責任がある。
 つまり、学校は施設の管理者としての全ての責任を負う。そして、家庭は子供の管理者としての全ての責任を負う。子供は自分の行動の全ての責任を負う。そして、菌は病気の発生の全ての責任を負う。
 これらは観点を変えた時に見えてくる別種の責任である。
 だから、「子供の死の原因は、学校か。それとも家庭か。」と問うのはナンセンスである。また、「学校と菌とのどちらがどの程度悪いか」と問うのもナンセンスである。観点を変えた時に見えてくる別種の責任なのである。
 いじめもこれと同様である。ある観点から見れば、学校が全ての責任を負う。また、別の観点からみれば、家庭が全ての責任を負う。ある観点から見れば、いじめっ子が全ての責任を負う。別の観点から見れば、いじられた子が全ての責任を負う。
 「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は、これらの責任を対立的に捉えることである。例えば、「家庭の責任だから、学校に責任はない」と捉える。これは間違いである。
 責任は多面的なのである。「学校責任かつ家庭責任」なのである。
 だから、いじめへの対応の悪さを批判された学校が「家庭の責任である」と言ったら、〈論点変更の虚偽〉になる。「家庭の責任」があるからといって、学校に責任が無いことにはならない。

 「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は〈論点変更の虚偽〉に使われる。

 当事者であれば、広い意味で何らかの「責任」があるのは当たり前である。当たり前のことを、なぜ取り立てて言うのか。誰が誰に対してどのような状況で言うのか。〈論点変更の虚偽〉になっていないか。注意する必要がある。

 学校が「家庭に責任がある」「いじめられた子に責任がある」などと言ったら、疑うべきである。
 「家庭責任論」「いじめられた子責任論」は〈虚偽〉の論法なのである。


【追記1】

 現実の事象は複雑である。多面的である。
 しかし、我々は、ただ一つの「責任」を探してしまう傾向がある。このような〈一元的な責任論〉は間違いである。〈多元的な責任論〉が必要である。
 次の文章で論じた。

  ● 「自己責任論」批判

 この文章の形式をそのまま使って、「いじめの責任論」を論じた。
 我々は「責任」という語に騙される傾向がある。「責任」という語で〈一元的な責任〉を考えてしまうのである。〈多元的な責任〉を考えるのが難しいのである。


【追記2】

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 第三週目、成功である。

2015年01月29日

「自己責任論」批判

 ジャーナリストが危険地帯に取材に行き、テロリストの人質になる。
 そのような場合、次のような発言がされることが多い。
 

 「危険を知って行ったのだから、自己責任である」
 
  いわゆる「自己責任論」である。
 「自己責任論」をどう考えるか。
 危険地帯に行った者に「自己責任」があるのは当たり前である。しかし、だからと言って、他の者に責任が無い訳ではない。
 次のような比喩が分かり易い。
 
 学校の暖房装置が故障した。真冬だったので、教室の温度が氷点下になってしまった。子供は風邪気味だった。しかし、家庭は子供を学校に行かせた。そして、子供は肺炎になって死んでしまった。
 
 子供が死んだ原因は、暖房装置の故障か。それとも家庭が登校させたことか。無理をして学校に行った子供か。それとも肺炎の菌か。
 この問いはアホらしい。それぞれに、別種の責任がある。
 つまり、学校は施設の管理者としての全ての責任を負う。そして、家庭は子供の管理者としての全ての責任を負う。子供は自分の行動の全ての責任を負う。そして、菌は病気の発生の全ての責任を負う。
 これらは観点を変えた時に見えてくる別種の責任である。
 だから、「子供の死の原因は、学校か。それとも家庭か。」と問うのはナンセンスである。また、「学校と菌とのどちらがどの程度悪いか」と問うのもナンセンスである。観点を変えた時に見えてくる別種の責任なのである。
 人質問題もこれと同様である。ある観点から見れば、本人が全ての責任を負う。別の観点から見れば、テロリストが全ての責任を負う。さらに、別の観点からみれば、政府が全ての責任を負う。
 「自己責任論」は、これらの責任を対立的に捉える。例えば、「自己責任だから、政府に責任はない」と捉える。これは間違いである。
 責任は多面的なのである。「自己責任かつ政府責任」なのである。
 だから、救出の努力の足りなさを批判された政府が「自己責任である」と言ったら、〈論点変更の虚偽〉になる。「自己責任」だからといって、政府に責任が無いことにはならない。
 
 「自己責任論」は〈論点変更の虚偽〉に使われる。
 

 「自己責任」があるのは当たり前である。当たり前のことを、なぜ取り立てて言うのか。誰が誰に対してどのような状況で言うのか。〈論点変更の虚偽〉になっていないか。注意する必要がある。
 「自己責任論」は〈虚偽〉の論法なのである。

2015年01月25日

【いじめ論2】 いじめは「道徳意識」の問題か

 いじめ事件が起こる度に「『こころの教育』が必要」だという主張がされる。道徳教育の必要性が主張される。「いじめ防止対策推進法(概要)」は「学校の設置者及び学校が講ずべき基本的施策」の一番目に「道徳教育等の充実」を挙げている。
 なぜ、「道徳教育の充実」を求めるのか。それは、いじめを「心・意識」の問題と捉えているからである。
 例えば、「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」で文部科学省は言う。

 ① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……

 これは「適切な教育指導」の最初に出てくる文言である。一番最初に述べたのだから、文部科学省が一番重要であると認識している内容なのであろう。
 文部科学省は次のようないじめ観を持っていると言える。

 「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識を一人一人の児童生徒」が持っていないから、いじめが起こる。一人一人がそのような意識を持てばいじめは無くなる。だから、そのような意識を持つように「徹底」する。

 文部科学省は、子供が「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」を持っていないからいじめが起こると捉えている。「道徳意識」が低いからいじめが起こると捉えている。そうならば、「道徳意識」を高くしなければならない。だから、文部科学省は「道徳意識」を高くする「道徳教育等の充実」を求めている。「こころの教育」・「道徳教育」の強化を求めている。
 つまり、いじめを「心・意識」の問題と捉えているのである。
 しかし、いじめは本当に「心・意識」の問題なのか。子供の「道徳意識」が低いからいじめが起こっているのか。
 具体例を見よう。
 いじめられていたS君の体験である。
 

 〔小学〕三年になると、毎朝学校に着くとすぐにけんかが始まって、先生(若い女の先生)が来ても止まりませんでした。その先生は「けじめを付けましょう」と口では言うけれど、ぐちぐちと迫力が無いし、授業にめりはりがなくて、みんな学校に来るだけでストレスがたまっていました。
 初めは、いじめの中心だったA君、B君、C君が授業とは関係ないことを大声でいったり、先生を無視したり、トイレに行って帰ってこなかったりしました。授業参観の日も変わりません。
 特に、ストレスのたまりやすいA君が爆発して、休み時間にみんなに八つ当たりをすると、みんなもどんどん爆発していき、何の対応もできない先生の授業を無視し始めました。この状態が一年間続きました。
 四年になり、校内では、厳しいと言われていた男の先生にかわると、ぴたりと止まりました。
 その先生は、休み時間になるとみんなと遊んでくれました。授業もめりはりがあって面白くなりました。(朝日新聞社会部編『なぜ学級は崩壊するのか』教育資料出版会、26ページ)
 

 S君のクラスでは、いじめがおこなわれていた。「いじめの中心だったA君、B君、C君が授業とは関係ないことを大声でいったり」する荒れた状態だった。
 しかし、教師が変わると、いじめはなくなった。三年では荒れていた学級が、四年では落ち着いた。学級の成員は変わっていない。変わったのは教師だけである。
 この事例で、子供の「道徳意識」は変わったのか。つまり、三年の時は「道徳意識」が低く、四年になったら急に高くなったのか。それは不自然である。
 逆の例も聞く。落ち着いていた学級が、教師が変わって荒れたというのである。その場合、高かった「道徳意識」が急に低くなったのか。それも不自然である。
 確認していただきたい事実がある。「道徳意識」概念自体が、周りの影響を受けて変化しない確固たる状態を指す概念なのである。短期間に簡単に変化しない状態を指す概念なのである。(そのような「道徳意識」が本当に存在するかどうかは別として。)だから、「三年から四年になったとたん道徳意識が高まった」・「教師が替わったとたん道徳意識が低くなった」という文言は不自然なのである。

 教師が変わるだけでいじめが解決した。

 「道徳意識」が低いからいじめが起こったと捉えていては、このような事例を説明できない。いじめを「心・意識」の問題と捉えていては、このような事例を説明できない。
 〈「道徳意識」が低いから、いじめが起こる〉といういじめ観は間違いなのである。教師が変わっただけで、いじめは無くなったのである。この状態を「道徳意識」で説明するのは困難である。
 いじめを「心・意識」の問題と捉えていては、いじめを説明する理論を作ることは出来ない。いじめの解決に役立つ理論を作ることは出来ない。


【追記】

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 第二週目、成功である。

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2015年01月18日

【いじめ論1】 はじめに ――いじめ観のパラダイム転換が必要

 いじめについて広く信じられている考えがある。それは「悪い心がいじめを引き起こす」という考えである。「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えである。
 この考えはあまりにも一般的すぎて、教育界で疑われることはなかった。その考えを信じている者も、特定の考えを「信じている」と自覚すらしていないだろう。
 例えば、文部科学省は「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識とポイント」で言う。

 ① 「いじめは人間として絶対に許されない」という意識を一人一人の児童生徒に徹底させなければならないこと。……

 国立教育政策研究所が発行した「いじめ問題に関する取組事例集」には次のような授業の「ねらい」がある。

 ・いじめの意味を理解し、いじめを絶対に許さない心を育てる。

 これらは、いじめを心・道徳意識の問題と捉えているのである。「『いじめは人間として絶対に許されない』という意識」が無いからいじめが起こると捉えているのである。「いじめを絶対に許さない心」が無いからいじめが起こると捉えているのである。「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」・「悪い心がいじめを引き起こす」と考えているのである。
 この考えは、広く信じられている。いじめは心・道徳意識の問題であるという考えは、多くの人が信じ、疑いすらしない考えなのである。
 しかし、この一般的な考えは、正しいのだろうか。いや、正しくない。
 反例を挙げよう。担任の教師が変わっただけで、いじめがなくなることがある。子供達は変わっていないのに、いじめがなくなるのだ。これは心・道徳意識の問題なのか。教師が変わると一瞬で、子供の心がよくなり、道徳意識がよくなるのか。それは不自然である。
 このような現象は、心・道徳意識では説明できない。
 いじめが、心・道徳意識の問題であるという考えは間違っているのだ。それは部分的な間違いではない。根本的な間違いである。
 だから、「悪い心がいじめを引き起こす」・「悪い道徳的意識がいじめを引き起こす」という考えは、全く別の考えに変えなくてはならない。
 また、いじめ観は、いじめ対策と結びついている。いじめ観が間違っていれば、いじめ対策も間違ったものになる。当然、現状のいじめ対策を批判し、新しいいじめ観に基づくいじめ対策を示すことになる。
 間違ったいじめ観を基にしていては、有効ないじめ対策を作ることは出来ない。間違ったいじめ観は、歪んだ基礎のようなものである。歪んでいるので、その上に建物を建てることは出来ない。建てようとすると倒れてしまう。
 有効な対策のためには、正しいいじめ観が必要である。
 つまり、いじめ観のパラダイム転換が必要なのである。
 以下の論述で私がおこないたいのは、そのようなパラダイム変換である。いじめを捉える枠組み自体を変えることである。いじめを心・道徳意識の問題と捉える枠組みに代わる新しい枠組みを提供することである。


【追記】

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 第一週目、成功である。

2015年01月11日

コミットメットが世界を変える ――烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付してダイエットしませんか

■ 原稿が書けない

 本の原稿を書いている。
 3カ月で出来るはずだった。
 しかし、もう3年が経ってしまった。
 何かがいけないのだ。
 私は、雑誌原稿等を落としたことはない。締め切りは守る人間だ。
 それなのに、なぜ、本の原稿は完成しないのか。
 答えは簡単だ。締め切りが無いからだ。締め切りが無いといつまでも、原稿を直し続けてしまうのだ。


■ コミットメントを活用しよう

 答えが分かれば、対策も簡単だ。締め切りを作ればいいのだ。
 締め切りを作って、コミットメットすればいいのだ。
 例えば、次のように。
 

 2015年3月31日までに本の原稿を完成させる。
 完成できなかった場合は、罰として在特会に1万円寄付をする。
 
 これならば、絶対に原稿は完成するだろう。
 在特会に寄付するのは、人間として最低の行為だ。在特会のホームページのトップページに名前を挙げて感謝してもらえれば、さらにいい。
 そんな辱めを受けるくらいならば、原稿を完成させるだろう。
 しかし、それほどの大技を繰り出さなくても、原稿は完成できるのではないか。大技はもっと凄い目標のためにとっておこう。
 もう少し楽しいコミットメントはないか。
 目標が達成できたら、ご褒美がもらえるようにコミットメントを設計すればいい。
 
 2015年3月31日までに本の原稿を完成させる。
 完成できた場合は、ご褒美として烏賀陽弘道氏に1万円寄付できる。
 
 これならば楽しい。
 烏賀陽弘道氏のフクシマ取材記事は貴重な情報である。

   ● 烏賀陽弘道氏のフクシマ取材記事(JBpress)

 そのフクシマ取材を応援するために寄付が出来るのである。
 これをネット上で公言しておけば、コミットメントとして機能する。つまり、達成できなかった場合は、恥をかくことになる。締め切りを守る人間という私の評判ががた落ちになる。それが原稿を完成させるインセンティブになる。


■ ダイエットに活用も可能

 この「楽しい企画」には、多くの人が参加することが出来る。
 例えば、相乗りである。
 

 諸野脇さんが原稿を完成できたら、私も5千円寄付する。

 相乗りして、私に圧力をかけるのである。これは怖い。完成できなかったら、「諸野脇さんのせいで寄付できなかった」と責められるのである。
 また、自分の目標をコミットメットすることも出来る。例えば、ダイエットをコミットメントすることも出来る。
 
 2015年3月31日までに10キロやせる。
 やせることが出来た場合は、ご褒美として烏賀陽弘道氏に1万円寄付できる。
 
 10キロやせたら、烏賀陽弘道氏に寄付できるのだ。
 目標を達成したら、自分がご褒美がもらえるという形でコミットメントを設計するのである。ご褒美は各自が設定すればよい。「奈良に行ける」でもよいし、「アナログシンセを買える」でもよい。これならば意欲がわく。


■ 達成しやすい小さい目標に

 目標は、本の原稿の完成だ。
 しかし、それでは目標が大きすぎる。遠すぎる。途中で力尽きる可能性がある。
 小さい目標を作った方がよい。目標達成への過程をスモールステップで構成するのである。
 

 毎週ブログに文章をアップする。
 それを十回おこなう。
 アップする度に、千円を烏賀陽弘道氏に寄付できる。

 
 これならば、達成は容易である。小さい目標を達成することで、結果的に大きな目標を達成できる。


■ ジャッジをどうするか

 目標にコミットメントをしたら、目標を達成したかどうかを判定する必要がある。
 この点で、ブログへの文章アップという目標には強みがある。誰でもブログを見ることが出来る。誰でも私が目標を達成したかどうかを判定できる。特定のジャッジは必要ないだろう。
 しかし、ぜひジャッジをしたいという方がいれば言って欲しい。それはそれで楽しい。
 ダイエット・禁煙を目標にした場合は、これと対照的である。ネット上では目標を達成したかどうか分からない。このような場合、ジャッジが必要かもしれない。しかし、自分をジャッジにしても問題が起こらない場合が多いことが知られている。嘘をつけない人が多いのだ。自分は、自分が目標を達成したかを知っている。


■ それでは、始めましょう

 幸い烏賀陽弘道氏にはPayPalで簡単に送金できる。

   ● 「投げ銭のやり方」です

 それでは、私は、私のコミットメットを実行する。

 毎週ブログに文章をアップする。(日曜が締め切り)

 それを十回おこなう。
 アップする度に、千円を烏賀陽弘道氏に寄付できる。

 私はブログ十回連載をコミットメントした。
 みなさんも、烏賀陽弘道氏のフクシマ取材に寄付をコミットメントしてダイエットしてみませんか。(もちろん、寄付先は自分の興味に合わせて選べばよい)

2011年10月05日

「節電」批判 ――原発を全て止めても電気は足りている

 電気が足りないのはピーク時の数時間だけである。だから、必要なのはピーク時の電力使用を抑えることである。「ピークシフト」である。
 それを「節電」と考えると間違った行動をしてしまう。電気が余っている夜に街灯を消したりしてしまう。
 また、ピーク時の電力使用量に合わせて発電所を整備してきたため、平常時を基準にすれば発電所は余っている。原発を全て止めても何の問題も無い。
 以下の連続ツイートで詳しく論じた。
 

諸野脇 正 の Twitter

「節電」で死者が出た。http://bit.ly/pVWwRC 道が暗くて追突事故が起きたのである。なぜ電気が余っている深夜に街灯を消すのか。我々は「節電」という語に騙されているのである。「節電」だと思うから深夜に街灯を消してしまう。必要なのは「節電」ではない。

我々は「節電」という語に騙されている。電力が余っている深夜に街灯を消して、死者まで出した。http://bit.ly/pVWwRC必要なのは「節電」ではなく「ピークシフト」である。夏の電力需要のピークを平準化することである。http://bit.ly/hEJ2PH

東京電力は5月に配布したプリントで言う。「今後も電気のご使用をお控えいただき、より一層の節電にご協力をお願い申し上げます」 電気の使用を控える「節電」を求めている。しかし、必要なのは「ピークシフト」である。夏の数日間の電力需要のピークを抑えればいいだけなのである。

東京電力は5月に配布したプリントで言う。「今後も電気のご使用をお控えいただき、より一層の節電にご協力をお願い申し上げます」 東電は、全面的な「節電」を求めている。しかし、必要なのは「ピークシフト」である。真夏の数日間の電力需要のピークを抑えればいいだけなのである。

必要なのは「節電」ではなく「ピークシフト」である。http://bit.ly/hEJ2PH 例えば「氷蓄熱空調システム」である。電力が余っている夜間に氷を作り、それを冷房に利用するのである。このような発想は「節電」からは出てこない。

夏のピーク時、家庭ではエアコンと冷蔵庫で電力の約7割を使っている。つまり、エアコンと冷蔵庫をピーク時の数時間止めれば効果大。これは「氷蓄熱システム」の方法で可能。夜間にペットボトルに氷を作っておく。氷と扇風機で冷房。氷を冷蔵庫に入れておけば電源を切っても大丈夫。

エアコンと冷蔵庫で電力の約7割を使っているのだから、エアコンと冷蔵庫の電源を切れれば効果が大きい。これはペットボトルを使った簡易「氷蓄熱システム」で可能。夜間に作った氷を昼間のピーク時に使うのである。このような発想は「節電」からは出てこない。

「ピークシフト」として効果的なのは、夜間にペットボトルで氷を作り、それを利用してエアコンと冷蔵庫をピーク時に数時間止めること。しかし、そんな面倒なことを多くの人はしないだろう。しかし、ピーク時の電気料金が十倍だったらどうか。面倒なことでもおこなうようになるだろう。

ピーク時の電力料金を数倍するだけで、多くの人が「ピークシフト」の工夫を始める。ピーク時に電気を使わないように工夫を始める。すると電力不足など無くなってしまう。つまり、今回の電力危機は「偽の電力危機」である。価格システムが硬直的なため問題が発生しているだけである。

発電能力は余っている。日本は、ピーク時と閑散時の電気料金が同じという硬直的価格システムの元で発電所を作ってきた。ピーク時を乗り切るための大量の発電所がある。原発が全部動かなくても、発電能力的には問題はない。価格システムを変えればいいだけである。

原発が全て止まっても問題ない。発電能力は元々余っている。電力会社は、最大需要を満たすことが出来る大量の発電所を作った。だから、普段は発電能力は大量に余っている。あとは「ピークシフト」で、夏のピーク期間の数時間を乗り切ればいい。

原発が止まっても問題はない。水力と火力で最大需要量を満たせるのである。http://bit.ly/pcUL5O この小出裕章氏作成のグラフは政府の統計を元に作られている。政府の統計が、原発が止まっても問題ないことを示している。

電力料金の硬直性が「偽の電力危機」を引き起こす。ホテル料金を年間を通じて一定にしたらどうなるか。例えば、5千円にしたらどうなるか。繁忙期にホテルが足りなくなる。「ホテル危機」が起こる。「偽の電力危機」はこれと同様の事態である。

常時5千円という料金を元に、ホテルを建設するとどうなるか。繁忙期の「ホテル危機」に対応するためにホテルだらけになる。同様に、日本は発電所だらけなのである。一定の電力料金を元に、ピーク時の需要を満たす発電所を作ったからである。

「偽の電力危機」は、ピーク時の電力料金を上げて「ピークシフト」を促すことによって解決できる。これは必ずしも電力料金の値上げを意味しない。閑散時の料金を下げて、年間トータルで今と同じ料金になるようにすればいいのである。

日本は発電所だらけになっている。一定の料金を元に、ピーク時の需要を満たす発電所を作ったからである。さらに発電所を増やすインセンティブがある。電力会社の利潤は資産に報酬率をかけて決まるのだ。これは発電所(資産)を増やしたくなる。

電力会社は「原発を造れば造るほど儲かる」(『原発のウソ』)と小出裕章氏は言う。利潤が「資産の何%」という形で決まるからである。「原発は建設費が膨大で、1基造ると5000億」もかかる。原発を造れば、簡単に資産を増やせる。儲かる。

「節電」で人が死んでいる。http://bit.ly/nuNAjU http://bit.ly/pVWwRC 何人死んだら、必要なのは「節電」ではなく「ピークシフト」だと気がつくのか。「節電」と考えると行動を間違う。人が死ぬ。

「節電」ではなく「ピークシフト」と考えることで、重要な事実に気がつく。夜に街灯を消す必要は無い。「ピークシフト」を促すためにはピーク時の電気価格を上げればよい。価格を一定にしたため発電所が大量に作られた。既に詳しく論じた通り。
                           (7月9日~14日)
                 http://twilog.org/shonowaki/date-110709/asc

 
 「節電」ではなく、「ピークシフト」を行なえばよい。
 自動車メーカーが電力需要が多い木金を休みにし、土日に操業した。これは「ピークシフト」である。
 
   ● 土日稼働、木金休みを発表 自工会、全国の工場で
 
 「ピークシフト」によって、ピーク時の電力需要を抑えることが出来た。
 東京電力管内の原発は止まっていた。しかし、何の問題も無かった。実質的に電力は不足していなかった。
 やはり、「偽の電力危機」であったのだ。

                    諸野脇@インターネット哲学者


2011年04月22日

【戸田ひさよし書簡への返信】 インターネット選挙に対する選管・警察の「摘発するぞ詐欺」を止めさせよう ――裁判に追い込もう

 戸田ひさよし氏から次の公開書簡をいただいた。
 今回の選挙でも、戸田ひさよし氏はホームページを活用し続けている。

   http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=6731;id=01#6731

 以下の文章が、私の公開返信である。


● インターネット選挙に対する選管・警察の「摘発するぞ詐欺」を止めさせよう ――裁判に追い込もう

戸田ひさよし様

 インターネット上の選挙活動は合法であると主張し続けて十年になります。
 
   http://www.irev.org/shakai/isenkyo1.htm
   http://www.irev.org/shakai/isenkyo2.htm
  
 この間、選管・警察は「公職選挙法に違反する」と候補者に「警告」をし続けています。しかし、そのままインターネット上で選挙活動を続けても「摘発」はされません。起訴された候補者は一人もいません。
 戸田ひさよしさんも、古賀しげるさんも、警察の「警告」を無視したのに何の「お咎め」もありませんでした。
 この不明朗な現状をどう考えたらいいのでしょうか。「公職選挙法に違反する」ならば、きちんと「摘発」すればいいのです。しかし、全く「摘発」はしないのです。私はこのような状況を「摘発するぞ詐欺」と呼びました。
 「摘発するぞ」と脅されて多くの候補者が「警告」に従いました。しかし、従わなくても何の問題も無かったのです。
 結局、選管・警察は自信が無いのです。面倒に関わりたくないのです。
 この十年は、「摘発するぞ詐欺」が横行した十年でした。
 候補者の皆さんは、選管・警察に騙されてきたのです。
 
 私の現状認識は次の通りです。
 「摘発するぞ詐欺」が横行する状態は不当である。この状態を解消する必要がある。
 そのためには、彼らが候補者を「摘発」し、起訴しなくてはならないように追い込む必要がある。裁判になれば、いやでも世論は喚起される。(私は、食管法を変えた川崎磯信氏の事例を思い浮かべています。川崎氏は、自分が「有罪」である証拠書類を揃えて、国を裁判に追い込んだのです。)
 
 このように考えていたので、戸田さんも〈起訴してもらいたい〉という意向をお持ちであることをうれしく思いました。
 
> 戸田のような豊富な実践例を持つ議員・候補者は、2度と再び現れるはずがあ
>りませんから、「今、起訴してもらって裁判に持ち込まなければ、2度と有利な
>実践例を持つ当事者による裁判は起こらない」のです。
>
> 「権力弾圧による公民権停止2年」がやっと開けてすぐの市議選で、今度は
>「HPの選挙活用が公選法違反に問われる日本初の当事者被告」の座を与えられ
>るなんて、今後「社会科の教科書」や「現代用語の基礎知識」、「判例集」に戸
>田の闘いが掲載されて後生に語り継がれるわけで、しがない一市議体験者として
>これほどの栄誉はありません。
>
> ……〔略〕……
>
> 「大阪府門真(かどま)市」の名前もまた、超有名になり後生まで語り継がれ
>るし、「その時歴史は動いた」にも取り上げられたりして観光名所になる可能性
>も大です。
> そうすると門真市のまち起こしに大きな貢献が出来るわけで、市議会議員とし
>て嬉しい限りです。
 
 戸田ひさよしさんこそインターネット上の選挙活動で被告になる栄誉が与えられるに相応しい方です。もっともインターネット選挙の実践を積み重ねてきたのが戸田さんだからです。
 「社会科の教科書」・「現代用語の基礎知識」・「判例集」に載るのが楽しみですね。
 以前、私は次のように書きました。
 
> 民主主義とは、突き詰めれば〈一人が一人を説得すること〉です。ある一人の
>人間が別の一人の人間の考えを変えようと働きかけることです。
> そのような働きかけによって、最初は少人数の者しか持っていなかった考えが
>広まって大きな力になる。そのようなダイナミックな過程が民主主義なのです。
> だから、ブログ・ホームページで次のような訴えをするのは、民主主義社会では
>必要不可欠のことです。
> 
> 「A候補に投票しよう。理由は……である。」
>
> しかし、総務省は、この必要不可欠な行為を禁止しようとしています。公職選挙
>法で禁止されていると言うのです。
> 彼らは正気なのでしょうか。
> それは、次のように言っているも同然なのです。
> 
> 「日本は民主主義国ではありません。言論の自由などありません。」
   http://shonowaki.com/2007/07/post_20.html

 日本の現状を知れば、世界が「インターネットを使わないで、日本ではどう選挙をするのだ?」と驚くでしょう。日本が民主主義国家ではないという印象を持つでしょう。
 自由報道協会や外国人記者クラブで会見をしましょう。
 戸田さんをきちんと書類送検してもらいましょう。裁判にしてもらいましょう。
 今回も、戸田さんは「HPの選挙活用バリバリ実施」しているのですから。
 そして、選管・警察・総務省・検察には自分達のしたことの責任を取ってもらいましょう。
 世界からの批判を受けてもらいましょう。
 
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                   諸野脇 正 (しょのわき ただし)
              【Web Site】  http://www.irev.org/
              【ブログ】   http://shonowaki.com/
              【ツイッター】 http://twitter.com/shonowaki

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2010年10月19日

「ハーバード白熱教室」批判 ――サンデル教授の「対話型講義」は授業としてダメ

 「ハーバード白熱教室」がブームである。NHKの番組はDVDとして発売され、サンデル教授の著書『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)はベストセラーになった。

   http://www.nhk.or.jp/harvard/

 しかし、サンデル教授の「白熱教室」は「白熱」していないし、「教室」でもない。サンデル教授の「対話型講義」は授業としてダメなのである。
 この趣旨をツイッターで詳しく述べた。
 

諸野脇 正 の Twitter

ハーバード白熱教室批判1 「ハーバード白熱教室」なるものが流行っているようである。しかし、「ハーバード白熱教室」は、「白熱」していないし「教室」でもない。授業としてダメなのである。以下、この趣旨を論ずる。

ハーバード白熱教室批判2 サンデル教授の本の著者紹介を見る。「講義の名手」とある。授業で「講義」などしてはいけない。「講義」をすること自体が授業がヘタである証拠である。

ハーバード白熱教室批判3 つまり、「講義の名手」とは「駄文の名手」のような表現なのである。サンデル教授は「駄文の名手」であるらしい。(苦笑)

ハーバード白熱教室批判4 「講義」とは「学説…を口頭で説明すること」(大辞林)である。なぜ、「口頭で説明」するのか。人の話を聞くのは楽なのである。だらけやすいのである。

ハーバード白熱教室批判5 だから、学生は、居眠り・私語・内職などをすることが可能である。サンデル教授の授業は千人が入る大講堂でおこなわれている。学生がだらけるのは簡単である。

ハーバード白熱教室批判6 居眠りなどのはっきりした「非行」がなくも、学生は楽なのである。人が話すのを聞くのは楽なのである。学生が緊張しているつもりでも、それは本人がそう思っているだけに過ぎないのである。

ハーバード白熱教室批判7 こう考えれば、分かり易い。サンデル教授と学生とどちらが緊張して頭を使っているか。それは、話をしているサンデル教授である。サンデル教授は頭を使い話をする内容を考えている。学生にはそのような必要はない。

ハーバード白熱教室批判8 これは当然の原理を述べただけである。ライブをするバンドと観衆ではどちらが緊張するか。劇をする俳優と観衆ではどちらが緊張するか。舞台の上で何かをする方が緊張するに決まっている。

ハーバード白熱教室批判9 つまり、「講義」では一番緊張するのはサンデル教授なのである。つまり、一番勉強になっているのはサンデル教授なのである。

ハーバード白熱教室批判10 これでは、サンデル教授によるサンデル教授のための授業である。授業をすればするほど、サンデル教授は勉強になる。新しい本が書けるかもしれない。

ハーバード白熱教室批判11 しかし、サンデル教授の授業は、学生にとっては勉強にはならない。サンデル教授が勉強になるほどは勉強にはならない。

ハーバード白熱教室批判12 学生がこの授業で本が書けるような内容を発見することはない。それは、人の話を聞くのは楽だからである。自分では自覚していなくてもだらけているからである。

ハーバード白熱教室批判13 この私の批判に対して次のような反論が考えられる。「サンデル教授の授業は対話型講義である」しかし、サンデル教授の授業は「沈黙型講義」と呼んだ方が実態に近い。

ハーバード白熱教室批判14 千人の中で発言している学生は数人である。つまり、ほとんどの学生は沈黙しているのである。だから、「沈黙型講義」である。(笑)

ハーバード白熱教室批判15 まず、千人もの学生に対して授業をするのが間違っている。ハーバード大学にはお金が無いのか。そんなはずはない。せめて、十分割して、百人の教室にするべきである。

ハーバード白熱教室批判16 千人もの学生をいっぺんに教えようとすれば、学生は沈黙していても済む。それでは、だらける学生が増える。

ハーバード白熱教室批判17 千人の教室という存在自体が過去の産物なのである。数百年前は役に立ったものである。なぜ、昔は役に立ったのか。それは印刷物が高価だったからである。

ハーバード白熱教室批判18 巨大教室が必要だったのは、印刷物が高価だったから。印刷物が高価だったので、教師が「学説を口頭で説明」し学生がノートに筆記する必要があった。それならば大人数を対象にした方が効率がよい。

ハーバード白熱教室批判19 「講義」は印刷物の代わりだった。つまり、学説を印刷物で伝えることが出来ないので口頭で伝えていたのである。しかし、印刷物は安くなった。学説を理解したければ、学生が自分で本を読めばいいのである。

ハーバード白熱教室批判20 つまり、「講義」自体が時代遅れなのである。数百年前に役に立った方法を繰り返しているだけなのである。ちなみに、ハーバード大学の歴史は三百年近くある。そのころには、「講義」は役に立っただろう。

ハーバード白熱教室批判21 先程、サンデル教授の授業を「沈黙型講義」と批判した。しかし、数人の学生が発言しているのは事実である。その数人の学生とサンデル教授は「対話」をしている。この事実をどう考えるか。

ハーバード白熱教室批判22 数人の学生は発言している。サンデル教授がそれに応えている。一見、対話のように見える。しかし、それはサンデル教授の学説を説明するための「ダシ」にされているに過ぎない。

ハーバード白熱教室批判23 学生の発言は「ダシ」にされている。結論は最初から決まっている。「功利主義」「自由至上主義」などの概念を理解することである。これが対話か。

ハーバード白熱教室批判24 サンデル教授は授業の最初に言う。「『正義』について考えていきたい」私が次のように言ったとする。「なぜ、政治哲学の授業で『正義』を考える必要があるのか。」サンデル教授はどうするか。

ハーバード白熱教室批判25 さらに、私が次のように言ったとする。「『正義』概念を持っていないために現実の政治に何か問題が起こっているのか。例えば、湾岸戦争はどうか。」これにサンデル教授が応えたすれば対話である。

ハーバード白熱教室批判26 しかし、実際には、学生の発言は、サンデル教授が自身の学説を説明するための「ダシ」に使われているに過ぎない。サンデル教授が教える内容は前もって決まっているのだ。

ハーバード白熱教室批判27 学生の発言によって、サンデル教授が教える概念を変えることはない。つまり、これは、対話ではなく「対話風講義」である。

ハーバード白熱教室批判28 だから、サンデル教授がおこなっているのはやはり「講義」に過ぎない。学生の発言を「ダシ」にして、自分の学説を教えているに過ぎない。

ハーバード白熱教室批判29 問題は沈黙してた九百数十人の頭の中である。授業で問題なのは学生の頭の中が変わったかどうか。話された言葉がいくら「白熱」していても意味はない。学生全員の頭の中が「白熱」していなければならない。

ハーバード白熱教室批判30 黙っていた九百数十人の頭の中はあまり「白熱」してはいないだろう。あまり勉強になってはいないだろう。サンデル教授や発言した学生と比べれば。人の話を聞くのはどうしても楽なのである。

ハーバード白熱教室批判31 だから、教師は全員に活動をさせるような工夫を考えるのである。確かに、サンデル教授も学生に賛否を挙手させていた。これはよい。しかし、どちらにも手を上げない学生がいた。これは問題である。

ハーバード白熱教室批判32 賛否の挙手しない学生は授業に参加していない。だらけている可能性が高い。サンデル教授はそれを見逃している。このような場合、どうすればいいのか。

ハーバード白熱教室批判33 次のように言えばいい。「賛成の者はノートにマル、反対の者はバツをつけなさい。必ずどちらかをつけなさい。」その後、挙手をさせればよい。これで全員の手が上がる。

ハーバード白熱教室批判34 もし、挙手しなかった者がいたら、その者を指名して理由を問えばよい。「追及」すればよい。こうすれば全員が必ず授業に参加するようになる。自分の意見を持たざるを得なくなる。

ハーバード白熱教室批判35 サンデル教授は問題を出して、その答えを発表させる。その答も全員ノートに書かせるべきである。そうすれば、全員が考えざるを得なくなる。だらけていることが困難になる。

ハーバード白熱教室批判36 そして、教師は学生のノートを見て回る。(そのためには千人教室は大き過ぎる。コンサートじゃないんだから。苦笑)サンデル教授はどうして、ステージから降りて学生の様子を確かめないのか。

ハーバード白熱教室批判37 サンデル教授は、なぜ、挙手した学生を指名するのか。挙手していない学生こそ指名するべきである。つまり、考えがはっきりしていない学生こそ指名して指導するべきである。

ハーバード白熱教室批判38 挙手した学生を指名するのは、優等生だけで授業を進めていくことである。挙手できない学生は発表できない状態のまま放置される。これは「公平」か。(苦笑)

ハーバード白熱教室批判39 千人の学生全員の頭の中を進歩させる必要がある。そのためには、千人全員を授業に参加させなくてはならない。千人全員を緊張させ、考えさせなくてはいけない。これは大変なことである。

ハーバード白熱教室批判40 しかし、サンデル教授はそのための工夫をしていない。千人の学生全員を授業に参加させる工夫をしていない。挙手して発言できる数人の優等生だけで授業を進めてしまっている。

ハーバード白熱教室批判41 サンデル教授は本を出している。それならば、学生に授業の前にその本を自分で読ませればよい。そして、サンデル教授の論に対する批判を書かせて提出させればよい。千人全員に提出させればよい。

ハーバード白熱教室批判42 批判を発想するためには、学生は真剣にサンデル教授の本を読まざるを得なくなる。そして、サンデル教授は授業でその批判に応える。この形ならば、千人の学生全員に思考させることが可能である。

ハーバード白熱教室批判43 「講義」と「授業」とは違う。「講義」は「口頭で学説を説明すること」である。「授業」は「全員の頭を進歩させること」である。この意味で、サンデル教授の行為は「授業」ではない。「講義」に過ぎない。

ハーバード白熱教室批判44 サンデル教授は恐ろしく授業がヘタなのである。自分でそのヘタさを自覚すべきである。既に論じたように、学生全員を思考させる発想がない。一人ひとりを伸ばそうとしていない。学生をマスとして扱っている。

ハーバード白熱教室批判45 念のため書く。ほとんどの日本の大学教師よりサンデル教授の方がよい「講義」をしている。しかし、所詮「講義」である。既に述べたように「講義」は歴史的使命を終えている。「講義」はするべきではない。

 サンデル教授は「講義」ではなく、「授業」をするべきだった。「口頭で学説を説明する」のではなく、「全員の頭を進歩させる」べきだった。千人全員の頭を進歩させるべきだった。
 大学で「講義」をするべきではない。既に、この趣旨は宇佐美寛氏が詳しく述べていた。『大学の授業』・『大学授業入門』・『大学授業の病理』などの著書で詳しく述べていた。
 
   http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%89F%8D%B2%94%FC%8A%B0%81@%91%E5%8Aw
 
 宇佐美寛氏の本を一冊でも読んでいたら、サンデル教授は「講義」などできなかったはずである。たぶん、サンデル教授は日本語は読めないだろう。
 しかし、アメリカでもさまざまな教育研究がおこなわれている。例えば、デューイはアメリカ人だ。(注)
 サンデル教授は教育研究の業績に学んでいない。教育研究の業績と「対話」していない。
 サンデル教授が「対話」していない。
 これは悲しい矛盾である。
 
                    諸野脇@ネット哲学者
 
 
(注)

 デューイが「講義」を批判した文章は発見できなかった。しかし、「なすことによる学び」(Learing by doing)を主張するデューイは、原理的には「講義」を批判するはずである。「講義」を聞くことは「doing」ではないからである。

2010年10月18日

にわやま由紀議員は桐生市議会を引き続き「こらしめて」やりなさい(笑)

 にわやま由紀議員から質問をいただいた。
 
   ● 【哲学者ブログ相談室】にわやま由紀議員のご相談にどう答えたらいいでしょうか ――情報公開を拒む議会をどうするか

 答えは次の通りである。 

 にわやま由紀議員は桐生市議会を引き続き「こらしめて」やりなさい。(←水戸黄門風に読んで欲しい。偉そうで恥ずかしいが。笑)
 
 桐生市議会は「情報隠蔽」をしたいのである。それならば、どんどん「情報公開」をしてやればよい。それが彼らにとって一番痛いはずである。
 桐生市議会がにわやま由紀議員に「嫌がらせ」をしてくるのは、痛いところを突かれているからである。
 詳しくは以下の「連続ツイート」ご覧いただきたい。
 
【ツイッターから】http://twitter.com/shonowaki

 にわやま由紀議員、登場! これまでの経緯を説明する。

 にわやま由紀議員は桐生市議会の「腐敗」を明るみに出した。そして、議会から「問責決議」をいただいた。http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=542857&log=20100923「腐敗」を指摘した議員に嫌がらせをする。不正な議会の特徴。

 にやわま由紀議員作「桐生市議会のブラックジョーク的政務調査費の使い方一覧表」http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=542857&log=20100917やはり、心を打つのは佐藤光好議員の「アンプ」。(苦笑)「アンプ」で何を調査するのか。

 にわやま由紀議員は、男性市議が「二次会で卑わいなダンスを踊った」と議会で発言。http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=542857&log=20100918 河原井始議員が「二次会で卑猥なダンス」踊ったと主張した。

 「政務調査費不正流用」疑惑と「セクハラ」疑惑である。議会はどうしたか。ケーブルテレビに放送しないよう申し入れた。(苦笑)http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=542857&log=20100921 結局、その回の議会中継は中止になった。

 疑惑があれば、それを解明するのが筋である。「アンプ」を買った佐藤光好議員の言い分を聞き、「卑わいなダンス」を踊ったとされる河原井始議員の言い分を聞くのである。疑惑の解明が必要である。そして、疑惑が事実ならば、両議員に「問責決議」「懲罰」を下す必要がある。それが真っ当な議会である。

 しかし、桐生市議会は真っ当ではないので、疑惑を解明しようとはしない。逆に、告発したにわやま由紀議員に「問責決議」「懲罰」を下した。滅茶苦茶である。(実は、このような真っ当でない議会の方が多いのである。苦笑)

 桐生市議会は真っ当ではないので、ケーブルテレビの議会中継まで止めてしまう。「情報隠蔽」をしてしまう。もし、にわやま議員の主張が間違いならば、にわやま議員が恥をかくのだ。堂々と放送させればいい。議会の行動は異常である。市民は次のように思うだろう。「よほど、やましいことがあるんだな」

 これが桐生市議会の現実である。にわやま由紀議員はその議会の一員である。(お疲れさまです。苦笑) それで、次の質問になった訳である。

 【再ヒ】 ブログ更新! 「【哲学者ブログ相談室】にわやま由紀議員のご相談にどう答えたらいいでしょうか ――情報公開を拒む議会をどうするか」 http://shonowaki.com/2010/10/post_104.html

 大変ですね。桐生市議会はケーブルテレビの議会中継を中止させました。にわやま由紀議員の発言が広まらないようにです。これはあまりに突出しています。突出したところを叩くのが原則です。「不正を隠蔽するためにテレビ放送を中止させた桐生市議会」と批判が出来ます。

 実は、桐生市議会がケーブルテレビの議会中継を中止させたことはチャンスなのです。ピンチは裏を返せばチャンスです。例えば、戸田ひさよし議員は、門真市議会に議場内へのカバン持ち込を禁止されました。これはあまりに突出していたためマスコミの注目の的になりました。

 カバン持ち込み禁止」と同様に「議会中継中止」も突出しています。突出してバカバカしいです。桐生市議会の「情報隠蔽体質」を端的に表す素晴らしい行為です。そこまで突出してバカバカしいと、マスコミも注目します。桐生市民も議会の異常さに気がつき易いはずです。

 ピンチこそチャンス。相手がやりすぎたところ、突出したところを叩くのです。ですから、にわやま由紀議員はチャンスだらけとも言えます。(苦笑) 続きはまた。



 「ピンチこそチャンス」である。「議会中継中止」は端的に桐生市議会の「情報隠蔽体質」を表している。この事実をどんどん広めてあげよう。マスコミにも広めてあげよう。
 「政務調査費不正流用」の問題も同じである。佐藤光好議員は「アンプ」をどんな調査に使ったのか。不思議である。この事実もどんどん広めてあげよう。
 「セクハラ」の問題も同じである。どんどん広めてあげよう。また、「セクハラ」は労働環境の問題でもある。そちらから攻める手もある。
 次の事実を確認いただきたい。
 
   ● ブログの活用で阿久根市議会の「お掃除」が進む
   
 「政務調査費で温泉バスツアーに行った築地新公女議員」は落選したのである。やはり、有権者は見ているのである。
 事実をどんどん有権者に伝えよう。
 それが桐生市議会を「こらしめ」ることになる。

                    諸野脇@ネット哲学者

2010年10月02日

【哲学者ブログ相談室】にわやま由紀議員のご相談にどう答えたらいいでしょうか ――情報公開を拒む議会をどうするか

 にわやま由紀議員のブログを見て吹き出す。吹き出してはいけない。いや、たぶん吹き出していい。「議員ブログ相談室:おしえて!諸野脇先生!」って。(笑)


■2010/10/01 (金) 議員ブログ相談室:おしえて!諸野脇先生!

諸野脇先生は、『〈情報公開〉こそ「変革」の中心』・・・と書いていらしゃいますが、本当にその通りと思います。ただ、「職員が仕事をしたく無い(忙しいらしい)」という理由と「情報公開されると都合が悪い」ということから情報公開さえ拒んたり(きちんと条例で拒めるようになっています)、自分たちに都合の悪い情報は議長権限で公開しない(例えば、庭山の資料請求だけ1年以上保留したり、「議会だより」に庭山の発言部分だけのせないとか、庭山が議員の実態を明言したためにケーブルテレビ放映を中止する)など、こういう自治体、議会はどうしたらいいのでしょうか?

おしえて、諸野脇先生。
   http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=542857&log=201010


 確かに、そう書いた。次の文章である。
 
   ● 議会の〈情報公開〉こそ「変革」の中心 
 
 そういう議会は「どうしたらいいの」か。
 うーん。困った。私は哲学者だから、実務にはうといのである。
 そうだ。こうすればいいのだ。


■2010/10/02 (土) 哲学者ブログ相談室:おしえて!みなさん!

にわやま由紀議員から質問を受けました。

   http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=542857&log=20101001

情報公開を目指すと、それを妨害する議会があります。このような議会はどうしたらいいでしょうか?

おしえて、みなさん!

 
 多くの議会で、改革派議員が同様の「被害」にあっている。議会が情報公開に応じない。情報公開をしたために、「嫌がらせ」を受ける。
 にわやま由紀議員の相談は重要である。
 ぜひ、ご回答をお願いしたい。(注)
 
                    諸野脇@ネット哲学者

 
(注)

 ツイッターでも回答を募集してる。
 
   ● shonowakiのツイッター
  
 こちらもご注目いただきたい。
 

2010年09月30日

議会で多数派による「独裁」がおこなわれていることこそ問題である

 山田勝議員は次のように言う。 

 現在の阿久根市議会に「話し合いなど存在しない」議員の話し合いや休憩をする議員控室に集まる事は殆どない。委員会や本会議開催中も多数派は議長室、広い控え室は市長の改革を支持する4人議員だけ。

 現在での議会の重要なことは議長室で多数派で協議し決定して本会議でいきなり提案して決定している。
   http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=525778&log=20100608

 
 多数派は「重要なこと」を「本会議でいきなり提案して決定して」しまうのである。
 議会は、多数派が自分達が決めたいことを決める場になっている。議論もせずに決める場になっている。
 つまり、議会は、多数派による「独裁」の場なのだ。まず、議会側が「独裁」体質を持っているのだ。多数派議員は、話し合いによって考えを変えない。初めから決めている結論を議決によって少数派に押しつけるだけである。
 
 これに対して、竹原信一市長は議会を召集しなかった。召集すれば、多数派による「独裁」を許すことになる。そして、竹原信一市長は専決処分で次々と自分の公約を実現していった。もちろん、これも「独裁」である。 
 1 議会は多数派による「独裁」の場になっている。
 2 だから、竹原信一市長は議会を召集しなかった。
 3 そして、竹原信一市長は専決処分による「独裁」をおこなった。
   
 つまり、これは「独裁」対「独裁」の闘いなのである。
 一般に、竹原信一市長の「独裁」だけが問題にされている。しかし、その前に、議会の「独裁」がある。
 そして、議会の「独裁」を市長側から解決する手段が無いのだ。既に、述べた通りである。
 
   ● なぜ、竹原信一市長は「独裁者」になるのか 
 
 これは多くの「改革派」首長が直面している問題である。自分の公約を実現しようとしても、議会で多数を取れなくては実現できない。しかし、首長には議会の解散権が無い。(注1)
 これは、言わば〈ねじれ市政〉である。首長と議会が完全に対立していても、首長の側からはその状態を解決する方法が無い。

 実は、議会による「独裁」の方が大きな問題なのである。竹原信一市長は一人しかいない。しかし、議会は日本中に無数にある。そのほとんどで多数派による「独裁」で物事が決まっていることが想定される。
 何しろ、議会は議論をする場ではない。(苦笑)
 
   ● 議会は議論をする場所ではないらしい(苦笑)  ―― 奇妙な規則「質問は三回まで」

 「奇妙な規則」によって、議会は議論をする場ではなくなっている。このような議論を実質的に禁止する規則がほとんどの議会にある。「質問は三回まで」・「申込みしておかないと討論できない」などなど。(注2)
 つまり、ほとんどの議会で「独裁」がおこなわれていることが想定できる。
 これは重大な問題である。
 
                     諸野脇@ネット哲学者

 
(注1)

 これは、〈首長の公約が必ず全て実現されるべきである〉と主張している訳ではない。〈首長の側に民意を問う手段が無い〉と指摘しただけである。民意を問うた結果、議会で多数を取れず、首長の公約が実現できないことはあり得る。
 
 
(注2)

 次の本に「奇妙な規則」の実例が紹介されている。
 
   戸田ひさよし 『チホー議会の闇の奥』 青林工藝舎
   
 特に「『言論の府』を自ら否定している議会の実態」(37ページ)をお読みいただきたい。

2010年09月29日

「竹原信一市長と議会がよく話し合うべき」という一般論を批判する

 〈竹原信一市長と阿久根市議会とがよく話し合うべきだった〉という趣旨の意見をもらった。この意見はもっともに思える。しかし、この意見は現実離れした一般論に過ぎない。 

 事実をよく見よ。
 
 これは一般論に対する厳しい批判である。一般論が通用するように思うのは、事実をよく見ていないからである。事実をよく見れば、問題がそう簡単でないことが分かる。
 それでは事実を見ていこう。


【ツイッターから】http://twitter.com/shonowaki

 〈竹原信一市長と阿久根市議会とがよく話し合うべきだった〉という趣旨の意見をもらった。しかし、事実をよく見るべきである。既に説明したように、阿久根市議会は議論する場ではない。ゆえに、話し合いも成立しない。残念ながら。

  さらに、具体的な事実を見よう。山田勝議員の証言である。

 (山田勝議員の証言1) 現在の阿久根市議会に「話し合いなど存在しない」議員の話し合いや休憩をする議員控室に集まる事は殆どない。委員会や本会議開催中も多数派は議長室、広い控え室は市長の改革を支持する4人議員だけ。

 (山田勝議員の証言2) 現在での議会の重要なことは議長室で多数派で協議し決定して本会議でいきなり提案して決定している。http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=525778&log=20100608

 「議会の重要なこと」は多数派が「本会議でいきなり提案して決定して」しまうのである。山田勝議員自身も言う。「話し合いなど存在しない」 話し合い論者は、この事実をよく見るべきである。

 つまり、これは「独裁」と「独裁」との戦いである。議会の多数派と市長との戦いである。議会の多数派は話し合い無しで議決をする。竹原信一市長も話し合い無しで専決処分をする。

 もちろん、〈話し合うべき〉という一般論は正しい。しかし、このような阿久根市の具体的な事実を踏まえない一般論は虚しい。役に立たない。問題は、この状態で次の一手をどう打つかなのだ。

 議会は議論をする場ではない。http://shonowaki.com/2009/05/post_69.htmlそう論じたところ、多くの人が驚いた。「えっ?議会って酷すぎ」しかし驚かない人がいた。議員達である。「うちの議会もそうだよ」結論。あなたの議会もたぶん無事ではない。(苦笑

 議員にとっては、議会で議論がおこなわれないのは常識らしい。http://shonowaki.com/2009/05/post_73.html確かに、この「はぐらかし」を見ると、議論を期待するのが虚しくなる。

 〈議会の可視化〉が必要である。議会のインターネット中継が必要である。http://shonowaki.com/2009/04/post_71.html我々は、我々の議会の異常な状態を知る必要がある。状態を知れば、変えたくなる。〈情報公開〉こそ「変革」の中心なのである。


 議会は、誠にひどい状態なのである。この事実を確認しよう。
 多数派の議員は「議員控室」にいない。「議長室」にこもっているのである。そこで、密室の密談をしている。(苦笑)
 そして、多数派は「重要なこと」を「本会議でいきなり提案して決定して」しまうのである。
 このような状態では「話し合い」は成立しない。「議論」は成立しない。
 さらに具体的に事実を見よう。
 今日、次のような事態が起こった。
 
   ● 阿久根議会、副市長選任取り消し可決 市長派が議場封鎖
 
 多数派は、もともと「話し合い」をする気はない。「話し合い」なしで、最初から決めていた結論を多数決で押しつけようとする。それに対抗して、少数派は「議場封鎖」をする。
 「話し合い」論者は、阿久根市に行って両者を説得してみるといい。「話し合い」をするように説得してみるといい。
 問題がもっと複雑であることを実感するであろう。
 
                     諸野脇@ネット哲学者

2010年09月28日

なぜ、竹原信一市長は「独裁者」になるのか

 阿久根市では、竹原信一市長と議会の対立が続いている。
 私は、こうなることを既に予測していた。
 
   ● 祝・竹原信一氏再選! ―― さあ、心ゆくまで「対立」しよう
 
 阿久根市議会は議会のていをなしてない。議員を全員入れ替えなくてはいけない。竹原信一市長はそのように考えていた。
 対立が続くに決まっている。
 
 現在、阿久根市は興味深い状態にある。
 阿久根市議会は、竹原信一市長が提出する重要議案をほとんど全て否決してきた。議会と市長は完全な対立状態にある。
 それならば、阿久根市議会は竹原信一市長への不信任案を決議するのが筋である。
 しかし、阿久根市議会はそれをしない。
 なぜか。 

 不信任案を決議すると、議会を解散されるからである。
 
 これでは、議員全員の入れ替えを狙う竹原信一市長の思う壺である。
 しかし、自分たちに自信があれば、議会の解散は恐くないはずである。民意が自分たちの側にあるならば、再選挙で竹原信一市長を支持する議員が減るはずである。そして、最終的には、竹原信一市長を失職に追い込めるはずである。
 しかし、阿久根市議会には、自分達の側に民意があるという自信がない。
 だから、不信任案を決議できない。 
 阿久根市議会が竹原信一市長の不信任案を決議しないのが事態が変わらない原因である。
 
 全ての重要議案に反対ならば、不信任案を決議するべきである。市長と議会が完全に対立しているならば、不信任案を決議するべきである。
 当たり前の原理である。
 
 さらに興味深い事態がある。
 この事態を竹原信一市長から打開する方法がないのである。
 竹原信一氏は言う。 
 ……〔略〕……自治体の首長が提出した条例案や予算案が議会に反対されたとき、首長の側には実質的な対抗手段がないのが現実です。
 議院内閣制を取る国政の場なら、反対する議会に対して内閣総理大臣は衆議院の解散権を行使して対抗することができますが、地方政治においては、首長に「一応」の解散権は認められているものの、順序として、議会が首長の不信任案を可決しなければ、首長は議会を解散できない決まりとなっています。〔竹原信一『独裁者 “ブログ市長”の革命』扶桑社、23ページ〕(注1)
 
 市長の側から議会を解散する権限がないのである。
 つまり、議会に「不信任案を可決」させるしか議会を解散する方法がないのである。
 もうお分かりであろう。
 なぜ、竹原信一市長は「独裁者」になるのか。 
 市長が議会を解散する方法がないからである。
 
 市長と議会とが完全に対立した状態では、市政が麻痺してしまう。そして、議会が「不信任案を可決」しなければ、この状態は変わらない。(注2)
 だから、竹原信一市長の行動を次のように解釈することも出来る。竹原信一市長は、「独裁者」になることで、「不信任案を可決」させようとしているのである。議会の皆さんに特別な形で「お願い」しているのである。
 このような特別な形の「お願い」をしなくてはならないのは、阿久根市議会が筋を通していないからである。阿久根市議会が、堂々と「不信任案を可決」すれば事態は変わる。
 
                     諸野脇@ネット哲学者
                     

(注1)

 次の本である。
 
   竹原信一 『独裁者 “ブログ市長”の革命』 扶桑社
  
 反市長派の人は、ぜひ、読むべきである。(笑)
 竹原信一市長の考えを知ることで、市長の行動が予測できるからである。
 ちなみに、この本には、私の「インターネット選挙」関係の文章が引用されている。
 
 
(注2)

 最近、竹原信一市長に対するリコール運動がおこなわれている。実は、この文章を書いたのはリコール運動が始まる前なので、その事実は考慮されていない。
 確かに、住民によるリコールでも「状態は変わ」る。しかし、非常に手間のかかる方法である。例外的な方法である。
 大きな疑問がある。
 リコールを始めた市民は、反市長派議員に「不信任案を可決」するように要求したのか。要求はしなかったのであろう。なぜ、当たり前の要求をしないのか。
 「不信任案を可決」すれば簡単に民意が問えるのである。民意を問わない(問えない)反市長派の議員の問題を不問にしたリコール運動は不自然である。

2010年09月16日

竹原信一市長、専決処分「乱発」問題を考えるための論理

 竹原信一市長が、議会を開かず重要な事柄を独断で決めている。市職員のボーナスを半減したり、議員報酬を日当制にしたりしてる。
 なぜ、竹原信一市長はこのような専決処分を「乱発」しているのか。 

 市長に解散権が無いからである。
 制度上の問題があるからである。
 
 ツイッターで詳しく論じた。(http://twitter.com/shonowaki
【ツイッターから】

 竹原信一市長は、なぜ「独裁者」になったのか。なぜ、議会に諮らずに、独断で物事を決めたのか。それは、市長に議会を解散する権限が無いからである。

 竹原信一市長が提案した重要法案の全てを阿久根市議会は否決した。これは、実質的に阿久根市議会は竹原信一市長に対して不信任なのである。

 竹原信一市長と阿久根市議会は全く主張が対立しているのである。それならば、阿久根市議会は竹原信一市長に対して不信任決議をするべきなのである。しかし、阿久根市議会は不信任決議をしなかった。なぜ、不信任決議をしなかったのか。不信任決議を可決すると、竹原市長が議会を解散するからである。

 阿久根市議会が竹原信一市長に対して不信任決議を可決すれば、竹原信一市長は議会を解散できる。もちろん、その解散選挙で反竹原派が勝てば、竹原信一市長を失職に追い込むことが出来る。しかし、反竹原派にはその自信がない。だから、不信任決議をしないのである。

 これで全てのピースがはまった。 1市長と議会が完全に対立している。 2それにも関わらず、議会が不信任決議をしない。 3不信任決議が可決されない限り、市長の側からは議会を解散する方法がない。 この状態では何も決めることが出来ない。これが竹原信一市長が専決処分をおこなった構造である。

 市長には議会を解散する権限がない。だから、自分の提案に全て反対する市議会が存在した場合、何も決められなくなる。(専決処分を除く。)しかし、それは筋が通らない。全てに反対ならば、不信任決議を可決するのが筋である。阿久根市議会も竹原信一市長に対して不信任決議を可決するべきなのである。

 【まとめ1】竹原信一市長が専決処分を「乱発」したのは、市長に議会の解散権が無いからである。阿久根市議会は、市長と議会との対立で何も決まらない状態だった。しかし、竹原信一市長の側からそれを打開する手段がなかった。つまり、議会を解散して民意を問う手段が無かった。

 【まとめ2】打開する手段があったのは、阿久根市議会の側だった。市議会が、竹原信一市長に対して不信任決議をすればよかったのだ。そうすれば、竹原信一市長は議会を解散できた。民意を問うことが出来た。しかし、議会側は何もしなかった。

 【まとめ3】市長と議会とが完全に対立した状態であるにも関わらず、議会側が何もしなければ、市政は痲痺してしまう。何も決まらなくなってしまう。これは制度上の問題である。

 【まとめ4】その制度上の問題を無理やり解決しようとする試みが専決処分の「乱発」である。


 竹原信一市長は、議会に諮らずに重要な事柄を次々と決めた。市職員のボーナスを半減し、議員報酬を日当制にした。まさに「独裁者」である。しかし、その行為には理由があった。制度上の問題があるのである。市長の側から議会を解散する権限が無いのである。この状態を打開する手段を持っていたのは、市議会側だったのである。
 この構造を理解することが重要である。

                    諸野脇@ネット哲学者


2010年09月01日

ネット哲学者、ツイッターを始める

 ツイッターを始めた。

   ● shonowakiのツイッター
 
 原口一博総務大臣に「嫌がらせ」をするために。
 いや、重要な事実をお知らせするためである。(笑)
 次のようにである。
 

【ツイッターから】

@kharaguchi 「ネット選挙」についての規定は現行法にはありません。総務省が禁止されていると解釈しているだけです。だから、原口一博総務大臣が「規定が無いのだから、自由である」と解釈を変えればいいだけです。詳しくは次の文章を。http://shonowaki.com/cat3/
 

@kharaguchi 総務省は公職選挙法の解釈を大きく変えています。以前はホームページを閉鎖させていたのです。現在は公開可能です。総務省は、恣意的に解釈を変えてきたのです。詳しくは次の文章を。http://shonowaki.com/2010/04/post_94.html
 
ホームページ・ブログを更新して、摘発され裁判になった人は一人もいない。刑事さんが「公職選挙法違反だ」と電話をくださったりするが。(笑)

だから、「お電話」さえ気にしなければ、ネット選挙は既に「解禁」されている。それが「ネット選挙解禁法案」で規制されてしまうのだ。

ちなみに、私のブログの政府関係のアクセストップは総務省! 読んでるじゃないか。(苦笑)

議員の皆さんも、私のネット選挙関係の文章を読んでいる。政府関係アクセスの第三位は衆議院。

アクセス第一位は総務省。第三位は衆議院。それでは第二位は?なんと財務省!なぜ財務省が私のブログを?研究?気晴し?総務省を叩くネタ探し?(笑)

それで、私のネット選挙関係の文章を読んだ総務省の皆さん。どうでした?

総務省の皆さん。どうでした?

ネット選挙は既に自由。法的にも、事実としても。ネット選挙で摘発された事実は一件もない。

ホームページを選挙に活用した前門真市議・戸田ひさよし氏は摘発されていない。 ブログを更新した阿久根市長・竹原信一氏も摘発されていない。

既に自由なネット選挙を「解禁」するとはどういう行為なのか?

「ネット選挙解禁」とは、実は「ネット選挙規制」なのである。

「ネット選挙解禁」によってホームページとブログだけが「解禁」されたら、ツイッターなどの他の方法が使えなくなる。

「ネット選挙解禁」という発想自体が間違っているのだ。「解禁」とは「原則全部がおこなってはいけない行為で、おこなっていい行為だけを決める」という発想である。これは論理が逆さまである。原則自由で、おこなっはいけない行為だけを決めればいいのだ。

これは「規制緩和」に似ている。本来「規制緩和」ではなく、「規制撤廃」なのだ。「緩和」ならば、「規制」があることが前提になってしまう。「ネット選挙解禁」も同様である。それでは、禁止されていることが前提になってしまうのである。原則禁止になってしまうのである。

ネット選挙において、「おこなっていいことを一つひとつ決めていく」という発想自体がものすごくイカれている。(苦笑) もし、アメリカが日本のような国だったら、オバマ氏は大統領になれなかっただろう。オバマ氏はネットをフルに活用して、選挙戦に勝ったのである。

世界中の「先進国」がネットをフルに使って政治的な意思決定をおこなっている。その中で、日本の議員は何を「解禁」するかを議論している。ものすごいイカれようである。(苦笑)

「ネット選挙解禁」という発想自体がイカれているという話をした。

「ネット選挙解禁法案」を審議している議員はイカれている。また、それを批判もせずに報道するマスコミもイカれている。

イカれた皆さん、オハヨウ。

今日も、イカれたことを考えているんでしょうね。

「ツィッターはなりすましが防止できない」とか。「誹謗中傷が防げない」とか。(笑)

でも、現実の選挙では、怪文章が飛びまくってますから。「なりすまし」・「誹謗中傷」が普通におこなわれてますから。

イカれた皆さん。まず、ビラを禁止した方がいいのではないですか。(苦笑)

悪い影響があることは、その行為を禁止する理由にはならない。例えば、包丁の利用である。毎年、多くの人が包丁で殺されている。しかし、包丁の利用は禁止されない。


 この文章を読みかえして、興味深い事実に気がついた。
 複雑な内容なのに、分かり易いのである。
 ツイッターの形式で書くことで、却って分かり易くなっている。
 短い文章を積み重ねる形式に分かり易くする効果があるのだろう。
 
 これは、複雑な内容を分かり易く伝える実験である。
 また、インターネットで原口一博総務大臣を追いつめることが出来るかの実験である。(笑)
 
   ● shonowakiのツイッター   
   
 ご注目いただきたい。
 
                     諸野脇@ネット哲学者


2010年05月06日

「ゾンビ集団」の一部(主権回復会)が人間化を宣言する ――在特会も人間化せよ

 戸田ひさよし氏を襲った「ゾンビ集団」について、私は次のように書いた。 

  「ゾンビ集団」は人間になるべきである。
 ビッグ・ニュースが入ってきた。(注1)
 さっそく「ゾンビ集団」の一部が人間化を宣言したのである。
 「ゾンビ集団」は、戸田ひさよし氏だけでなく徳島日教組も襲撃していた。この襲撃について、主権回復会の西村修平代表は言う。 
 ……〔略〕……徳島日教組糾弾に関わった西村 斉、荒巻靖彦、永山 嵩の各氏、会の承諾を得ないで記者会見に出席した山道哲也氏を除名とします。
 http://www.shukenkaifuku.com/info/main.cgi?mode=thr&no=15

 つまり、「ゾンビ集団」化して違法行為をおこなった者を「除名」したのである。
 これは当然の判断である。ゾンビを除外することによって、主権回復会は人間集団になろうとしているのである。
 さらに、西村修平代表は次のような分析をしている。
 3・28カウンターデモと徳島日教組糾弾は警察がまともであれば逮捕者が出た行動であった。

 前者に関して言えば、デモ隊の行進ルートに躍り出て妨害を加える、機動隊の盾をつかんで揺さぶる、体当たりをを加えるなどなど、本来なら全てが威力業務妨害若しくは公務執行妨害に該当する現行犯で逮捕されていた。

 後者は私的施設に押し入り、制止を無視してトラメガで咆吼する、受話器を取り上げ通話を妨害する、書類などをまき散らすなどなど、全て現行犯で逮捕されていたはずである。

 よくぞ逮捕されなかったが何故か。警察の能力が想像を絶するほど低下しているだけの話である。

 これらの映像は無編集でネット上にYouTube等で紹介されているが、刑事事件の取り調べではまたとない証拠資料として採用され、妨害事実を証明することになる。自らの映像で自らが起訴される格好の証拠を自慢げにネットに挙げたままにしているのは笑止の沙汰でしかない。愚かの限りである。

 以上は、もし逮捕者が出た場合、不当逮捕にはあたらない。れっきとした現行犯逮捕である。この点を深刻に考えなければならない。
 〔同上

 
 全く正しい分析である。(苦笑)
 もう一度、確認してみよう。 
 ……〔略〕……自らの映像で自らが起訴される格好の証拠を自慢げにネットに挙げたままにしているのは笑止の沙汰でしかない。愚かの限りである。

 代表自ら、よくぞ言った。(注2)
 私も、そう思っていた。
 これがその「映像」である。
 
   ● 4 月14日②募金詐欺組織のネコババ日教組を許さない!
   
 「ゾンビ集団」が成果だと思って公開している動画が、犯罪の証拠になってしまっている。「愚かの限り」である。
 この文章を読む限り、主権回復会には「ゾンビ集団」ではなくなる意志があるようである。人間化しようという意志があるようである。
 
 問題は在特会である。在特会は非を認めていないのである。
 在特会の桜井誠会長は上の襲撃について次のように述べている。
 この告訴については今後徳島県警の判断が下されると思いますが、そもそも抗議されるべき問題を起こしたのは誰なのかという点について考えれば、全国規模の募金詐欺という前代未聞の組織的犯罪行為を行った者こそが糾弾されるべきものであると思います。
 ● 日教組という闇
   
 日教組が「募金詐欺」をしていたかどうかなどどうでもいい。
 桜井誠会長が〈悪い奴だから襲撃しても当然〉という原理を主張している方が大きな問題なのである。 
 〈悪い奴だから襲撃しても当然〉はテロリストの原理である。
 
 桜井誠会長は『週刊金曜日』誌上で「小沢一郎暗殺計画」を公言している。(注3)
 だから、テロリストの原理を主張するのは当然である。
 
   ● 在特会「桜井誠」が小沢一郎暗殺計画を認める
  
 しかし、テロリストやゾンビは日本社会では認められていない。桜井誠会長は、このことを理解するべきである。
 さらに、在特会の立場は、「友好団体」である主権回復会からも支持されていない。主権回復会は、既に人間になろうとしているのである。
 在特会も早く人間になるべきである。
 もし、人間にならなければ、その行動に応じた罰を受けることになるであろう。
 
                     諸野脇@ネット哲学者
 
 
(注1)

 この事実は次の文章で知った。
 
   ● 矢野・朝木両「市議」がいつまでも「襲撃する運動」と公式に絶縁しない中、主権回復を目指す会が「チーム関西」を完全に切り捨て
 
 three_sparrows 氏にお礼申し上げる。
 
 
(注2)

 西村修平代表は会員の違法行為に対して「除名」という毅然とした対応を取った。この対応を率直に評価する。
 しかし、次の二つの疑問がある。
 
 1 なぜ、西村修平代表は謝罪しないのか。代表には、会員の管理責任があるのである。
 2 西村修平代表じしんが違法行為をおこなったという報告がある。なぜ、西村修平代表は、自分を「除名」処分にしないのか。
 
 1は当たり前である。
 だから、2を詳しく説明する。
 次のような事実が報告されている。 

 ところが、終盤になって宝塚方面から来た「在特会」関係者約30名が、警察の制止を振り切り、集会中のロータリーになだれ込んだ。彼らは「朝鮮人帰れ」「慰安婦は売春婦だ」「外国人参政権反対」「売国奴・小沢一郎」などとわめきながら、女性に体当たりし、展示パネルを剥ぎ取り、足で踏みにじった。

その際彼らは、写真を撮っていた人らを羽交い絞めにし、フィルムを出せと脅したという。なお、慰安所の地図と、妊娠した被害者のセットのパネルを剥ぎ取って持ち帰ったのは、「主権回復を目指す会」代表・西村修平であることがわかっている。
 ● 暴力化する民族排外主義

  
 西村修平代表は「慰安所の地図と、妊娠した被害者のセットのパネルを剥ぎ取って持ち帰った」のである。
 これは窃盗である。(また、暴行・器物破損をおこなっている可能性もある。)
 自ら違法行為をおこなったのだから、自分を「除名」処分にするべきである。
  
  
(注3)

 なぜ、これで桜井誠会長が逮捕されないのか不思議である。
 『週刊金曜日』という著名な雑誌で、堂々と「小沢一郎の首を取る」・「ある程度のプランは立ててますけど」と述べているのである。
 2ちゃんねるに「国会に突入して、小沢一郎を殺す」と落書きしただけで、逮捕されるのである。2ちゃんねるの落書きより、雑誌誌上で「プランは立ててます」と言う方が危険性が高い。
 桜井誠会長は逮捕されて当然なのである。
 

2010年05月01日

「ゾンビ集団」(在特会)が戸田ひさよし前門真市議を襲って大ピンチ

 戸田ひさよし前門真市議が「ゾンビ集団」(在特会)に襲われた。
 襲撃の様子を戸田ひさよし氏は次のように語る。 

 歩道橋の上を通ると、在特会・主権回復会(以下、「在特会ら」と呼ぶ)の連中が戸田を見つけて「戸田だ!」、「戸田だ、この野郎!」と喚きつつ、明らかに殴りつけ、蹴り付けて集団暴行しようとして襲いかかって来た。
 大勢の警官が警備している目の前でである!

 ……〔略〕……

 戸田が下りエスカレーターを降りる間、戸田を後ろの警官らの後ろから襲いかかる者、上りエスカレーターを駆け下る者、隣の階段を駆け下る者と、まるで映画のゾンビ集団みたいに在特会らは戸田襲撃に大騒ぎ。

 そうして戸田がエスカレーターを降りて地面に立った時には、戸田の回りの警官らを在特会らが取り囲んで2方向3方向から戸田に襲いかかる事態になった。
 警官の体の隙間から手を出して戸田をこづこうとする者、蹴りを入れようとする者、デジカメを奪おうとする者、そしてメガネに手をかけて意図的に落としてしまう者まで現れた。
 http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=6388;id=01#6388

 
 その時の映像が次のものである。
 
   ● 4・7在特会らが戸田を襲撃!1:1:56.MP4
  
 集団で戸田ひさよし氏を追いかけ、襲いかかっている。手を伸ばして襲いかかり、眼鏡を落としたりしている。膝蹴りをした者もいるらしい。
 まさに「ゾンビ集団」である。

 さあ、これは大ピンチである。
 「ゾンビ集団」が。(笑) 

 一般社会においては暴力を振るった方が負けなのである。
  
 「ゾンビ集団」は、多くの人が見ている前で、警察官もいるのにもかかわらず暴力を振るった。そして、それをビデオで録画されているのである。
 これは「ゾンビ集団」にとって圧倒的に不利な状況である。
 この状況で戸田ひさよし氏が刑事告訴したら、「ゾンビ集団」はひとたまりもない。
 そして、ついに昨日、戸田ひさよし氏が「ゾンビ集団」に対して刑事告訴をおこなった。
 次のようにである。 
 被告訴人達の下記所為は、刑法第208条(暴行罪)および刑法第261条(器物損壊罪) に該当し、かつ今後も繰り返される危険性が極めて高いと思料されるので、被告訴人達の厳重な処罰を求めるため告訴する。
 http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=6438;id=01#6438

 「ゾンビ集団」には「厳重な処罰」がくだされるべきである。
 集団で一人の人間を追いかけ暴力を振るうのは、ゾンビとしては普通のことであろう。しかし、人間社会では暴力は認められていない。
 それを「ゾンビ集団」に思い知らしてやらなくてはならない。 
 人間社会はゾンビの存在を認めていない。
 
 だから、彼らには、人間社会の一般的な基準で罰がくだされるであろう。
 「ゾンビ集団」は人間になるべきである。
 
                     諸野脇@ネット哲学者
 

2010年04月30日

総務省は、十年間もインターネットの選挙利用を妨害した責任を取るべきである ――総務省はこっそり公職選挙法の解釈を変えている

 驚くべき事実がある。
 総務省は公職選挙法の解釈を大きく変えているのである。(注1)
 いかに総務省の解釈がいいかげんであるかが分かる。
 
 2000年の段階では、総務省(当時は自治省)はとんでもないことをしていた。選挙期間中、議員のホームページを閉鎖させていたのである。ホームページを閉鎖して、音声だけにした議員がいたくらいである。
 総務省(当時は自治省)の解釈は次の通りであった。 

 ……〔略〕……インターネットのホームページを開設することは「頒布」にあたると解しております。
 ● 新党さきがけ への自治省行政局選挙部選挙課の回答 平成8年10月28日付
 
 「ホームページを開設すること」を公職選挙法で禁じられている「頒布」と解釈していたのである。これでは、ホームページを閉鎖する議員が出るのも当然である。 
 しかし、現在では、〈ホームページを選挙期間中に更新しなければよい〉ことになっている。ホームページを閉鎖しなくてもよくなっている。(注2) 
 十年前は閉鎖させられていたホームページが公開できるようになった。
 
 大変な変化である。なぜ、このような変化が起こったのか。
 法律は変わっていない。
 総務省が解釈を変えたのである。どうして、こんなに大きく解釈を変えたのだろうか。このような形で法律の解釈を変えるべきではない。 
 総務省は、全ての候補者のホームページを閉鎖させるべきである。
 
 総務省は「ホームページを開設すること」が「頒布」だと解釈したのである。違法だと解釈したのである。その解釈を貫くのが筋である。
 総務省の解釈を信じてホームページを閉鎖した議員がいたのである。
 総務省は、その議員にどう弁解するのか。
 弁解の仕様がないのである。
 次のように謝るしかないであろう。 
 本当は、閉鎖しなくてもよかったのです。
 総務省の公職選挙法の解釈が間違っていました。
 申し訳ありません。
   
 しかし、総務省は謝罪すらしない。
 総務省は大きく解釈を変えた。それは自分の解釈が大きく間違っていたことに気がついたからであろう。それにもかかわらず、総務省はこっそり解釈を変えただけである。
 
 総務省は、間違った公職選挙法の解釈で議員のホームページを閉鎖させた。選挙活動を妨害した。言い換えれば、市民の投票活動を妨害したのである。
 これだけの非行をおこなっていならがら、謝罪すらしない。
 総務省は謝罪するべきである。
 そして、その責任を取るべきである。
 
 当時ホームページを閉鎖した議員は当然、総務省に謝罪を求める権利がある。
 また、総務省は、組織としてこの問題の責任を取るべきである。誰がどのように間違ったため、このような大きな間違いが生じたのか。はっきりさせるべきである。
 ホームページを閉鎖させられた議員は総務省を相手に訴訟を起こせばよい。そうすれば、問題がはっきりする。そして、問題をはっきりさせなければならないのである。
 これは言わば、総務省の「薬害エイズ問題」なのである。
 
 事実ははっきりしている。十年前はホームページを閉鎖させていた。そして、今はホームページを閉鎖しなくてもいいのである。
 被害は甚大である。十年もの間、インターネットの利用が妨害されたのである。
 これだけの非行の責任を取らなくていいならば、役人というのはずいぶん楽な仕事である。 
 役人の責任を問おう。
 
 公権力の行使には責任が伴うことを自覚させよう。
 間違ったら責任を取る。
 当たり前のことである。
 
                     諸野脇@ネット哲学者

(注1)

 それに対して、私の解釈は最初から変わっていない。

  ● インターネット選挙になるべきだった選挙 -- あなたも公職選挙法に「違反」してみませんか
  ● インターネット選挙は公職選挙法違反か --「馬」は「自動車」か

 総務省の解釈と比較してもらいたい。


(注2)

 近年、総務省の解釈がさらに大きく変わっている。ホームページ・ブログの更新すら問題にしないようになってきている。次のような解釈である。
 〈選挙活動としての更新してはいけない。しかし、政治活動としての更新は問題ない。〉
 古賀しげる氏の例を思い出していただきたい。
 
  ● 古賀しげる候補のブログ更新に「感銘」を受けた刑事が訪ねて来てくださる
  
 
 古賀しげる氏は選挙期間中にブログの更新をおこなっていた。
 しかし、警察が削除を求めてきたのは次の文言を含む三行だけなのである。 

 ・「勇気ある真の改革者」、古賀しげるにぜひ投票して下さい。
 
 警察は、明確な投票呼びかけ以外は問題にしなかったのである。ブログの更新自体は問題にしなかったのである。
 政治活動としての更新は問題ない。
 それならば、十年前に〈政治活動としてならば、ホームページの開設も更新も問題ありません。〉と言えばよかったのである。
 

2010年04月29日

略称「日本」問題を分析する 4 ――総務省・原口一博大臣は本当に法律ハードボイルドなのか

 二つの政党が同じ略称「日本」を使う事態となった。
 異常な事態である。
 私は、次のように書いた。 

 田中康夫代表は「同一の略称は混乱をもたらす」と言う。
 当然、「混乱」が起こるであろう。

 しかし、総務省側にはそんなことは関係ないのだ。
 彼らの論理はこうだ。
 
   私達は法律に基づき行動する。
   法律に規定が無い以上どうしようもない。

 
 総務省側はハードボイルドの世界なのである。現実にどんな大問題が起こっても彼らには関係ない。「民主」や「自民」を名乗る弱小政党が現れても彼らには関係ない。法律に基づき行動するのだから。法律が無ければ何もしない。法律ハードボイルドの世界なのだ。
  ● 略称「日本」問題を分析する 1 ――法律が無いという理由で同一略称を受け入れる総務省に、現実の問題を訴えても無駄である


 今回の問題に対して、総務省・原口一博大臣はこのような姿勢を取った。法律ハードボイルドな姿勢を取った。
 これは、いわば次のような姿勢である。 
 校則に「万引き禁止」と書いていないから、学生が万引きをしても容認する。
 
 誠にアホらしい。ごく普通の市民はあきれるであろう。
 しかし、観点を変えて考えてみよう。法律ハードボイルドな姿勢にどのような意味があるのかを考えてみよう。
 法律ハードボイルドな姿勢の意義は何か。恣意的な公権力の行使を避けることである。恣意的な公権力の行使は危険である。だから、明文化された法律に基づいて公権力を行使する。出来るだけ公権力を行使しないようにする。
 このような点で、法律ハードボイルドな姿勢には一理ある。

 しかし、総務省・原口一博大臣は本当に法律ハードボイルドなのか。
 本当に法律ハードボイルドであるならば、いつもそのような姿勢を取っているはずである。総務省・原口一博大臣はいつもそのような姿勢を取っているか。
 いや、取っていない。
 インターネットの選挙利用について総務省は恣意的に法律を拡大解釈している。それによって、インターネット上の選挙活動を十年も妨害し続けているのだ。
 
 公職選挙法にはインターネットという語は一語もない。当たり前である。大昔に出来た法律なのである。
 だから、総務省(当時は自治省)は次のように言えばよかったのだ。 

 今の法律では止める手だてはない。

 総務省がこう言っていれば世界は変わったのである。
 選挙におけるインターネット利用が進んだのである。選挙でインターネットを利用するのは世界の常識である。(注1)
 それにもかかわらず、総務省はインターネットの選挙利用を妨害してしまった。〈ホームページが文書図画である〉と恣意的な解釈をしてしまった。
 ホームページは見たい者がアクセスするものである。言わば、選挙事務所の資料室のようなものである。望まなくてもポストに入ってくるビラ(文書図画)とは全く違う。(注2)
 なぜ、総務省は法律ハードボイルドな姿勢を取らなかったのか。「インターネットについては規定が無い」と言わなかったのか。
 なぜ、原口一博大臣は、総務省の姿勢を変えようとしないのか。
 
 やはり、総務省・原口一博大臣は、法律ハードボイルドではない。
 十年間もインターネットの使用を妨害しているのである。公権力を行使し続けているのである。公権力の行使に慎重な訳ではない。
 ある時は、〈法律に規定が無いから禁止できない〉と言う。
 別の時は、法律を恣意的に解釈して禁止する。
 これでは次のように疑われても仕方ない。自分の都合のよいように法律を解釈しているだけではないか。または、法律を解釈する能力が無いのではないか。(注3)
 総務省は、十年間もインターネットの選挙利用を妨害してきたのである。
 
                     諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● ブログを更新して刑事告発される? オバマ大統領もびっくりだよ!
 
 
(注2)

 詳しくは次の文章をお読みいただきたい。

  ● インターネット選挙になるべきだった選挙 -- あなたも公職選挙法に「違反」してみませんか
  ● インターネット選挙は公職選挙法違反か --「馬」は「自動車」か
 
 総務省の解釈がいかに恣意的かを詳しく論じている。
 
 
(注3)

 役所が出生届を不受理にしたことがある。親が子供に「悪魔」と名づけようとしたのである。
 しかし、戸籍法には次のような文言しかない。 

 第50条 子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
  
 これで不受理に出来るのならば、今回の政党の名前(略称)も不受理に出来るはずである。なぜ、不受理にしないのか。不思議である。
 また、この条文で不受理にするためには、「ものすごい」論理解釈が必要だったはずである。それなのに、なぜ今回は普通の論理解釈すらしないのであろうか。不思議である。
 

2010年04月27日

略称「日本」問題を分析する 3 ――政治主導とは役所から法律の解釈権を奪うことなのである

 二つの政党が同じ略称を使うのは問題である。有権者の意志が正確に選挙結果に反映されなくなる。もちろん、これは公職選挙法の趣旨に反する。
 そして、現在の公職選挙法においても「同一略称」は禁じられていると解釈した方が自然なのである。
 次の文章で詳しく論じた。
 
  ● 略称「日本」問題を分析する 2 ――総務省の公職選挙法の解釈は正しいか
 
 
 現在の公職選挙法も「同一略称」を禁じていると解釈できるのである。
 しかし、4月16日の会見で原口一博総務相は次のように言った。 

 今の法律では止める手だてはない。
 
 疑問がある。
 原口一博総務相は、自分で公職選挙法の原文を読んだのか。自力で法律を解釈したのか。
 次のような状態なのではないか。 
 総務相の役人が、原口一博総務相に「今の法律では止める手だてはありません。」と言う。
 そして、原口一博総務相は、それを信じて会見で同じように発言する。
 
 よくあることである。
 しかし、そうでない可能性もある。原口一博総務相自身が公職選挙法を解釈した可能性もある。その場合、原口一博総務相は自分が公職選挙法をどう解釈したかを示すべきであろう。(注1)
 次の批判に答えるべきであろう。 
 1 政党ではない政治団体は「同一略称」を禁じられている。それなのに、なぜ政党には認められるのか。
 2 政党が「同一略称」を使ってはいけないのは当たり前のことである。明文規定が無いのは、当たり前だから書かなかっただけである。(注2)
 3 公職選挙法の趣旨は、「公明」「適正」な選挙制度の確立である。その趣旨から見て、政党についても「同一略称」は禁じられていると解釈するのが自然である。
 
 このような批判に前もって答えておくべきなのである。
 しかし、原口一博総務省は何もしなかった。
 もしかしたら、原口一博総務相は法律を解釈するという発想自体をもっていないのかもしれない。
 それならば、次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● 「法律を解釈する」という発想
   
 法律とは解釈するものなのである。
 自分に都合よく法律を解釈することで、現実を操作することが可能なのである。だから、法律は自力で解釈しなくてはならない。そして、どちらの解釈が正しいのかを争わなくてはならない。
 役人は法律の解釈を独占することによって、権力を持っているのである。影響力を持っているのである。
 「政治主導」という概念がある。しかし、政治家が役人の法解釈をうのみにしている限り、そのような状態は実現しない。 
 政治主導とは、政治家が法律を解釈することである。
 法律の解釈を通して、現実を変えることである。
 
 政治主導とは役所から法律の解釈権を奪うことなのである
 政治家は、役人から「今の法律では出来ない」と言われるであろう。しかし、それは本当か。自力で法律を解釈しなくてはならない。別の解釈で役人の解釈を圧倒しなくてはならない。その解釈によって現実を変えなくてはならない。
 原口一博総務相は正にそれをするべき立場にいるのである。
 原口一博総務相には私の文章の存在を「つぶやいて」おいた。私の解釈をよく読んでもらいたい。そして、自分の解釈で判断をくだしてもらいたい。(注3)

                     諸野脇@ネット哲学者
 
 
(注1)

 原口一博総務相が役人の解釈をうのみにしたかどうかは分からない。
 しかし、自分の解釈であるのならば、その解釈を示す責任がある。
 
 
(注2)

 条文に書いていないからといって、おこなってよいとは限らない。
 校則に「万引はしてはいけない」と書いていなくても、万引はしてはいけないのである。
 次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● 「覚醒剤は使用してはならない」という奇妙な校則を分析する  
 
 この文章の事例と「同一略称」の事例とを比較すると発想が広がるはずである。
 しかし、今はその時間がない。


(注3)

 この文章を書き終わってから、政府が「同一略称」を「受理せざるを得ない」と判断したという事実が報道された。これで二つの政党が「日本」という同じ略称になってしまった。残念である。
 
  ● 参院選で2党が「日本」名乗る 政府、同一略称を受理   
 
 さらに残念なのは、政府や原口一博総務相が自分の解釈を全く述べていないことである。(私にも読み落としがあるかもしれない。述べている事実があればお教えいただきたい。)


2010年04月26日

略称「日本」問題を分析する 2 ――総務省の公職選挙法の解釈は正しいか

 公職選挙法に「同一略称を禁ずる規定」はある。(注1) 

 ……〔略〕……名称及び略称は、第86条の6第6項の規定による告示に係る政党その他の政治団体にあつては当該告示に係る名称及び略称でなければならないものとし、同項の告示に係る政党その他の政治団体以外の政党その他の政治団体にあつては同項の規定により告示された名称及び略称並びにこれらに類似する名称……〔略〕……以外の名称及び略称でなければならない。
 (公職選挙法 第86条の2 3)

 非常に分かりにくい。
 簡単にまとめると次の通りである。 
 1 政党は、届け出た略称を使わなくてはならない。
 2 その他の団体は、それと同一の略称を使ってはならない。
 
 政党以外の団体については、「同一略称を禁ずる規定」があるのである。しかし、政党についてはそのような規定は明文化されていない。(注2)
 この条文をどう解釈するべきか。 
 弱小政治団体が大政党と同じ略称を使って利益を得ようとすることを禁じたのである。
 
 それでは、政党については、なぜ「同一略称を禁ずる規定」が明文化されていないのか。 
 政党が別の略称を使うのは当たり前だからである。

 政党が他の政党とは別の略称を使うのは当たり前である。政党ならば、他の政党との混同を避けたいと願うのが普通である。だから、別の略称を使う。
 それため、「同一略称を禁ずる規定」が明文化されていないのである。
 
 それでは、明文化されていないからといって、政党が「同一略称」を使ってよいのか。
 既に、政党でない政治団体については禁じられているのである。
 それが、政党にだけ認められるのは誠に不自然である。政党だけに「同一略称」を認める理由が思いつかない。

 つまり、公職選挙法の趣旨との関係で条文を解釈するべきなのである。文理解釈だけでなく、論理解釈をおこなうべきなのである。(注3)
 公職選挙法の趣旨を見てみよう。第1条「この法律の目的」を見てみよう。 

 この法律は、日本国憲法の精神に則り、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする。
 
 「公明且つ適正に行われることを確保し」とある。つまり、投票する人の意志が「公明」「適正」に表せる「制度」を「確保」することが公職選挙法の趣旨である。
 この趣旨に照らせば、「同一略称」は認めるべきではない。「同一略称」では、その略称を書いた人の意志が分からなくなる。どの党に投票したかが分からなくなる。それでは、投票する人の意志が「公明」「適正」に表せる「制度」ではなくなる。
 それは、公職選挙法の趣旨に反する状態である。
 
 公職選挙法の趣旨との関係で条文を解釈した。
 政党についても、公職選挙法によって「同一略称」の使用は禁じられている。
 明文の規定が無いのは、当たり前だからである。
 こう解釈する方が自然なのである。
 

                     諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 公職選挙法の原文は次のページで読める。
 
  ● 公職選挙法(法庫)


(注2)

 政党についての条文は次の通りである。 

 ……〔略〕……当該政党その他の政治団体の名称及び一の略称を中央選挙管理会に届け出るものとする。この場合において、当該名称及び略称は、その代表者若しくはいずれかの選挙区において衆議院名簿登載者としようとする者の氏名が表示され、又はそれらの者の氏名が類推されるような名称及び略称であつてはならない。
 (公職選挙法第86条の6)


(注3)

 文理解釈と論理解釈については、次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● どのように法律を解釈すればよいのか --文理解釈と論理解釈
  

2010年04月25日

略称「日本」問題を分析する 1 ――法律が無いという理由で同一略称を受け入れる総務省に、現実の問題を訴えても無駄である

 政党の略称が問題になっている。
 〈たちあがれ日本〉が「日本」という略称を届け出ようとしているのだ。
 しかし、「日本」という略称は〈新党日本〉が使ってきた略称なのだ。 

 新党「たちあがれ日本」が、夏の参院選の比例代表で用いる略称を「日本」と届け出る方針を固めたことが波紋を広げている。過去3回の国政選挙で略称を「日本」としてきた新党日本は当然、反発。さらに、公職選挙法に同一呼称を禁ずる規定がなく、論理的には、今後結成される新党が略称「民主」や「自民」などを名乗ることも可能だという。

 「同一の略称は混乱をもたらす。大変憂慮している」。新党日本の田中康夫代表は14日の記者会見で不快感を表明。さらに、比例代表票の案分を懸念して、「憲政史上初めて、同一略称で国政選挙に臨みかねない状況を放置するのか」とする質問状を総務省に提出したことを明らかにした。

 田中氏は「『本物の民主』とか『まともな民主』という党を(政党要件を満たすため5人以上の)国会議員が作って、略称『民主』で届けられるかと総務省に聞いたら、『その通りだ』という驚くべき見解だった。2党だけの問題ではない」と訴えた。
 http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100414/stt1004142050014-n1.htm

 
 田中康夫代表は「同一の略称は混乱をもたらす」と言う。
 当然、「混乱」が起こるであろう。

 しかし、総務省側にはそんなことは関係ないのだ。
 彼らの論理はこうだ。 

 私達は法律に基づき行動する。
 法律に規定が無い以上どうしようもない。
 
 総務省側はハードボイルドの世界なのである。現実にどんな大問題が起こっても彼らには関係ない。「民主」や「自民」を名乗る政党が現れても彼らには関係ない。法律に基づき行動するのだから、法律が無ければ何もしない。法律ハードボイルドの世界なのだ。
 このようなハードボイルドな総務省に現実の問題を訴えても無駄である。
 総務省の行動を変えるためには、法律の問題として論ずる必要がある。
 「法律が『同一略称』を禁止しているのだ」と主張する必要がある。
 田中康夫氏はそのような論を立てるべきであった。 
 法律が無いことを理由にする相手に、現実の問題を訴えても無駄である。
 
 そのような相手には、法律が有ると訴えるべきである。
 上の記事には次のようにある。 
 公職選挙法に同一呼称を禁ずる規定がなく……
 
 これは本当か。
 実は、「同一呼称を禁ずる既定」はあるのである。
 公職選挙法はもっと複雑である。
 そして、公職選挙法の解釈はさらに複雑なのである。〔……続く……〕

                     諸野脇@ネット哲学者


2010年04月24日

「覚醒剤は使用してはならない」という奇妙な校則を分析する

 私の入学した高校には奇妙な校則があった。
 次のものである。 

 覚醒剤は使用してはならない。
  
 この校則は、どう奇妙なのか。
 「覚醒剤は使用してはならない」のは当たり前のことである。当たり前のことをわざわざ書く必要はない。誠に奇妙である。
 このような当たり前のことを取り立てて校則で書くのは問題である。次のように解釈される恐れがあるからである。 
 このような当たり前のことをわざわざ書くところを見ると、書いていないことはしていいのだろう。例えば、万引きなどはしてもいいのだろう。
 
 校則とは学校の「法律」である。一般社会の法律に反することをしてはいけないのは、既に前提とされている。前提は書く必要はない。
 書く必要の無いものを書くと、上のような解釈が生じてしまう。つまり、「書いていないことはしていい」という解釈である。
 一つだけを「してはならない」と強調すると、他のことは「してもいい」という解釈を生じさせてしまう。
 
 実は、現行法にも同様の事例がある。法曹関係者にはよく知られた事例である。
 日本国憲法第三十六条である。(注1) 
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
 
 この条文には「絶対に」とある。しかし、他の条文にはそのような文言は無いのである。
 例えば、第二十九条である。 
 財産権は、これを侵してはならない。
 
 この条文には「絶対に」とは書いていない。
 つまり、第三十六条だけが強調されているのである。当然、次のような解釈が生じてしまう。 
 財産権は少しくらい侵してもいいんだ。万引き(窃盗)などはしてもいいのだろう。
  
 一部だけを強調すると、他の部分は重要でないという解釈が生じる。
 「解釈」と書いたことに注目いただきたい。
 法律は解釈するものなのである。
 どのように法律を解釈するか。(注2)
 それが問題である。

                     諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 日本国憲法の原文は次のページで読める。
 
  http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=1&H_NAME=%8c%9b%96%40&H_NAME_YOMI=%82%a0&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S21KE000&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1
  

(注2)

 古くからの読者は「文理解釈」・「論理解釈」を思い出したであろう。

  ● どのように法律を解釈すればよいのか --文理解釈と論理解釈

 その想像は正しい。


2010年02月24日

哲学者、リベンジか?(笑) ――インターネットラジオ出演、二週目

 「悪夢」のインターネットラジオ出演から一週間が経った。
 
   ● 哲学者、ブルーレディオドットコム(インターネットラジオ)に出演する
 
 本日から、第二週の放送が始まった。
 現在、再びブルーレディオドットコム(インターネットラジオ)出演中である。

   ● 烏賀陽弘道のU-NOTE

 私は、リベンジできただろうか。
 さすがに、二回目になると慣れてきた。
 立て板に水の「しゃべり」である……などということはなく、やはり沈黙してきた。(苦笑)
 編集で何とかなりますように。
 何とかなりますように。
 
 今週のテーマは「インターネットと選挙」である。
 私は、総務省の〈公職選挙法がホームページの利用を禁止している〉という解釈を批判してきた。
 この批判は大きな影響を与えた。次期門真市議・戸田ひさよし氏の活動、ブログ市長・竹原信一氏の活動にも繋がっているのである。
 詳しくは、次のアーカイブをお読みいただきたい。
 
   ● インターネット選挙 アーカイブ
 
 なぜ、このような大きな影響を与えられたのか。
 インターネットには〈重要なコンテンツを浮かび上がらせる機能〉があるからである。
 私は、インターネット上に文章を発表しただけである。
 それが大きな影響力を持つようになるのである。
 それは、多くの人がリンクを張ってくれるからである。リンクが私の文章を浮かび上がらせたのである。グーグルの検索上位に浮かび上がらせたのである。

   何でもいいからコンテンツをインターネット上にアップしよう。
 
 あなたがアップした情報が重要なものであるなら、それは自然と浮かび上がってくる。
 インターネットは巨大な情報評価システムなのだ。
 あなたが第二のスーザン・ボイルになるかもしれない。
 
 こんな話を詳しくしてきた。
 ぜひ、お聴きいただきたい。
 きっと、先週よりスムーズに話しているはずである!(苦笑)
 
                      諸野脇@ネット哲学者
                      

2010年02月16日

哲学者、ブルーレディオドットコム(インターネットラジオ)に出演する

 インターネットラジオのブルーレディオドットコムに出演してきた。
 端的に言う。
 
   悪夢であった。(苦笑)
  
 パーソナリティーの烏賀陽弘道氏、ディレクターの岡田伸也氏にとっても悪夢であったろう。
 私は哲学者である。だから、言葉が見つかるまで考える。つまり、見つかるまで、黙り続けるのだ。沈黙し続けるのだ。
 その沈黙が頻繁に起こるのである。言葉が見つかるまで、話さないので。
 生放送であったら、間違いなく放送事故である。(苦笑)
 
   私の沈黙連続の「しやべり」が、果たして番組になっているか。
  
 ラジオの常識を超越した私の「しやべり」がどう処理されたのか。現代の編集技術はどこまで進歩しているのか。別の意味で非常に興味深い。(苦笑)
 実にスリリングな番組なのである。
 ぜひ、お聞きいただきたい。 

 明日(17日夜8時)公開
 
  ● 烏賀陽弘道のU-NOTE
  
 第一週のテーマは「オリコン訴訟とインターネット」。
 何しろ、パーソナリティーが烏賀陽弘道氏で、ゲストが私なのである。
 当然の展開である。(笑)
 
 もし、私が自然に話していたら、ディレクターの岡田伸也氏の神業的編集のおかげである。
 もし、私が面白い内容を話していたら、パーソナリティーの烏賀陽弘道氏の神業的対応のおかげである。
 もし、めちゃくちゃになっていたら、全て私のせいである。
 すみません。すみません。

 今度は、ぜひ、生放送で呼んで欲しい。
 その方が、よりスリリングである。
 さあ、悪夢を楽しもう!
 
                      諸野脇@ネット哲学者
 

2010年02月05日

【オリコン訴訟】SLAPP訴訟(口封じ訴訟)を戦い抜いた烏賀陽弘道氏に世界はお礼を言うべきである

 烏賀陽弘道氏はSLAPP訴訟を戦い抜いた。オリコンを敗訴に追い込むまで、戦い抜いた。
 これは大変なことである。
 私は次のように書いた。 

 誰もが、SLAPP(口封じ訴訟)と戦い抜くことが出来る訳ではない。
 やはり、訴訟を続けるは苦しいのである。訴訟に多くの時間を取られ、実質的に無収入に近い状況に追いつめられるのである。
 その苦しい時、相手は次のようなことを言ってくるのである。
 
  一言謝れば、提訴は取り下げる。
 
 「悪魔の誘い」である。一言謝るだけで楽になれるのである。
 このような状況で耐えられる人は少ない。
 自分だけの損得ならば、その条件を飲んだ方が得かもしれない。
 しかし、烏賀陽弘道氏は、最後まで戦い抜いてオリコンを敗訴に追い込んだのである。SLAPP(口封じ訴訟)が成功する前例を作らせないためである。烏賀陽弘道氏は、自覚的にオリコン訴訟をSLAPP(口封じ訴訟)と位置づけた。自覚的に言論の自由を守るために戦ったのである。
   ● インターネットを活用した個人が大企業に勝訴
 
 烏賀陽弘道氏は、オリコン訴訟を〈言論の自由を守るための戦いである〉と位置づけていた。〈SLAPPが成功した前例を作らせない〉と意図して戦っていたのである。
 このような意図性が重要である。人間は意図しておこなった行為によって評価されるべきだからである。
 烏賀陽弘道氏の意図は、最初に発信した「SOSメール」で既に明確だった。
 このメールで烏賀陽弘道氏は次のように述べたのである。

これが言論の自由へのテロでなくて何でしょう。民主主義の破壊でなくて何でしょう。これは体を張ってでも阻止せねばなりません。

 烏賀陽弘道氏の意図は、「言論の自由」を「体を張って」守るというものであった。「民主主義」を守るというものであった。
 そして、烏賀陽弘道氏はSLAPP(口封じ訴訟)を戦い抜いた。烏賀陽弘道氏は意図して戦い抜いたのである。 

 世界は烏賀陽弘道氏にお礼を言うべきである。

 烏賀陽弘道氏は、「体を張って」「民主主義」を守ったのである。
 世界に成り代わり、烏賀陽弘道氏にお礼を申し上げたい。

                      諸野脇@ネット哲学者


※ 過去の文章は次のアーカイブでお読みいただきたい。

   ◆ オリコンVS.烏賀陽 訴訟 アーカイブ
 

2010年02月04日

【オリコン訴訟】インターネットが個人に大企業に対抗できる力を与えた

 オリコン訴訟は初めてのインターネット裁判であった。
 烏賀陽弘道氏は、インターネットを武器にオリコンと戦った。そして、勝訴したのである。これは画期的な出来事である。
 ぜひ、次の文章をお読みいただきたい。

   ● インターネットはオリコンを倒せるか
   ● インターネットを活用した個人が大企業に勝訴

 個人がインターネットを武器にして大企業と対等に戦えるようになったのである。
 こう考えると分かり易い。 

 もし、インターネットが無い状態で、オリコン訴訟が起こったらどうなったか。

 たぶん、我々はオリコン訴訟の存在すら知らなかっただろう。
 既存のマスメディアは、この訴訟の危険性をほとんど報道しなかった。このSLAPP(口封じ訴訟)の危険性をほとんど報道しなかった。
 しかし、インターネットがそれをおこなった。我々は、インターネットによって、オリコン訴訟の危険性を知ることが出来た。SLAPP(口封じ訴訟)の危険性を知ることが出来た。
 だから、インターネット上にオリコンを厳しく批判する文章が多く発表された。オリコンに不利な証言が多く出てきた。 
 インターネットが個人に大企業に対抗できる力を与えた。
  
 インターネットによって世界が変わったのである。
 情報の伝達のあり方が決定的に変わったのである。
 個人が、大企業以上の情報伝達力を持つ可能性が出てきたのである。(注)
 
                      諸野脇@ネット哲学者


(注)

 オリコンはネット上で私の文章に取り囲まれている。
 グーグルで検索すると、多くの語で私の文章が一番目に表示されるのである。(2010年2月4日現在)

  「オリコン訴訟 批判」
   http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLD_jaJP311JP311&q=%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%82%b3%e3%83%b3%e8%a8%b4%e8%a8%9f%e3%80%80%e6%89%b9%e5%88%a4
 
  「小池恒」(オリコン社長)
   http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLD_jaJP311JP311&q=%e5%b0%8f%e6%b1%a0%e6%81%92
 
  「笹浪雅義」(オリコン側弁護士)
   http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLD_jaJP311JP311&q=%e7%ac%b9%e6%b5%aa%e9%9b%85%e7%be%a9
 
 これも個人が大きな情報発信力を持つ例である。
 

※ 過去の文章は次のアーカイブでお読みいただきたい。

   ◆ オリコンVS.烏賀陽 訴訟 アーカイブ
 

2010年02月03日

【オリコン訴訟】インターネットはオリコンを倒せたか

 オリコンの行為はインターネットに対する脅威であった。
 オリコンは、烏賀陽弘道氏個人に五千万円もの高額名誉毀損訴訟を起こした。個人だけを訴える高額訴訟をためらわなかった。
 個人だけを訴えていいならば次に狙われるのはインターネットである。ブロガーである。インターネットこそ、個人が単独で情報を発信しているメディアであるからである。
 だから、私は次のような文章を書いた。
 
   ● インターネットはオリコンを倒せるか
 
 インターネットはオリコンを倒せたか。
 答は、もちろん「倒せた」である。
 オリコンは自ら敗訴を認めざるを得なくなった。「請求の放棄」をせざるを得なくなった。
 その大きな要因がインターネット上で厳しい批判を受けたことなのである。
 烏賀陽弘道氏は、次のような「高裁協議」の内容を報告している。

 黒津裁判官「TBSの取材がオリコンに入ったそうだ。ネット上でも取り上げられているし、収束したほうがいいという判断にオリコンは傾いている。……〔略〕……」
 黒津裁判官「〔オリコンは〕ネット上の批判も強くなってきたので、矛を収めたい」

 オリコンは「ネット上の批判」に負けたのである。
 詳しく次の文章で論じた。(この文章はメールマガジンで発行した。)
 
   ● インターネットを活用した個人が大企業に勝訴
  
 これで、オリコンはブロガーを訴えたら何が起こるかよく分かったはずである。大きな「ネット上の批判」が起こることがよく分かったはずである。
 インターネットはオリコンを倒した。
 この前例を多くの企業が見ているはずである。
 実に素晴らしい前例である。

                      諸野脇@ネット哲学者


※ 過去の文章は次のアーカイブでお読みいただきたい。

   ◆ オリコンVS.烏賀陽 訴訟 アーカイブ

2009年09月29日

祝・竹原信一市長 書類送検! ――ブログの選挙利用が公職選挙法違反か裁判で白黒つけよう

 竹原信一市長が公職選挙法違反の容疑で書類送検された。

 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が、市長選の期間中にインターネットの自身のブログ(日記式のホームページ)を更新したのは公職選挙法違反にあたるとして、地元の県議、市議らが鹿児島県警に告発した問題で、県警が竹原市長を同法違反(文書図画の頒布)容疑で鹿児島地検に書類送検していたことが26日分かった。
(2009年9月26日13時34分 読売新聞)
  http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090926-OYT1T00544.htm?from=nwlb
 
 これは画期的なことである。ブログの更新に対する日本初の書類送検ではないか。
 今まで警察は「公職選挙法に違反する」と候補者を脅して、ブログの更新を止めさせていた。しかし、無視して更新する者には、何の行動も起こさなかった。何の「お咎め」も無かった。
 
   ● 【「解禁」宣言?】 「ネット選挙活動規制を突破する」運動にも「お咎め」なし
 
 警察の警告を無視して更新しても何の「お咎め」もなかったのである。さらに、「ネット選挙活動をしよう」と呼びかけても何の「お咎め」もなかったのである。
 私はこの状態を次のように名づけた。 
 摘発するぞ、摘発するぞ詐欺

 警察の警告に従った者が損をしたのである。いわゆる「正直者がバカをみる」状態だったのである。実に不明朗な状態であったのである。
 このような詐欺的行為を繰り返してきた警察がついに行動を起こしたのである。
 「摘発する」と言った行為を摘発するという当たり前の行動を行ったのである。(苦笑)
 
 次は検察である。
 検察には、ぜひ、きちんと起訴してもらいたい。起訴すれば、インターネットの選挙利用の是非を問う初めての裁判になる。初めて裁判所の判断が下されることになる。
 総務省の公職選挙法の解釈が正しいのか。それとも、私や竹原信一市長の解釈が正しいのか。裁判の場で、はっきりさせることが出来る。
 竹原信一市長も、次のように言っている。 
告示後のブログ更新の件では
警察の取調べはあったし、書類送検したはずだ。
検察と裁判所の皆様、今後、いったいどうしてくださるのでしょうか。理屈の通らない理由で犯罪者扱いされて票が減り、ずいぶん迷惑でしたが、私が犯罪者でなければマスコミとこの件に関する告発者、おそらく警察などが加害者ではないかと思うのですが。
無理な理屈を通すためにも逮捕、投獄してみますか?
  http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20090906
 
 竹原信一市長を起訴するのが筋である。
 警察はさんざん「公職選挙法に違反する」と言ってきたのだ。
 もし、これが起訴できないようであれば、警察は口を慎むべきである。
 起訴すら出来ないものを違法だと言い張るのは止めるべきである。
 「摘発するぞ、摘発するぞ詐欺」は止めるべきである。
 
                     諸野脇@ネット哲学者

 
〔補〕

 今までの詳しい経緯については以下の文章をお読みいただきたい。

   ● 選挙期間中もブログを更新して、市長に当選!
   ● ブログを更新して刑事告発される? オバマ大統領もびっくりだよ!
   ● ブログ・ホームページも作っていない議員に「不公平だ」と言う資格があるのか
   ● 竹原信一市長は、ブログ更新が公職選挙法違反でない理由を既に述べているのだ --刑事告発するなら、その理由を批判しなければならない
   ● そんなふぬけた姿勢ではブログ更新を刑事告発できないぞ!(笑)

   ● 祝・竹原信一市長 刑事告発! --ブログ更新が公職選挙法違反か白黒つけよう
   

2009年09月28日

【オリコン訴訟】弁護士はSLAPP(口封じ訴訟)に荷担するべきではない ――笹浪雅義弁護士の責任

 オリコンは、雑誌『サイゾー』の取材に答えた烏賀陽弘道氏だけを名誉毀損で訴えた。記事を作った『サイゾー』編集部、『サイゾー』を出版したインフォバーン社は訴えなかった。
 企業から切り離された個人は弱い。五千万円もの高額訴訟を起こされては、弁護士費用だけでも大変な額になる。だから、このような訴訟は〈口封じ〉として機能する。
 アメリカの多くの州では、このような訴訟は違法である。SLAPP(口封じ訴訟)と判断されるのである。訴訟を利用した〈口封じ〉と判断されるのである。(注)
 
 このオリコンのSLAPPに笹浪雅義弁護士はどのように関わっていたのか。
 二つの可能性が考えられる。 

 A オリコンが笹浪雅義弁護士に烏賀陽氏個人を訴えることを求めた。
 B 笹浪雅義弁護士が烏賀陽弘道氏個人を訴えることをオリコンに提案した。
 
 Bならば、論外である。弁護士は企業に違法・不道徳な行動を提案するべきではない。
 仮に、Aだと仮定して、論を進めよう。
 笹浪雅義弁護士がオリコンから「烏賀陽弘道氏だけを訴えたい」と求められたとする。笹浪雅義弁護士は、このような場合、オリコンを止めるべきである。次のような事実をオリコンに伝えるべきである。
 1 そのような訴訟は、SLAPPと呼ばれ、アメリカの多くの州で違法とされている。
 2 日本には、SLAPPを明確に禁止する法律はない。しかし、訴訟権の濫用と判断される可能性がある。違法とされる可能性がある。
 3 違法でないにしても、道徳的に問題がある行為である。批判を受けるのは避けられない。
 4 また、この場合は、烏賀陽弘道氏はインタビューを受けたに過ぎない。記事を書いたのは『サイゾー』の記者である。烏賀陽弘道氏の発言を記者が歪めている可能性がある。その場合、烏賀陽弘道氏だけを訴えていては、敗訴してしまう。
 5 このようなことを考えれば、烏賀陽弘道氏個人を訴えるのではなく、ごく普通に名誉毀損訴訟を起こすべきである。つまり、烏賀陽弘道氏だけでなく、『サイゾー』編集部・インフォバーン社も一緒に訴えるべきである。
 
 このようなアドバイスをオリコンにするのが当然である。
 SLAPPは、アメリカの多くの州で違法とされる行為である。
 日本においても、訴訟権の濫用と判断される可能性がある。
 違法または不道徳な行為なのである。
 
 企業が不道徳な訴訟を起こそうとした時には、弁護士はそれを止めるべきである。
 そうでなければ、弁護士は社会の一員として認められないであろう。
 オリコンは反社会的な行為をおこなった。同時に、笹浪雅義弁護士も反社会的行為に荷担した。両者とも、社会の一員として認められないであろう。
 
 弁護士が、その社会的責任を放棄する時、弁護士の評判は地に落ちるであろう。
 金のためならなんでもする反社会的な職種と判断されるであろう。
 現実に、アメリカの弁護士にはそのようなイメージがある。
 しかし、日本においては、大筋で弁護士にはそのようなイメージはない。
 そのイメージは、多くの善良な弁護士によって作られてきたのである。
 
 だから、笹浪雅義弁護士の行為を多くの日本の弁護士は認めないであろう。
 そう私は信じている。
 
                     諸野脇@ネット哲学者
 
〔補〕
 
 弁護士法を見る。次のようにある。 
第1条 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
 2 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。
 
 この弁護士法に照らして、笹浪雅義弁護士の行為は恥ずかしい。
 この訴訟は、国境なき記者団から「報道の自由という基本的人権をはなはだしく犯している」と批判されている。
 この訴訟は「基本的人権」を著しく犯している。ジャーナリズムという「社会秩序」を破壊しようとしている。(既に、詳しく論じた通りである。)
 つまり、弁護士法に違反しているのである。
 
 このような場合、弁護士会に懲戒請求をすることが可能である。
 SLAPP訴訟に荷担した弁護士には懲戒請求することが可能である。
 この事実を覚えておいて欲しい。
  

(注)

 次のサイトを参照のこと。
 
   ◆ SLAPP WATCH
   

※ 過去の文章は次のアーカイブでお読みいただきたい。

   ◆ オリコンVS.烏賀陽 訴訟 アーカイブ
   

2009年09月27日

【オリコン訴訟】企業の危機管理を考えるためのよい事例 ――世界的に悪評を広めてしまったオリコン・小池恒社長の行動

 オリコンは烏賀陽弘道氏に謝罪するべきである。
 既に詳しく論じた。
 
   ● オリコン・小池恒社長は烏賀陽弘道氏に謝罪するべきである
   
 筋として、烏賀陽弘道氏に被害を与えたオリコンは謝罪するべきである。
 そして、実は、謝罪した方がオリコンのためなのである。
 烏賀陽弘道氏は言う。

老婆心ですが、ぼくな、らサイゾー証言が出た時点で「私たちの提訴は事実誤認でした」「烏賀陽さんには長年たいへんご迷惑をおかけしました」「心よりおわびします」と会見して頭を下げるでしょう(ほら、産地偽装事件で食品会社がやっていたアレです)。

いえいえ、ぼくが被害者だからそう言っているのではありません。そうして「できるだけ早く」「できるだけ過ちを認めて」「できるだけ誠実に謝る」方がパブリック・イメージの好感度は高いからです。そして早く世論は忘れます。

逃げれば逃げるほど、隠せば隠すほど世論は攻撃します。これは企業経営の「危機管理」という分野ではイロハのイです。おわび会見など、1時間ほどガマンすればいいだけの話ではありませんか(笑)。「人の噂など××日」です。私はずっとマスコミで生きている人間として、よーく知っています。

ですから、どうかオリコンさん、企業イメージのためには自発的に会見を開いて謝ったほうがいいですよ。和解条項に謝罪が入っていなくても、企業市民としての倫理的責任はまだ残っています。ここはコーポレートイメージを挽回する最後のチャンスですよ。ぜひ災い転じて福となしてほしいものです。
   ● 「和解」という名の建物の中で自決してしまったオリコン


 その通りである。
 アメリカでは「銃の弾を全て出す」といった慣用句を使うと聞いたことがある。これは〈火種を残さない〉という意味である。弾を全て出してしまえば、発射できない。批判される可能性がある悪いところを全て謝罪するれば、批判されない。
 オリコン・小池恒社長が会見を開き、次のように謝罪したとする。
 「私たちの提訴は事実誤認でした」「烏賀陽さんには長年たいへんご迷惑をおかけしました」「心よりおわびします」

 謝るべきところにきちんと謝ったことになる。批判のしようがなくなる。
 オリコン・小池恒社長がこのような謝罪をしていれば、私は先の文章を書けなくなった。例えば、次のような批判は出来なくなった。 
 オリコン・小池恒社長は、かなり異常な感覚を持っているようである。

 謝罪していれば、「異常な感覚」ではない。正常な感覚を持っていることになる。
 だから、このような批判は出来なくなる。
 
 つまり、きちんと謝罪した方が得なのである。
 きちんと謝罪すると火種がなくなる。批判する種がなくなる。批判できなくなる。
 
 オリコンは笹浪雅義弁護士に依頼して、この訴訟を起こした。その結果が、「請求の放棄」という惨めな全面敗訴である。
 また、評判という観点でも、オリコンは大きなダメージを受けている。
 オリコンは、国境なき記者団から勧告を受けた初めての日本企業であろう。「報道の自由という基本的人権をはなはだしく犯している」と指摘された初めての企業であろう。
 多くの団体・個人がオリコンを批判した。
 詳しくは次の文章をお読みいただきたい。
 
   ● インターネットはオリコンを倒せるか   
   ● 江川紹子氏・佐高信氏がオリコンを批判する意見書
   
 オリコンは、この評判悪化の危機を乗り切らなくてはならない。
 そのためには、笹浪雅義弁護士ではなく、危機管理コンサルタントを雇うべきではないか。
 私はずっとそう思ってきた。
 
 国境なき記者団に批判してもらいたいと思っても、普通の企業では無理である。江川紹子氏や佐高信氏に批判してもらいたいと思っても、普通の企業では無理である。オリコンはスペシャルな企業なのである。
 日本の一企業が世界から批判を集めるなど、不可能に近い「快挙」である。(苦笑)
 
 危機管理の専門家には、ぜひ、オリコン・小池恒社長の行動の分析をしてもらいたい。オリコン・小池恒社長の行動は危機管理上の間違いの宝庫である。
 分析しがいがあるはずである。
 
                      諸野脇@ネット哲学者


〔補〕

 「オリコン訴訟」を論ずる文章は次の「アーカイブ」で全て読める。
 
   ◆ オリコンVS.烏賀陽 訴訟 アーカイブ
   
  

2009年08月13日

【オリコン訴訟】オリコン・小池恒社長は烏賀陽弘道氏に謝罪するべきである

 オリコンは自ら全面敗訴を認めた。
 以下の文章で詳しく説明した。
 
   ● 【オリコン訴訟】烏賀陽弘道氏の勝訴で終結 ――オリコン(小池恒社長)が自爆せざるを得なかった理由
   
 つまり、オリコンは、自分が間違っていたことを認めた。烏賀陽弘道(うがや ひろみち)氏を訴えたのが間違いであったことを認めた。
 しかし、大きな問題がある。オリコンは謝罪していないのである。間違いを認めたら、謝罪する。それが普通である。その普通の行為をオリコンはしていないのである。
 「裁判上の和解」で、オリコンは全く謝罪していない。(注1)
 おおむね次の関係である。 

 オリコン君はサイゾー君から「烏賀陽君がオリコン君の悪口を言った」と聞いた。
 オリコン君は烏賀陽君を呼び出して、殴り倒した。
 その後、サイゾー君の言った内容が不正確であることが分かった。烏賀陽君がそんなことを言っていないことが分かった。
 サイゾー君は烏賀陽君とオリコン君に謝罪した。
 オリコン君は自分が間違って烏賀陽君を殴ったことを認めた。
 
 「オリコン君」は「烏賀陽君」に謝罪していない。これは不当な状態である。「烏賀陽君」を殴った「オリコン君」は謝罪するべきである。
 オリコンは間違って烏賀陽氏を「殴った」のだ。そして、それを自ら認めているのだ。当然、オリコンは謝罪するべきである。(また、怪我の治療費などを払うべきである。)
 烏賀陽弘道氏は言う。
 私の収入は、2005年には500万円あったのに、2007年・2008年の2年間だけで約650万円減り、生活が出来ない状態にまで追い込まれました。09年分や弁護士費用分を含めると、オリコンの提訴で被った被害金額は1000万円に近づくでしょう。弁護士費用を捻出するため、私は故郷の老母の介護資金に貯めておいた定期預金を解約せざるをえませんでした。
 
 心身ともに疲弊は極限に近い。不眠、激しい頭痛、目まい、嘔吐などの症状が悪化しています。
  〔2009年8月4日 記者会見ステートメント、7ページ〕
 
 これがオリコンが烏賀陽弘道氏を「殴った」結果である。
 「被害金額1000万円」である。
 「心身とも疲弊は極限に近い」のである。
 間違って「殴った」ことをオリコンは認めた。それならば、「治療費」を出すべきである。この被害を補償するべきである。
 少なくとも、謝罪はくらいはするべきである。
 確認しよう。
 
   1 オリコンは、間違って烏賀陽弘道氏を「殴った」ことを認めた。
   2 しかし、「治療費」の支払いはおろか、謝罪さえしない。

 
 これは普通の感覚ではない。
 間違って相手を「殴った」ことを認めたら、普通は謝罪する。間違いを認めることと謝罪することはセットである。しかし、オリコン・小池恒社長は間違いを認めただけで済むと考えているようである。後は沈黙していれば済むと考えているようである。
 
   オリコン・小池恒社長は、かなり異常な感覚を持っているようである。
 
 オリコン・小池恒社長のこの沈黙は大きな問題である。(注2)
 仮に、間違いを認めていないのならば、原理的には謝罪する必要はない。「見解の相違である。」などと言い続ければいいのである。
 しかし、これは、そのような普通の形の問題ではない。異常な形の問題なのである。オリコン・小池恒社長は間違えを認めながら、謝罪しない。これは誠に異常な形である。
 オリコン・小池恒社長は、異常な行為を続けている。間違いを認めたのに、謝罪すらしない。33ヵ月のもの間、間違って人を苦しめたのに謝罪すらしないのである。
 
   オリコン・小池恒社長が謝罪するまで、いつまでも批判が続くであろう。
  
 このような異常な行為を社会は認めないであろう。
 ジャーナリストは、このような異常な行為を認めないであろう。
 ブロガーは、このような異常な行為を認めないであろう。
 謝罪がおこなわれるまで、いつまでも批判が続くであろう。
 オリコン・小池恒社長は、自分の行為の異常性に気づくべきである。
 
                      諸野脇@ネット哲学者

 
(注1)

 高等裁判所による「職権和解」の内容は次の通りである。
 
   ● 裁判上の和解
    
 オリコン側が全く謝罪していないことをご確認いただきたい。
 和解協議でオリコン側は謝罪を拒否したのである。謝罪から「逃げ回」ったのである。
 その様子は、烏賀陽弘道氏の次の文章をご覧いただきたい。

   ● 「和解」という名の建物の中で自決してしまったオリコン
    
 間違ったら、謝罪する。その当たり前のことをどうしてしないのか。
 誠に不当である。


(注2)

 「裁判上の和解」で謝罪しなくても、プレスリリース等で謝罪する方法がある。
 道義的な責任を果たす方法がある。
 オリコンのプレスリリースを見てみよう。
 
   ● 和解による訴訟の解決に関するお知らせ(2009-08-03)
 
 全くだめである。
 烏賀陽弘道氏に対する謝罪が一言もない。
 オリコン・小池恒社長は道義的な責任も果たしていない。
 

2009年08月05日

【オリコン訴訟】烏賀陽弘道氏の勝訴で終結 ――オリコン(小池恒社長)が自爆せざるを得なかった理由

 オリコンが自爆した。
 「請求の放棄」をおこなったのだ。「請求の放棄」とは自ら全面敗訴を認めることである。(注1)
 これは奇っ怪な事態である。オリコンは、烏賀陽弘道氏に対して一審で勝訴していた。名誉毀損を認められていた。賠償金100万円を認められていた。
 それにもかかわらず、オリコンは自ら全面敗訴を認めて、訴訟を終わらせた。言わば、オリコンは自爆したのである。
 
   1 オリコンは烏賀陽弘道氏に対して東京地裁で勝訴した。
   2 しかし、オリコンは全面敗訴を認めて訴訟を終わらせた。

  
 通常、一審で勝訴した方は二審でも有利である。有利なはずのオリコンが全面敗訴を認めて、訴訟を終わらせる。これは普通あり得ない行為である。歴史に残るみっともない負け方である。
 なぜ、このような奇っ怪な事態が起きたのか。なぜ、オリコンは自爆せざるを得なかったのか。
 それは、オリコンは烏賀陽弘道氏個人を訴えていたからである。SLAPP(恫喝訴訟)をおこなっていたからである。「腹黒い」行為をおこなっていたからである。
 既に、私は次のように書いていた。


 その「腹黒い」行為がオリコンに返ってくる可能性がある。個人だけを訴えたことが裏目に出る可能性がある。
 先に説明した烏賀陽氏側の新しい主張を思い出していただきたい。 
 そもそも烏賀陽弘道氏はそのような内容を発言していない。
 
 この主張が認められれば、次のような結論が出る。 
 烏賀陽氏は発言していない。発言していないことを名誉毀損には問えない。
 だから、オリコンの負け。
 
 この主張が見事に決まると、オリコンにとっては最悪の結果になる。
 責任を取らせる相手がいなくなってしまうのである。次の事実に注目していただきたい。 
 仮にインフォーバーン社に名誉毀損の責任があったとしても、オリコンはインフォバーン社に責任を取らせることが出来ない。訴えていないのだから。
 手も足も出ないのである。
 
 仮に雑誌『サイゾー』に載った「コメント」がオリコンの名誉を毀損するものだったとする。その場合、烏賀陽氏が「発言していない」ならば、責任があるのは『サイゾー』編集部・インフォバーン社である。誰かがその「コメント」を作ったのは間違いないのである。
 しかし、オリコンは、インフォバーン社に責任を取らせることが出来ない。訴えていないのだから。
 普通に名誉毀損訴訟を起こしておけば、そのような状態にはならない。インフォバーン社も訴えておけば、そのような状態にはならない。しかし、個人だけを狙い撃ちにしたために、何も出来なくなってしまう。無様に負けてしまう。
 自分で掘った穴に自分で落ちたのである。
 SLAPPが裏目にでたのである。自業自得である。

   ● 【オリコン訴訟】オリコンは、自分が掘った穴に落ちる(かも)  --SLAPPが裏目に!


 オリコンが自爆せざるを得なかったのは、正にこの形になってしまったからである。
 烏賀陽氏側の主張が見事に決まったのである。烏賀陽弘道氏が「そのような内容を発言していない」ことが明らかになったのである。『サイゾー』編集部員が烏賀陽弘道氏が「そのような内容を発言していない」事実を証言したのである。編集部員がまとめた「コメントが不正確なもの」であることを認めたのである。(注2)
 これで、オリコンは「自分が掘った穴に落ち」てしまった。
 烏賀陽弘道氏が「そのような内容を発言していな」ければ、烏賀陽弘道氏に責任を取らせることは出来ない。また、訴えていない他の関係者に裁判において責任を取らせることも出来ない。
 だから、オリコンは、「請求の放棄」をおこなわざるを得なくなったのである。自ら全面敗訴を認めざるを得なくなったのである。自爆せざるを得なくなったのである。
 オリコンはSLAPPをおこなったゆえに無様に負けたのである。

                     諸野脇@ネット哲学者

(注1)

 「請求放棄」については次のページを参照のこと。
 
   ● 裁判所が判決を出さなくても勝訴できるんですね! オリコンの「自己敗訴宣言」=「請求放棄」   
   ● 請求の放棄と訴えの取り下げについての質問です。

(注2)

 例えば、朝日新聞の次の記事を参照のこと。
 『サイゾー』が、自らまとめた「コメント」が「不正確」だったことを認めている。

   ● オリコンが請求放棄、和解 コメント巡る名誉棄損訴訟

2009年07月16日

【本日放送】古賀しげる候補の断固たるブログ活用がテレビニュースに!

 古賀しげる候補は、選挙活動にブログを活用した。
 その断固たる姿勢に「感銘」を受けた刑事が三人もいらしてくださった。
 
   ● 古賀しげる候補のブログ更新に「感銘」を受けた刑事が訪ねて来てくださる
  
 その他にも、感銘を受けた方が現れたようである。
 テレビ局が古賀しげる氏を取材にきたのである。
 
   ● ブログの選挙活用で一大事が
   
   
 ほとんどの候補がインターネットを選挙に活用していない。選管・警察の「指導」に従ってる。
 その中で、古賀しげる候補だけが断固としてインターネットを選挙に活用した。ブログを選挙に活用した。しかも、何の「お咎め」も受けていない。
 これはニュースである。
 
 警察がしているのは、「オレオレ詐欺」のような行為である。次のように名づけよう。
 
   摘発するぞ、摘発するぞ詐欺
  
 警察は「摘発するぞ」とは言う。しかし、インターネットの活用を続けても「摘発」はしない。警察を信じて従った者がバカをみるのである。
 この「摘発するぞ、摘発するぞ詐欺」に、ほとんどの候補者が引っかかっている。しかし、引っかかってはいけない。実際にはインターネットの活用を続けても「摘発」はされないのである。「摘発」された例は一件も無いのである。(注1)
 
 テレビニュースになれば、この詐欺的構造が白日の下にさらされるであろう。
 放送時間は次の通りである。
 
   16日17時ごろ放送 8チャンネル (関西テレビ系列 関東はフジテレビ?)
 
 このニュースが、多くの候補者がインターネットを利用するきっかけになることを期待する。不当な状態での安定を崩す第一歩になることを期待する。(注2)
 
                諸野脇@ネット哲学者
 
 
(注1)

 警察は、次のような明白な行為も「摘発」できなかった。

   ● 【「解禁」宣言?】 「ネット選挙活動規制を突破する」運動にも「お咎め」なし
 
 
 戸田ひさよし氏のホームページに「感銘」を受けた警察の方が電話をかけてきてくださったこともあった。
 
   ● 確信犯的構造


 この時は「〔公職選挙法違反であるというのは〕捜査2課の見解だ」とまで言い切ったのに、その後、何の音沙汰もない。
 やはり、「摘発するぞ、摘発するぞ詐欺」であったのであろう。
 大阪府警は、この言に反感を感じるかもしれない。それなら、今からでも遅くはない。「摘発」すればいいのである。「捜査2課の見解」なのだから。
 

(注2)

 なぜ、不当な状態で安定してしまっているのか。
 次の文章で論じた。
 
   ● なぜ、世界は変わらないのか

2009年07月15日

古賀しげる候補のブログ更新に「感銘」を受けた刑事が訪ねて来てくださる

 既に述べたように古賀しげる候補は選挙期間中にブログを更新していた。
 
   ● 尼崎市議候補・古賀しげる氏が選挙期間中もブログを活用すると宣言
 
 その後、古賀しげる候補は、さらにブログ活用を強化した。
 ブログの冒頭に次のように書いたのである。 

・古賀しげるは現在、6/7投票の尼崎市議選挙に立候補し、「公明・自民とも市長とも闘う」事を明言して闘っています。
・「選挙でブログを使う」事は全く合法な事であり、政府・マスコミの誤った宣伝に誤魔化されてはなりません。
・「勇気ある真の改革者」、古賀しげるにぜひ投票して下さい。
 
 タイトルの直ぐ下にこのように書いたのである。
 だから、古賀しげる氏のブログを見に来た人は、必ずこの文言を見ることになる。
 特に次の文言にご注目いただきたい。 
・「勇気ある真の改革者」、古賀しげるにぜひ投票して下さい。
 
 古賀しげる候補は、端的にブログで投票を呼びかけたのである。
 総務省が違法と解釈している行動をズバリとおこなったのである。(笑)
 正に、真っ正面からの堂々たる「攻撃」である。
 古賀しげる候補のこの堂々たる姿勢に「感銘」を受けたのか、刑事が三人ほど訪ねて来てくださったようである。(笑)
 ……〔略〕……「〔刑事が〕今そちらに向かっているから待っていてくれ」と突然トンデモない事を言い出した。
 古賀さんが「これから大事な選挙会議等があし、こちらのブログ使用の根拠はブログで公表しているから勝手の来られても困る。投票日の夜9時以降なら時間を取るから、話はその時にして下さい。」と何度も求めたのに、警察は「今行くから会ってくれ」の一点張り。

 とうとう、8:45頃「マツオ」など3人の刑事が事務所にやって来たので、万やむなく古賀さんとスタッフが事務所のドアの外で対応。記録をするためにデジカメと録音機を作動させた。
 古賀さんは、再度ブログ使用の正当性を説明し、「投票日の夜9時以降なら時間を取るから、話はその時にして下さい。」と繰り返す。
 「マツオ」刑事達は、「ブログ記事の更新はともかくとしても、冒頭書きの3行は削除してもらわないとダメだ」と言っていたようである。
 http://www.asyura2.com/09/senkyo64/msg/864.html


 刑事は、先の三行を削除するように求めたようである。
 誠に興味深い。
 よほど先の三行が「痛かった」のであろう。「痛かった」から、わざわざ三人でいらっしゃってくださったのである。(笑)
 古賀しげる氏は警察を追いつめたのである。
 
 古賀しげる氏は、この刑事達にも堂々と「ブログ更新は違法ではない」と主張した。そして、丁重にお引き取りいただいた。
 その結果、どうなったか。
 もちろん、何の「お咎め」も無しである。
 
 古賀しげる氏は、すばらしい前例を作った。「古賀しげるにぜひ投票して下さい」と書いても大丈夫なのである。次のことをはっきりさせたのである。 
 
明確に投票呼びかけをして、刑事が三人いらしても、特に気にする必要はない。

 ブログ上で選挙活動をおこなっても、実際上は「摘発」されることはない。「脅し」を受けるだけである。インターネット上の選挙活動現状は安定してしまっているのである。その原理は既に次の文章で書いた。
 
   ● なぜ、世界は変わらないのか
   

 選挙は終わった。
 古賀しげる候補は当選できなかった。古賀しげる候補が当選すれば、当然、議会の様子をブログで公開したであろう。インターネットによる情報公開を重視したであろう。そのような議員が誕生しなかったという点で誠に残念である。
 しかし、現在も、古賀しげる氏は前例を作り続けている。タイトル下に次のような文言を表示している。

「選挙でブログを使う」事は全く合法な事であり、政府・マスコミの誤った宣伝にだまされてはなりません。HPやブログが文書図画に当たるという条文は全く無い、それは選管も警察も承知しています
ネット活用で選挙にかかる費用が節約できると主張する人も出てきていますし、解禁を明文化する動きは政府与党にもあるのです。「選挙改革者」の1人になろうとした古賀しげるに諸野脇先生をはじめ多くの皆さんがご支援をいただいたことに感謝します。これからもがんばりますのでよろしくお願いします!
参照:
★HPの選挙活用合法の法理論(1)
http://www.irev.org/shakai/isenkyo2.htm
http://www.irev.org/shakai/isenkyo1.htm
★インターネット上での選挙活動は禁止されていない
http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=1775;id=01#1775
★「諸野脇 正の闘う哲学」
http://shonowaki.com/
★2000年以降ずっとHP選挙運動をしてきた議員の実例
http://www.hige-toda.com/_mado05/sigisen/sigisen07/sigisen2007.htm
 
   ◆ 古賀しげる「青空の会」ブログ 選挙期間中も断固更新.選挙後も更新継続!

 そして、政治について意見を述べ続けているのだ。
 ムーミンのようなかわいらしい姿からは想像できない毅然とした姿勢である。
 古賀しげる氏のこの活動に注目するべきである。

                諸野脇@ネット哲学者

2009年06月03日

尼崎市議候補・古賀しげる氏が選挙期間中もブログを活用すると宣言

 尼崎市議候補・古賀しげる氏はブログで次のように述べた。

 私は、ホームページやブログは、電子資料館でありそこを意志をもって訪れてはじめて見れるものを展示するのであるから選挙法上の「文書図画の頒布」には該当しないと信念を持っています。
 http://blog.livedoor.jp/hfcgg791/archives/50936734.html
 
 これは堂々たる宣言である。
 次の原理を宣言したのである。 
 1 ブログは電子資料館である。
 2 だから、『文書図画の頒布』には該当しない。
 
 多くの候補者は選挙期間中のブログ更新を停止する。選管による根拠の無い「指導」に従ってしまう。〈違法だ〉という根拠の無い「指導」に従ってしまうのである。(注1)
 しかし、古賀しげる候補はブログを更新している。〈合法である〉と堂々と宣言をした上で活用している。
 これは素晴らしいことである。
 
 宣言をした上でのブログ活用は特別な意味を持つ。
 宣言をすれば、公然とブログを活用したことになる。当然、当局はそのブログを「摘発」しなくてはならなくなる。もし、公然たる行為を「摘発」しなければ、今後ブログの活用を「摘発」できなくなる。
 公然たる行為は前例としての効果を持つのである。
 古賀しげる候補の公然たるブログ活用は、後に続く人達のための道を作ることになるであろう。(注2)
 
                諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 選管の「指導」に根拠が無いことは、次の文章で詳しく論じた。
 
   ● インターネット選挙になるべきだった選挙 -- あなたも公職選挙法に「違反」してみませんか
   ● インターネット選挙は公職選挙法違反か --「馬」は「自動車」か
  
 ぜひ、お読みいただきたい。
 
 
(注2)

 インターネット上での選挙活動の道を切り開いてきたのは前門真市議の戸田ひさよし氏である。
 戸田ひさよし氏は多くの前例を作ってきた。
 
   ● 【結論】 インターネット上で選挙活動をしても「摘発」はされない
   ● 【「解禁」宣言?】 「ネット選挙活動規制を突破する」運動にも「お咎め」なし

 古賀しげる候補の活動が、その後に続くものになることを期待している。

2009年06月02日

祝・竹原信一氏再選! ―― さあ、心ゆくまで「対立」しよう

 不信任決議によって失職した竹原信一氏が出直し市長選挙で再選された。
 当然、気になるのが議会との関係である。
 もちろん、竹原信一市長と阿久根市議会の「対立」は続く。
 まず、竹原信一氏は、現状の阿久根市議会と妥協するつもりはない。
 不正な議会には適応できないのである。次の文章で詳しく論じた。
 
   ● このような議会には適応しない方が正しいのだ
 
 竹原信一氏は、阿久根市議会を「議案にケチをつけて賛成、反対の多数決をするだけ」と批判する。「本来なら……あるべき阿久根を議論する所です」と批判する。竹原信一氏は、不正な議会を改善しようとしているのだ。
 さらに、竹原信一市長は、市議時代から次のように言っていた。

 唯一の解決策
変えるには市民が自ら立ち上がるしかない。辞職、解散させこの市長、議会を全面的に作り変えなければ転落を止めることは出来ない。議員の過半数が自主的に心を入れ替えることなどありえない。万一、心を入れ替える事があったとしても、そもそも議会の仕事を考える力がない。職員が提案したものを選ばされる事以上の能力が決定的に欠落している。ひどい事に議会では論理的に組み立てた議論ができない。すぐに多数決に逃げ出す。本当に話しにならないのだ。私は、議員になって最初の一般質問で「阿久根市議会は不良債権ではないか」と発言した。私は今、確信している。
   ● 議会報告3 問題の根源

 竹原信一氏は言う。「議員の過半数が自主的に心を入れ替えることなどありえない」・「万一、心を入れ替える事があったとしても、そもそも議会の仕事を考える力がない。」
 竹原信一氏は、現状の議員では問題は「解決」しないと考えている。現状の議員は「不良債権」だと考えている。
 つまり、「市民が自ら立ち上が」り、議員を入れ替えるのが「唯一の解決策」と考えているのである。不正な議会に全く適応しない首長が議員の大半を入れ替えようとしている。これは、誠に興味深い事態である。実験的な事態なのである。
 
 議員の方はどうだろうか。もちろん、竹原信一氏と妥協する気などない。自分達を「不良債権」と考え、議会から消そうと考えている相手なのである。彼らにとって、もともと妥協できる相手ではないのだ。
 
 これは、心ゆくまで「対立」するしかない。「不良債権」である議員達が議会から消えるか。竹原信一市長が消えるか。どちらかが消えるまで「対立」は続くであろう。(注)
 どのような「対立」が考えられるか。不信任案を提出した議員に対するリコール、再度の市長不信任決議、議会解散など、さまざまな「対立」が考えられる。

 マスコミは、このような事態を「不毛な対立」・「泥仕合」と呼ぶだろう。しかし、「対立」の中身を検討しなければならない。中身を検討しない罵り言葉は無意味である。全ての「対立」が悪い訳ではない。
 「対立」によって、情報が伝わる。阿久根市民は阿久根市の現状についてより深く知ることができる。
 これは阿久根市民が「覚醒」するために必要な過程なのである。
 
                 諸野脇@ネット哲学者


(注)

 前回の市議選で「不良債権」の整理は少し進んだ。
 
   ● ブログの活用で阿久根市議会の「お掃除」が進む 
 
 政務調査費で温泉バスツアーに行った築地新公女議員。それを容認した京田道弘議長。領収証を偽造した的場眞一議員、山下孝男議員。
 全員が議会から消えた。落選・引退したのである。
 また、竹原信一市長も一度消えた。しかし、復活した。(笑)

2009年05月31日

このような議会には適応しない方が正しいのだ

 現状の議会は、〈議論をする場所〉になっていない。
 既に、詳しく論じた。
 「質問にきちんと答えない」・「質問は三回までという規則がある」・「議長が何もしない」・「議長職をたらい回しにする」。
 これは、議論をしようとする姿勢ではない。
 現状の議会は不正な状態なのである。不正は改善しなくてはならない。このような不正な議会に適応してはならない。 

 不正な議会には適応するべきではない。
 
 適応しなかった例を見てみよう。
 元阿久根市長・竹原信一氏である。
 竹原信一氏は言う。 
皆さんは全議員が集まって、議会としての阿久根の施政方針などを議論しているとお思いでしょう。しかし、そのような話し合いをした事は、いままでただの一度もありません。市長が召集した時にだけ来て、議案にケチをつけて賛成、反対の多数決をするだけです。年間30回ぐらいの仕事で415万円も貰っています。アルバイト程度の仕事振りです。本来ならば、議会も市長もそれぞれがまっすぐ市民の方を向いて、あるべき阿久根を議論すべき所です。……〔略〕……
   ● 竹原信一の市政報告 1

 竹原信一氏は、現状の議会を「議案にケチをつけて賛成、反対の多数決をするだけ」と批判する。「本来なら……あるべき阿久根を議論する所です」と批判する。
 竹原信一氏は議会に全く適応しなかった。逆に、不正な議会を変えようとした。
 その結果、竹原信一氏は不信任案を二度可決され、失職させられたのである。 
 不正な議会に適応するより、不信任案を可決される方がよいのだ。
 
 不正な議会から不信任を突きつけられるのは、望ましい状態である。それは、自分が正しい道を進んでいる証拠である。
 竹原信一氏は、不正な議会に全く適応しなかった。  
 適応力ではなく、不適応力こそ必要なのである。(笑)
 
 多くの議員は、「議案にケチをつけて賛成、反対の多数決をするだけ」という現状に疑問を感じなかった。疑問を感じずに適応してきた。
 しかし、竹原氏は疑問を感じたのである。不適応を起こしたのである。改善を目指したのである。このような不適応力こそ必要なのである。
 「多数決をするだけ」という現状を変えなくてはならない。議会を「あるべき阿久根を議論する所」に変えなくてはならない。

 多くの自治体において、現状はさほど変わらないであろう。既に述べたように議会は〈議論をする場所〉になっていないのである。
 「質問にきちんと答えない」・「質問は三回までという規則がある」・「議長が何もしない」・「議長職をたらい回しにする」。
 あきれた現状なのである。
 このような現状に適応してはならない。気を確かに持たなくてはならない。
 議会は〈議論をする場所〉なのである。
 
               諸野脇@ネット哲学者
 

2009年05月30日

議長「たらい回し」スキャンダル

 議長は「無能」でも務まる。
 この事実を端的に表す事態が発覚した。
 世田谷区議会が議長職を「たらい回し」にしていたのである。このスキャンダルはテレビ番組「スーパーモーニング」で大きく報道された。(注1) 

 おととい(5月20日)東京・世田谷区議会で議長選挙が行われた。これまでの大場議長が、任期途中で「一身上の都合で」辞任したためだったが、これがとんでもないことになった。

 まだ議長が辞任していない段階で、次の議長の名前と議長公印が押された文書が議場に配布されていたのだった。一部議員が、「不正だ」として追及したため投票は無効となり、きのう再投票になった。選挙の結果は2度とも、まさしく文書の名前の人が選ばれたのだが、これっていったい何なの?

 ……〔略〕……
 
 同会派の山口幹事長は、「たらい回しというのは理解できない」ととぼけてみせたが、議長を辞任した当の大場やすのぶ議員は「2年で替わるというのは慣例か?」との問いに、「そう、私に限らず、ハイ」とあっさりと認めた。

 さらに、「たらい回しがいいかは別にして、事実としては1年ごとに辞表を出して代わってきた。もし議長を辞めなかったら、自民党の会派から出されますよね」とまことに正直。

 事実世田谷区では、初代から56代まで62年間、議長は「一身上の都合」で任期途中で辞任している。……〔略〕……
   ● 「スーパーモーニング」 金と名誉の「共有」堕落か美談か 地方議会の議長「たらい回し」


 62年にわたる堂々たる「たらい回し」の伝統である。(苦笑)
 彼らにとっては〈議長は誰でも出来る〉ものなのである。だから、「1年ごとに」議長職を「たらい回し」にしていたのである。
 議員達は、これをスキャンダルと思っていないのであろう。議会の常識だと思っているのであろう。
 それでは、彼らは、なぜ「たらい回し」にしていたのか。「スーパーモーニング」のコメンテーター達は次のように語っている。 
 山口一臣は、「議長だと選挙で有利でしょうし、歳をとってからもらえる勲章もワンランク上がるかもしれない」

 大谷昭宏が、「何とかの会ってのがあるでしょう。あれに呼ばれるのが、地方なんかでは名誉なんですよ」(あっはっはと赤江珠緒の声)

 小木逸平が、「じゃあ500万円だけじゃなくて、名誉もみんなで分かち合おうということですか」
 〔同上〕

 
 金と名誉を分けあっていたのである。
 議長職には、500万円の手当が付く。また、名誉も付いてくる。そのようなうまみがあるものを独り占めするのは「不公平」である。「福利厚生」の一環として、みんなで分けあっていたのである。(苦笑)

 しかし、市民から見れば、これはスキャンダルである。議員達は、市民の普通の感覚から大きくズレている。
 市民は〈議会は議論をする場所である〉と思っている。
 議論を成立させるためには、高い能力が必要である。本来、議長には高い能力が必要なのである。それは、誰にでも出来るものではない。(注2)
 例えば、テレビ番組の司会者を想像してもらいたい。例えば、みのもんた氏である。 

 みのもんた氏が高給取りだからといって、司会の仕事をアシスタントと「たらい回し」にする訳にはいかない。
 
 みのもんた氏は、みのもんた氏の司会能力ゆえに高給を取っているのである。みのもんた氏ではなくアシスタントが司会をしたら、視聴率が落ちてしまうだろう。司会の仕事を「たらい回し」することは不可能なのである。誰にでも出来る仕事ではないのである。
 本来、議長もこれと同じである。議論を成立させるためには、高い能力が必要なのである。「たらい回し」できる仕事ではないのである。 
 本来、議長は「たらい回し」できるような仕事ではない。
 
 それにもかかわらず、世田谷区は議長を「たらい回し」にしてきた。世田谷区では、議長には特別な能力は必要なかったのである。議長に専門的な高い能力が必要なかったのである。それは、〈議会が議論をする場所ではなかった〉からである。
 議会が議論する場でなければ、議長職がただの「うまみ」に見えても仕方ないだろう。(苦笑) 何もせずに、高い給与と名誉が手にはいるのである。
 注目するべき事実がある。 
 世田谷だけかと思って23区に聞いたところ、20の区から回答があって、全部が1年ないし2年で交代している。
 〔同上〕
 
 23区のうち、少なくとも20区が「たらい回し」をしているのである。(残りの3区も回答が無かっただけある。その3区も、とても怪しい。笑)
 回答を寄せた自治体は全て「たらい回し」をおこなっていたのである。
 前回の文章の最後に私は次のように書いた。 
 もちろん、これは阿久根市だけの傾向ではない。全国的に、ほとんどの議長が「無能」なのである。それは、ほとんどの議会が議論をする場所ではないからである。(苦笑)
 次回の文章でその証拠を示す。
   ● なぜ、議長は「無能」なのか

 この事実が「証拠」である。
 調査結果が判明した全ての自治体で議長が「たらい回し」にされていた。つまり、議長は「無能」だったのである。特別な能力が必要とされていなかったのである。
 全国全ての自治体を調べても、この傾向は変わらないであろう。
 
 議長の「たらい回し」はスキャンダルである。しかし、それはもっと大きなスキャンダルの表れに過ぎない。
 それは〈ほとんどの議会が議論をする場所になっていない〉というスキャンダルなのである。
 
              諸野脇@ネット哲学者
 
 
(注1)

 この事実は、戸田ひさよし氏の次の文章で知った。

   ● 門真市も他人事じゃない! 議長「たらい回し」、世田谷区で不正発覚し大問題に!
 
 お礼申し上げる。
 

(注2)

 議長には高い能力が必要である。議論を成立させるためには、高い能力が必要なのである。
 例えば、質問にまともに答えない議員には次のように指導しなくてはならない。 

  牟田学君は〈竹原信一市長のブログのどこが公職選挙法の何条に違反しているのか〉を質問したのです。質問にきちんと答えなさい。
   ● なぜ、議長は「無能」なのか

 議論を理解し、議論に介入し、議論を整理する能力が必要なのである。
 このような能力は、議員全員が持っているものではない。
 特別な能力なのである。

2009年05月29日

なぜ、議長は「無能」なのか

 阿久根市議会は議会の態をなしていない。まともに議論が成立していないのである。
 議論を成立させるのは議長の仕事である。阿久根市議会の浜之上大成議長は「無能」である。 

 なぜ、浜之上議長は「無能」なのか。
 
 以下、この論点を論じる。
 竹原信一市長はまともな議論なしで失職させられた。まともな質疑なしで失職させられた。これについては既に詳しく述べた。
 
   ● インターネット議会中継で分かった議員の異常な言動 ―― 竹原信一市長不信任決議可決の不当な手続き
   ● 議会は議論をする場所ではないらしい(苦笑)  ―― 奇妙な規則「質問は三回まで」   
 
 議論を成立させるのは議長の仕事である。
 浜之上大成議長は、質問にまともに答えない木下孝行議員を指導するべきであった。
 例えば、次のように言えばよかったのである。 
 牟田学君は〈竹原信一市長のブログのどこが公職選挙法の何条に違反しているのか〉を質問したのです。質問にきちんと答えなさい。
 
 しかし、議長は何もしなかった。
 なぜ、議長は、議長としての仕事をしないのか。
 なぜ、議長は「無能」なのか。  
 議会が議論をする場所ではないからである。
 
 もともと多数派は、竹原信一市長不信任決議案に賛成することを決めているのである。議論によって、その結論は変わらないのである。だから、議論など必要ないのである。
 このような状態では、議長がきちんと仕事しなくても、それで済んでしまう。また、このような状態では、議長としての能力が無い人間が議長になっても「問題」はない。だから、議長は「無能」なのである。
 議論する必要がないから、議長は「無能」なのである。
 
 議長は「無能」でも務まる。いや、「有能」であっては困るのである。多数派の議員は、〈議論などせずに、強引に決めてしまおう〉としているのである。「有能」な議長に議論などさせられたら、却って面倒なのである。
 議長は「無能」である。それは、議会が議論をする場所ではないからである。
 
 もちろん、これは阿久根市だけの傾向ではない。全国的に、ほとんどの議長が「無能」なのである。それは、ほとんどの議会が議論をする場所ではないからである。(苦笑)
 次回の文章でその証拠を示す。
 
              諸野脇@ネット哲学者

2009年05月23日

議会は議論をする場所ではないらしい(苦笑)  ―― 奇妙な規則「質問は三回まで」

 竹原信一市長不信任決議案を提案した木下孝行議員は、ほとんどの質問にまともに答えなかった。質問と全く関係ない内容を話し始めるのである。
 次の文章で実例を示した。
 
   ● インターネット議会中継で分かった議員の異常な言動 ―― 竹原信一市長不信任決議可決の不当な手続き
 
 どうして、木下孝行議員は質問にまともに答えないのか。
 二つの可能性がある。 

 1 木下孝行議員はバカである。
 2 木下孝行議員は腹黒い。
 
 木下孝行議員は、質問を理解し答える能力がないのか。つまり、バカなのか。
 それとも、はぐらかしごまかそうとしているのか。つまり、腹黒いのか。
 この疑問を解く鍵は、阿久根市議会の規則にある。 
 質問は三回までしか出来ない。

 「質問は三回まで」と定められている。それならば、関係ないことを話し、回数を稼げばいい。「三回」関係ない内容を話せば、質問は終わる。
 現に、牛之浜由美議員は、質疑の途中で次のように嘆いている。 
 どうも私がお尋ねしていることとは違う答えが返ってきているようなんですけど。もう三回目ですね。(注1)

 牛之浜由美議員は全く質問に答えてもらえなかった。木下孝行議員からは「違う答えが返ってき」ただけであった。それで、「三回」の質問機会が終わってしまったのである。
 常識的に考えて、木下孝行議員は腹黒い可能性が非常に高い。意図せずに、ほとんどの質問に対して関係ない話をするのは難しいからである。(苦笑)
 なぜ、木下孝行氏は、なぜこのような「姑息な手段」を使うのか。また、なぜ、阿久根市議会では、このような「姑息な手段」が通用するのか。(注2) 
 議会が議論をする場ではないからである。
 
 多数派議員は、既に不信任案に賛成することを決めているのである。議会での議論と関係なく決めているのである。
 だから、木下孝行議員がどんな質疑をしようと関係ない。不信任案に賛成するだけである。
 このような状態だから、木下孝行議員の「姑息な手段」が通用するのである。質問にまともに答えなくても大丈夫なのである。質問に答える必要がないのである。
 
 議会の理想状態を想定してみよう。〈議会は議論をする場である〉と想定してみよう。
 そのような議会ならば、議論によって賛成者の数が変わってくる。木下孝行議員がきちんと質問に答えれば、賛成者が増える。そうでなければ、賛成者が減る。もし、このような状態ならば、木下孝行議員はきちんと質問に答えたであろう。「資料」くらい持ってきただろう。(苦笑)
 
 木下孝行議員は「姑息な手段」を使ったことに問題を感じていないのであろう。
 しかし、木下孝行議員は次の事実に気づくべきである。木下孝行議員の行為は、みんなに見られている。インターネットによる議会中継によって、日本中の人に見られている。

   ● 竹原信一市長不信任決議
  
 日本中の人に見られているのである。牛之浜由美議員の質問にまともに答えなかったことも、牟田学議員の質問にまともに答えなかったことも。
 阿久根市議会は公開されている。だから、長期的には、このような「姑息な手段」は通用しない。「姑息な手段」を使う議員には、市民からの罰がくだるであろう。

 もちろん、市民は〈議会は議論をする場である〉と思っている。だから、議論せずに「姑息な手段」を使うのはスキャンダルである。恥ずかしい行為である。
 木下孝行議員はスキャンダルを見られたのである。この事実に気がつくべきである。
 インターネットによる議会中継によって、議会のスキャンダルが暴かれた。議会の現状があらわになったのである。
 
               諸野脇@ネット哲学者
 
 
(注1)

 次の動画の23分55秒を見ていただきたい。
 
   ● 竹原信一市長不信任決議
  
 牛ノ浜由美議員が「もう三回目ですね。」と嘆いている。
 ちなみに、牛ノ浜由美議員の質問は14分13秒から始まっている。
 ここから見ると、木下孝行議員がきちんと答えていないことが分かる。


(注2)
 
 木下孝行議員の名誉のために付記する。
 木下孝行議員がバカである可能性はゼロではない。
 道徳的には、腹黒いより、バカの方がいい。ウソつきより、能力が低い方がいいのである。
 意図せずに間違ってしまっただけである可能性もゼロではない。
 だから、「姑息な手段」とカッコを付けた。

2009年05月16日

インターネット議会中継で分かった議員の異常な言動  ―― 竹原信一市長不信任決議可決の不当な手続き

 竹原信一市長に対する二度目の不信任案が可決された。これによって、竹原信一市長は失職させられた。
 私は、この不信任決議可決の様子をインターネットによる議会中継で見ていた。
 阿久根市議会は異常であった。不当な手続きで不信任決議を可決してしまったのである。
 不信任決議案の提案者である木下孝行議員が質問にまともに答えないのである。例えば、木下孝行議員は提案理由の一つとして「国の法律に矛盾する独裁主義」と述べた。それに対して、牟田学議員が次のような質問をした。 

 〔竹原市長のブログの〕 どの部分がどの法律に矛盾しているのかお答え下さい。
 
 これに対して、木下孝行議員は次のように話し出した。 
 えーと、阿久根市は三割自治の町でございます。……

 〈財源を確保するためには国との関係が大切である〉という趣旨を話したのである。これでは全く質問に答えていない。
 当然、牟田学議員は、再度、どこがどう違法なのかを問いつめた。すると、木下孝行議員はとんでもないこと言ったのである。 
 資料を持っていないので……
 
 これには、さすがに傍聴席から失笑が起こった。「バカにすんな。」という怒りの声も聞こえた。
 結局、木下孝行議員は根拠を示せなかった。「資料」すら持ってきていなかったのである。これは、市長を失職させるという重大な提案をおこなう者の態度ではない。異常である。(注1)
 残念ながら、牟田学議員はここで追及を止めてしまった。しかし、さらに追及するべきであった。
 次のように言えばよかったのである。 
 それでは資料を持ってきてください。いつまででもお待ちします。木下議員は、〈竹原市長が現行法に違反した〉と批判した訳です。木下議員には、その根拠を示す義務があります。違反したのか。違反していないのか。それが分からなければ、木下議員が提案されている市長不信任決議案が正当かどうか判断が出来ません。
 
 ここは、木下孝行議員が資料を持ってくるまで待つしかないのである。根拠を示すまで待つしかないのである。根拠が示されるまでは、不信任決議案への賛否は決められない。
 しかし、木下孝行議員は「資料を持っていないので……」で済まそうとしている。これは異常な事態である。
 また、本来、このような異常事態の解決は議長の責任である。議長は、このような事態を許すべきではない。
 市長不信任決議案の主要な主張について、提案者が根拠を示していないのである。議長が根拠を示すように命ずるべきである。
 しかし、阿久根市議会は根拠が示されないまま質疑を終えてしまった。そして、根拠が示されないまま不信任決議を可決してしまったのである。 
 竹原信一市長は、根拠を示されないまま失職させられたのである。
 
 このような手続きは不当である。阿久根市議会は、不当な手続きで不信任決議という重大な議案を可決したのである。不当な手続きで市長を失職させたのである。これは異常である。
 この異常さは裁判と比較すると分かり易い。死刑を求刑する検察官が根拠を問われて「資料を持っていないので」と言うか。そんな求刑で死刑が認められるか。認められる訳がない。
 
 阿久根市議会は歴史を作ったのである。議会が首長を失職させるのは、ほとんど前例が無い事態である。(この十年で二度目だそうである。)
 阿久根市議会は、その重い意思決定を実に軽くおこなった。不当な手続きでおこなった。これは歴史上の汚点である。
 阿久根市議会は恥を知るべきである。

 インターネットの議会中継のおかげで、誰でも阿久根市議会の様子を見ることが出来る。現在、上のやり取りは次の動画で公開されている。(注2)(注3)
 
   ● 竹原信一市長不信任決議 
 
 この動画によって、誰でも歴史的な不信任決議可決を検討できる。
 少数の人間を「ごまかす」ことは出来る。しかし、多くの人間を「ごまかす」ことは出来ない。日本中の人間を「ごまかす」ことは出来ない。
 インターネット上に公開することによって、議会は多くの人間の検討にさらされる。これは誠に画期的なことである。
 
               諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 木下孝行議員は不勉強である。
 私の文章を読んでいれば、総務省の主張くらい分かるはずである。
 
   ● インターネット選挙は公職選挙法違反か --「馬」は「自動車」か 
 
 竹原信一氏も、ブログ更新が違法でない根拠としてこの文章を挙げている。
 読んでいて当然の文章なのである。
 
 
(注2)

 次の部分を見ていただきたい。
 木下議員が牟田議員の質問にまともに答えていないことが確認できる。

  25分43秒~ 木下議員 「えーと、阿久根市は三割自治の町でございます。……」
  30分50秒~ 木下議員 「資料を持っていないので……。」
  
 この部分を見れば、阿久根市議会の現状がよく分かる。


(注3)

 この動画は、審議の一部分である。
 全ての審議は次のページから見ることが出来る。
 
   ● 平成21年第2回阿久根市議会臨時会 中継記録  
  
 「竹原信一市長不信任決議」の動画ファイルをクリックすれば見ることが出来る。
 

2009年04月18日

祝・竹原信一市長失職! --阿久根市民は「覚醒」するか

 不信任決議案が可決され、予定通り竹原信一市長が失職した。
 これは竹原信一氏の予定でもあった。
 そして、竹原信一氏は出直し市長選挙に出馬する。
 
   ● インターネット上で「問題」を起こすという広報活動 --竹原信一市長失職を考えるための論理
   
 竹原信一市長が「問題」を起こすたびに有権者に情報が伝わってきた。
 マスコミに取り上げられてきた。例えば、次のような文章である。
 
   ● ブログ市長の「切ない」思い
 
 
 今度の出直し市長選挙でも、情報が有権者に伝わるであろう。これは有権者への広報活動なのである。
 かつて、竹原信一市長は次のように言った。

 実は、議員定数削減案が今の市議会で成立できるとは考えていなかった。私は議会の本当の姿を市民に知ってもらう道具として提案した。

私が議員の時に提案した浄化槽管理費削減の決議案にまで反対した市議会である。今回は定数削減に反対、浄化槽管理費削減の規則改正にも反対、市民に駐車場を確保する事にも反対、手数料値下げ案にまで反対してくれた。
予想をはるかに超える反応をしてくれている。

 議員たちが自らの値打ちをとことん下げて市民に覚醒の機会を与えている。私は阿久根市議会議員達に感謝している。この市議会でなければ阿久根市民を変えることはできない。
   ● 2008/10/31 (金) 阿久根を変えるということ


 今回も、竹原信一氏は阿久根市議会に「感謝」しているであろう。(笑)
 阿久根市議会が、また「本当の姿」を現してくれたのである。
 阿久根市議会は、議員定数削減・市職員の給与の削減を主張する竹原信一市長を失職に追い込んだ。
 これによって、出直し市長選がおこなわれる。出直し市長選は、マスコミに注目されるであろう。だから、竹原信一氏の主張も、対立候補の主張も有権者に伝わるであろう。(注)
 阿久根市議会は、阿久根市民に「覚醒」の機会を与えてくれたのである。阿久根市の現状について深く考える機会を与えてくれたのである。
 ありがたいことである。(笑)
 
               諸野脇@ネット哲学者


(注)

 竹原信一氏の目標は市民の「覚醒」である。
 だから、竹原信一氏にとっては、出直し市長選挙での勝敗はどうでもいいことである。「覚醒」した市民が対立候補を選ぶならば、それはそれでいいのである。
 

2009年04月17日

インターネットによる動画配信が議会を変える --竹原信一市長失職の様子がリアルタイムで確認できる!

 現在、阿久根市議会の様子が生中継されている。(注)
 
   ● 市議会中継  
  
 この中継により竹原信一市長の不信任案可決の様子をリアルタイムで見ることが出来る。どのような不当(または正当)な手続きで不信任案が可決されるかを確認することが出来る。
 また、「市議会中継記録」として過去の議会の様子も動画で見ることが出来る。議会の様子が動画配信されている。
 これは素晴らしいことである。
 
   ● 議会の〈情報公開〉こそ「変革」の中心   
 
 議会で何がおこなわれているかを知らなければ、有権者は議会を「変革」する必要性を感じない。
 〈情報公開〉こそ「変革」の中心なのである。
 
 多くの自治体が議会中継に取り組んでいる。グーグルで「議会中継」を検索するとたくさんのページがヒットする。

   http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGLD_jaJP311JP311&q=%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E4%B8%AD%E7%B6%99&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
 
 この〈情報公開〉が議会を変えていく。有権者が見ているところで、いいかげんなことは出来ないからである。アクビをする議員、マンガを読む議員は確実に減っているだろう。(苦笑)
 インターネットによる〈情報公開〉が世界を変えるのである。
 
                諸野脇@ネット哲学者


(注)

 この情報は、そうるふれんど氏のブログで知った。
  
   ● 臨時議会を傍聴しよう!!  
  
 お礼申し上げる。

インターネット上で「問題」を起こすという広報活動 --竹原信一市長失職を考えるための論理

 竹原信一市長の失職が予想されている。本日、十時からの市議会で失職が決まるであろう。

 ブログを使った議会批判などで議会と対立し、不信任を受けた鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が議会を解散したことに伴う出直し市議選(定数16)が22日、投開票され、市長失職を目指す反市長派が過半数を確保した。
これにより、改選後の市議会で2度目の不信任案が可決されて市長が失職する公算が大きくなった。失職すると5月中にも出直し市長選が行われる。
  http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090322-OYT1T00958.htm?from=nwlb

 しかし、心配には及ばない。
 市議会選挙前に、既に竹原信一市長は言っている。 
今回は誰が議員としての仕事が出来るかというよりも、市民がどれだけ悪くないのを選べるかという選挙だ。これで粗大品は整理される。
私は議会を掃除する為に解散をさせた。次に私が片付けられる。
  ● 2009/03/13 (金) お掃除選挙
 
 「次に私が片付けられる」とある。
 既に、自分の失職は織り込み済なのである。
 そして、再度、竹原信一氏は市長選に立候補するのである。(これも予告済である。)
 
 一見、これは無駄なように思える。しかし、無駄ではない。
 その過程で、有権者に情報が伝わるのである。もめればもめるほど、有権者に情報が伝わっていく。
 竹原信一市長は失職した方がいいのだ。
 
 失職した方が有権者に情報が伝わる。
 竹原信一氏がインターネット上で「問題」を起こす度に、有権者に情報が伝わっていく。
 「問題」をマスコミが取り上げるからである。
 この構造が興味深い。

                 諸野脇@ネット哲学者

2009年04月16日

国策捜査 --小沢一郎議員秘書の逮捕を考えるための論理

 小沢一郎議員の秘書が「政治資金規正法違反」の容疑で逮捕された。
 この逮捕は〈「国策捜査」ではないか〉と疑われている。逮捕が衆議院選挙の前の時期だったからである。〈民主党にダメージを与えるための捜査ではないか〉と疑われているのである。
 この問題をどう考えればいいのか。
 元東京地検特捜部長・宗像紀夫氏は言う。 

 ……〔略〕……検察の伝統的な考え方では、政治資金規制法違反というのは、例えば多額のウラ金を収得していたようなケースでない限り、事件の最終目的とはなりえないからです。第2、第3の、贈収賄や脱税などのより悪質、重大な犯罪の摘発が後に控えているときにのみ、政治資金規制法違反による強制捜査といった例外的な捜査手法が許されるのです。だから、「この時期にこんな事件で政治家の秘書を逮捕するのはおかしい」と言われたら、「最後まで見ていて下さい」と言えばいいのです。つまり、きちんとした捜査の結果を出すことがいちばん説明責任を果たすことになるのです。だからもし、仮に今回の事件が政治資金規制法違反だけで終わるようなことになるとすれば、あまりにも強引な捜査だったということになるでしょう。
  〔『朝日新聞』2009.4.1.〕
  
 宗像紀夫氏は特捜部長だった人である。だから、検察の「伝統的な考え方」はよく知っているはずである。
 検察では、「政治資金規制法違反」は「事件の最終目的」にはならない。逮捕というような「強引な捜査」が許されるのは、「贈収賄」などのより悪質な「犯罪の摘発」の場合である。
 さらに、宗像紀夫氏は次のような例を挙げる。 
 ……〔略〕……ちなみに、リクルート事件の時も、3人の自民党有力政治家の秘書や政治団体の会計責任者を政治資金規制法違反(虚偽記載、量的制限違反)で摘発しました。金額は数千万~数億円でしたが、いずれも在宅で調べて、略式起訴でした。
  〔同上〕
 
 億の単位でも、「在宅」捜査だったのである。
 政治家の秘書を逮捕したら、「結果」を出さなくてはならない。「結果」とは「贈収賄」などのより悪質な「犯罪の摘発」である。 
 検察が「贈収賄」を摘発できるか。
 
 これが「国策捜査」かどうかの判断の基準である。検察は「贈収賄」などの悪質な「犯罪の摘発」ができるか。「結果」を出せるか。
 「結果」を出せなかったら、「国策捜査」ではないかと疑われても仕方ない。
 
 読者の皆さんの頭の中には、当然、次の文章との比較が生じたはずである。
 
   ● 敵味方刑法 --戸田ひさよし議員失職を考えるための論理
  
 戸田ひさよし議員は「政治資金規制法違反」で逮捕された。
 しかも、総額450万円の事案である。
 このような事案で、議員本人を逮捕するのは著しく「検察の伝統的な考え方」に反する。リクルート事件では、億の事案でも逮捕はされなかったのである。秘書すら逮捕されなかったのである。
 しかも、戸田ひさよし氏の場合、検察が「結果」として考える「贈収賄」などのより悪質な「犯罪の摘発」も無かったのである。「結果」を出していないのである。 
 戸田ひさよし氏は権力の「敵」だから厳しい扱いを受けたのではないか。
 
 「結果」を出していないのだから、このように「敵味方刑法」が疑われるのも当然である。
 小沢一郎氏の秘書の逮捕も「敵味方刑法」が疑われる事案である。権力の「敵」だから厳しい扱いを受ているのではなかと疑われているのである。
 
 「国策捜査」・「敵味方刑法」の特徴は、〈ダブルスタンダード〉である。相手によって、基準を変えるのである。
 「敵」だから厳しくする。「国策」だから厳しくする。
 〈ダブルスタンダード〉である。
 
 だから、〈「国策捜査」ではないか〉という疑いを否定するのは簡単である。〈ダブルスタンダード〉ではないことを示せばいい。検察が「結果」を出せばいい。「贈収賄」などの「犯罪の摘発」をおこなえばいいのである。
 検察は、「贈収賄」をおこなった者は誰でも逮捕する。(これは検察の「伝統的な考え方」である。)これならば、〈ダブルスタンダード〉ではない。 
  その捜査が〈ダブルスタンダード〉でないかを検討しよう。
  
 「国策捜査」・「敵味方刑法」、どちらも〈ダブルスタンダード〉を主要な特徴とする行為だからである。
 
                  諸野脇@ネット哲学者
 

2009年04月15日

敵味方刑法 --戸田ひさよし議員失職を考えるための論理

 2005年12月8日、戸田ひさよし・門真市議は大阪府警に逮捕された。
 そして、接見禁止のまま三ヶ月間拘留されたのである。
 議員本人が逮捕されて、そのまま三ヶ月間拘留されるとは、大変な事態である。
 この事態からどのような容疑が想像されるか。 

 門真市に総工費200億円でダムを造ることになった。
 戸田議員は、○○建設から一億円の賄賂をもらい、○○建設が有利になるように働きかけていた。
 そして、○○建設が門真ダム工事を受注した。

 議員を三ヶ月間拘留するには、それなりの犯罪容疑が必要である。
 例えば、このような大規模な汚職である。
 しかし、門真市にダムを造るという話は聞かない。
 それでは、現実には戸田ひさよし議員はどのような容疑で三ヶ月間拘留されたのか。次のような「政治資金規正法違反」の容疑でである。
 1、全日本建設運輸連帯労組関西生コン支部(連帯ユニオン関生=かんなま=支部)の有志から90万円のカンパを受け取ったこと

 2、同労組近畿本部委員長として、同労組から報酬として毎月20万円を3年分、計720万円を受け取ったうち毎月10万円分、計360万円を政治献金として受け取っていたこと
  http://www.news.janjan.jp/government/0903/0903159406/1.php


 は?
 90万?
 毎月10万? 
 この程度の容疑で、どうして三ヵ月も拘留する必要があったのか。
 「政治資金規正法違反」の容疑ならば、通常、任意の取り調べで済むはずである。一度書類を押収してしまえば、証拠隠滅の恐れもない。
 大阪府警の行動は異常である。
 そして、判決も異常であった。 
 06年8月、大阪地裁で罰金110万円、追徴金計450万円、公民権停止2年の有罪判決を受けました。控訴審の大阪高裁は公判を1回開いたきりで、翌07年4月に地裁判決を基本的に踏襲する判決を出しました。
  〔同上
 
 最高裁は、控訴棄却によってこの判決を確定させた。
 問題は、「公民権停止」という罰をくだしたことである。
 議員にとって、「公民権停止」は「死刑判決」である。議員としての資格を失わせる判決である。
 これは、通常、罰金刑で済ませる案件である。
 なぜ、こんな小さい案件で「死刑判決」をくだすのか。「政治資金規正法違反」という形式犯で「死刑判決」をくだすのか。 
 このような事例で「死刑判決」をくだすことが前例になれば、大変なことになる。
 同様の事例はたくさんあるのである。 
 さて、容疑事実について検討します。まず、第1の90万円のカンパです。OBを民主党や社民党の地方議員として送り込んでいる労働組合は全国にごまんとあります。組合の現職幹部がカンパ帳を組合員に回してまとめ、それを議員サイドに(個人献金の合計として)渡しているわけです。それが違法として立件されたという事例は聞きません。戸田さんだけが狙い撃ちにされたわけです。

 第2の、戸田さんに対する組合役員としての報酬についてはどうか? 検察側は「近畿地方本部委員長としての報酬は10万円で十分。月20万円ももらっていたうちの10万円分は政治献金だ」と決め付けました。しかし、本来、報酬は組合内部で決める話です。組合幹部として20万円が高すぎる報酬とも思えません。

 会社員や会社経営者と兼務している市議など他にもたくさんいます。これらの人たちも、それぞれが属している企業から献金を受け取っていることになるのでしょうか。検察の平衡感覚はどうなっているのか? 理解に苦しみます。
  〔同上

 
 同じことをしている議員はたくさんいるのである。
 その全員を逮捕しなければならなくなる。(苦笑)
 そうでなければ、平等ではない。
 しかし、警察がどんどん議員を逮捕しているという話は聞かない。 
 戸田ひさよし氏だけが特別に逮捕されたのである。

 この「特別扱い」をどう解釈するべきか。
 戸田ひさよし氏だけが、厳しく扱われているのである。
 戸田ひさよし氏の弁護を担当した永嶋弁護士は次のように言う。 
 敵・味方刑法に向かいつつあるのではないか。
  http://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=2337;id=01#2337
 
 国家の「味方」には甘く、「敵」には厳しくする法律の運用がおこなわれているというのである。「敵」と「味方」で扱いを変えているというのである。
 そのような不公平な扱いがおこなわれているのならば大きな問題である。
 不公平は正さなければならない。
 捜査当局・裁判所は次のうちのどちらかをおこなうべきである。(もちろん、どちらも出来ないであろうが。)
 
 1 戸田ひさよし議員と同様の行為をおこなっている議員を全員「三ヵ月拘留」のうえ「公民権停止」にする。
 2 戸田ひさよし議員を「三ヵ月拘留」し「公民権停止」にした合理的な根拠を示す。例えば、汚職の事実があったことなどを示す。
 
 戸田ひさよし氏が受けた扱いは、「政治資金規制法違反」の「犯人」への扱いではない。
 大規模な汚職事件の犯人への扱いである。または、殺人事件の犯人への扱いである。
 しかし、戸田ひさよし氏は、汚職もしていないし、殺人もしていないのである。
 何かがおかしい。
 これがこの国の現状である。 
 敵味方刑法
 
 この用語を覚えておくべきである。
 
                  諸野脇@ネット哲学者

2009年03月24日

有権者はそんなにバカなのか --公民権停止を考えるための論理

 戸田ひさよし議員が失職した。公民権停止2年間の罰を受けたのである。
 トップ当選を果たした議員が失職するのは前代未聞の事態である。
 重要な事実がある。 
 

戸田ひさよし氏は、有罪判決が出た後の選挙でトップ当選している。
 
 つまり、有権者は、戸田ひさよし氏がどのような罪に問われたかを知っていた。知った上でトップ当選という判断を下したのである。
 言わば、門真市民は戸田ひさよし氏に「無罪判決」を下したのだ。公民権停止を認めなかったのである。
 しかし、この「無罪判決」を否定する形で最高裁の判決が出たのである。
 つまり、次のような形になっている。 
 
有権者の判断より、裁判所の判断が優先されている。
 
 はたして、これでいいのだろうか。
 なぜ、裁判所は有権者の判断を否定できるのか。
 なぜ、公民権停止という罰があるのか。議員になることを禁止する罰があるのか。 
 
議員になる資格があるかどうかは有権者が判断すればいい。
 
 選挙という判断の機会があるのである。悪いことをすれば、有権者が議員の資格が無いと判断する。その候補者を落選させる。それでいいではないか。
 これが民主主義の原理である。
 なぜ、有権者の判断を否定する公民権停止という罰があるのか。
 それは、「有権者がバカだ」と考えているからである。 
  
公民権停止は「有権者はバカだ」という考えを含意する罰である。
  
 〈有権者はバカなので、落選させるべき議員を当選させてしまう〉と考えているのである。だから、有権者が選んだ議員を失職させるのである。また、立候補できないようにするのである。議員になる資格を停止するのである。〈有権者は適切な選択を出来ないので裁判所が助けてやる〉という訳である。
 
門真市民はバカ扱いされたのである。
 
 戸田ひさよし氏に投票した有権者はバカ扱いされたのである。
 怒るべきである。
 
 議員を自分で選ぶのは当然のことである。
 バカな選択をしたとしても、その結果を自分で引き受ければいい。
 民主主義とは〈自分達の責任でバカな選択肢を選ぶことが可能な制度〉なのである。前もって、誰かが選択肢を選んでくれる制度は民主主義ではない。

 確かに、私達はバカかもしれない。
 しかし、私達はバカ扱いされない権利を持っている。
 それが民主主義なのである。

                  諸野脇@ネット哲学者


〔関連リンク〕

 ● 門真市でも「政治資金規正法」悪用し市議逮捕
 ● 戸田ひさよし・連帯ユニオンへの不当弾圧糾弾!
 

2009年03月23日

ブログの活用で阿久根市議会の「お掃除」が進む

 阿久根市議会選挙の結果が出た。
 竹原市長はこの選挙を「お掃除選挙」と名づけていた。
 「お掃除」は出来たのか。「粗大品」はかたづけられたのか。
 私は以前、次のように書いた。

 阿久根市議会の状態を見ていただこう。
 
   ● スーパーモーニング「パック旅行で〝海外視察〟直撃! トンデモ市議会」

 政務調査費で温泉バスツアーに行った築地新公女議員。
 それを容認した京田道弘議長。
 領収証を偽造した的場眞一議員、山下孝男議員。
   http://shonowaki.com/2009/02/post_64.html


 上のビデオを見れば、これらの候補は落選させたくなる。
 特に、取材から逃げ回る築地新公女候補は落選させたくなる。(苦笑)
 結果はどうなったか。
 確認しよう。 
 築地新公女 落選
 的場眞一   落選
 京田道弘   引退
 山下孝男   引退
 
 全員が落選・引退した。
 「お掃除」は確実に進んでいる。
 事実を知れば、落選させたくなるのが当然である。
 今までは、事実が有権者に伝わっていなかったのである。今回の選挙では、事実が有権者に伝わった。伝わったので、有権者が当然の判断をすることが出来た。
 有権者に事実が伝われば、議会は変わるのである。
 この論点は次の文章で論じた。
 お読みいただきたい。
 
   ● 議会の〈情報公開〉こそ「変革」の中心 
 
 事実を伝えるために竹原信一氏のブログは役に立った。
 ブログをてこにして、事実を有権者に伝えることで「お掃除」が進んだのである。

                  諸野脇@ネット哲学者

2009年03月18日

落選運動はインターネット上で自由にしてよい

 竹原信一 阿久根市長は、阿久根市議選の立候補者について言う。 

 その他に○○などは領収書詐欺容疑(領収書偽造を本人も認めた)で送検された状態での立候補、他にも送検されなかっただけで同じ事をした人間も居る。
今回は誰が議員としての仕事が出来るかというよりも、市民がどれだけ悪くないのを選べるかという選挙だ。これで粗大品は整理される。
   ● 2009/03/13 (金) お掃除選挙
  
 確かに「粗大品は整理」した方がいい。
 公費の「領収書偽造」をおこなった前市議は「粗大品」である。
 落選させたい。
 しかし、上の文章では、前市議の名前が「○○」と匿名になっている。だから、この文章を読んでも、誰を落選させたらいいのかが分からない。残念である。 
 ここで、竹原信一市長によいお知らせがある。 
 落選運動は公職選挙法違反ではない。
  
 「○○」氏の実名を公表してもいいである。
 実名を公表したとしても、それは「落選運動」だからである。 
 公職選挙法は「選挙運動」について規定している。しかし、「落選運動」は「選挙運動」ではない。つまり、公職選挙法には「落選運動」についての規定は無い。
 「選挙運動」は〈特定の候補の当選を目的にする運動〉である。「落選運動」は〈当選を目的にする運動〉ではない。〈特定の候補の落選を目的にする運動〉である。公職選挙法の定める「選挙運動」に「落選運動」は含まれないのである。
 
 だから、「粗大品」の実名を挙げても問題はない。
 それでは、私が実名を挙げよう。
 「○○」氏とは的場真一氏である。
 「落選運動」ならば、実名を挙げても何の問題もない。「的場真一候補を落選させよう。」と書いても何の問題はない。
 太田光征氏は言う。 
 12日に、総務省選挙課に問い合わせたところ、公職選挙法には個人による落選運動を禁止する規定はない、ただし2人が立候補していて、結果的に一方の当選に利する行為であれば、選挙運動になることがある、という旨の回答をもらいました。
   ● 落選運動を禁止する規定は公職選挙法にない

 総務省も「落選運動を禁止する規定はない」と認めている。(注1)
 もちろん、総務省が認めようが認めまいが、「選挙運動」の意味は変わらない。「選挙運動」に「落選運動」は含まれない。
 しかし、総務省が認めているならば、心配性の人も安心であろう。(注2)
 
 せっかくの「お掃除選挙」である。
 「粗大品」はたくさんゴミに出した方がいい。
 そのために「落選運動」は有効な手段である。
 
                  諸野脇@ネット哲学者
 
 
(注1)

 もちろん、総務省が法律の解釈を決める訳ではない。
 解釈は、最終的には司法が決めるのである。
 「落選運動」の場合は、次のような判例がある。(上の文章を参照。)

 単に特定候補のみの落選〔を〕はかる行為は選挙運動とはいえない
  (S5.9.23 大審院判決)
 
 これではっきりした。「落選運動」は「選挙運動」ではない。
 しかし、インターネット上の「選挙運動」については、司法において解釈が定まっていない。判例が無いのである。
 〈選挙期間中にブログを更新したら公職選挙法違反である〉というのは総務省の恣意的な解釈に過ぎない。
 詳しくは、次の文章をお読みいただきたい。
 
   ● インターネット上での選挙活動は禁止されていない
   
 
 〈公職選挙法でブログ更新は禁止されていない〉と解釈する方がずっと自然なのである。
 
 
(注2)
 
 「お上」に「問い合わせ」をする行為には悪い影響がある。
 次の文章で論じた。
 
   ● 「お上」に「お伺い」を立てる愚 
   ● 〈問い合わせ〉行為自体が相手の行動を変えてしまう


 しかし、「問い合わせ」には別の影響もある。太田光征氏は、総務省から「落選運動を禁止する規定はない」との見解を引き出した。
 これは有効である。「お上」の「お墨付き」があれば、心配性の人でも安心できるのである。
 

2009年02月07日

祝・竹原信一市長 不信任案可決! --選挙は総合的判断の場である

 竹原信一阿久根市長への不信任案が可決された。(注1) 

  ◆出席全議員が賛成、「全国に阿久根の恥さらした」◆

 ブログ(日記形式のホームページ)を使った選挙運動などで物議を醸している鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(49)に対する不信任案が、6日開かれた臨時市議会に議員提案された。

 出席した15議員全員が賛成し、可決した。地方自治法に基づき、市長は10日以内に市議会(定数16、欠員1)を解散しなければ失職するが、市長は議会解散を選択する意向で、3月にも出直し市議選が行われる。
  http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090206-OYT1T00808.htm?from=nwlb

  
 木下孝行議員は、竹原信一氏を「全国に阿久根市の恥をさらした」と評した。
 これは、正に正確な表現である。
 阿久根市議会には大きな「恥」があり、それを竹原信一氏が明るみに出していたのである。(笑)
 阿久根市議会の状態を見ていただこう。(注2)
 
    ● スーパーモーニング「パック旅行で〝海外視察〟直撃! トンデモ市議会」

 政務調査費で温泉バスツアーに行った築地新公女議員。
 それを容認した京田道弘議長。
 領収証を偽造した的場眞一議員、山下孝男議員。
 
 これらの議員の言動は「阿久根市の恥」である。
 竹原信一氏は、その「恥」を追及し続けてきた。「さらし」続けてきた。議長をはじめとする多数派は「恥」を隠蔽しようとしてきた。(注3)

 市議達は、竹原信一氏の「選挙期間中のブログ更新」を刑事告発している。多くの議員が、このような「恥」に関わり、このような「恥」を容認してきたのにも関わらずである。「盗人猛々しい」とはこのことである。
 この告発について私は次のように書いた。 

 ……〔略〕……怪しい人物の怪しい告発であっても、告発は告発として処理されるべきである。
 竹原信一氏のブログ更新は公職選挙法違反なのか。いかに怪しい人物が告発したとしても、違法なら違法である。合法ならば合法である。
 司法の世界は、そのような事実の世界であるべきである。人間的な要素が入らない世界であるべきである。
  ● 祝・竹原信一市長 刑事告発! --ブログ更新が公職選挙法違反か白黒つけよう

 これは司法の世界の話である。
 選挙はそれとは違う。
 選挙では、「怪しい人物の怪しい告発」は割り引いて考えられる。「自分達の選挙を有利にするために竹原市長のイメージダウンを狙っているのだろう。」「竹原市長がいると自分達が好き勝手なことが出来ないので、嫌がらせをしているのだろう。」
 さまざまな人間的な要素が想定される。(注4)
 選挙は総合的な判断が下される場なのである。
 
 選挙の世界と司法の世界は違う。
 阿久根市の有権者の判断が楽しみである。
 
                  諸野脇@ネット哲学者 
 

(注1)

 竹原信一市長は自ら不信任案提出を求めていた。
 議会を解散して、議員を入れ換えるためである。
 これは、ずいぶん前からの竹原信一氏の信念である。 

 唯一の解決策
変えるには市民が自ら立ち上がるしかない。辞職、解散させこの市長、議会を全面的に作り変えなければ転落を止めることは出来ない。議員の過半数が自主的に心を入れ替えることなどありえない。万一、心を入れ替える事があったとしても、そもそも議会の仕事を考える力がない。職員が提案したものを選ばされる事以上の能力が決定的に欠落している。ひどい事に議会では論理的に組み立てた議論ができない。すぐに多数決に逃げ出す。本当に話しにならないのだ。私は、議員になって最初の一般質問で「阿久根市議会は不良債権ではないか」と発言した。私は今、確信している。
  ● 2007/03/18 (日) 議会報告3 問題の根源

 つまり、この不信任案可決は、竹原信一氏は狙い通りの展開なのである。
 しかし、この点の報道がほとんどない。
 残念である。

 
(注2)

 このビデオの存在は、そうるふれんど氏のブログで知った。
 
  http://ossanndream.blog101.fc2.com/blog-entry-267.html
 
 お礼申し上げる。
 

(注3)

 竹原信一氏は情報公開を求めていた。 

 政務調査費の使途について、資料を提出せよと私は要求しましたが、議長及び事務局がまた拒否をいたしました。(「阿久根市議会議事録 平成19年12月7日」 38ページ)

 しかし、議会の多数派はそれを拒否したのである。


(注4)

 竹原信一氏についても、これは同じである。「ただのパーフォーマンスではないか。」「少しいかれているのではないか。」
 さまざまな人間的な要素が想定される。
 その総合的な判断が選挙結果なのである。

2009年02月06日

祝・竹原信一市長 刑事告発! --ブログ更新が公職選挙法違反か白黒つけよう

 オバマ大統領もビックリの事態が現実化した。
 
  ● ブログを更新して刑事告発される? オバマ大統領もびっくりだよ!

 竹原信一市長がブログ更新で刑事告発されたのである。 

 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(49)が昨年8月の市長選期間中にインターネットの日記(ブログ)を更新し続けた問題で、県議や市議ら28人が22日、竹原氏を公職選挙法違反(文書図画の頒布)の疑いで阿久根署に刑事告発した。県警は近く受理する見通し。警察庁によると、これまでブログの更新によって同法違反容疑で逮捕、立件された例はないという。

 竹原氏はこの日、記者会見を開き、「ホームページの更新は文書図画の頒布にあたらず、法律に違反していない。捜査していただいてよろしいのではないですか」と述べた。
   http://www.asahi.com/national/update/0122/SEB200901220022.html

 
 この告発には次のような問題点がある。(注)
 
 1 告発者が当事者ではない。竹原信一氏に負けた対立候補ではない。
 2 告発者がブログ・ホームページを持っていない。具体的な被害を受けていない。
 3 告発者は、「ホームページの更新は文書図画の頒布にあたら」ないという竹原信一氏の主張(私の主張)にまともに反論していない。
 4 選挙が終わってから、五ヵ月近くも経ってからの告発である。しかも、市議会選挙直前の告発である。

 このような告発は怪しい。〈自分達の選挙のための告発ではないか〉と疑われても仕方ない。〈ためにする告発〉と疑われても仕方ない。インターネット上でも次のような意見が公開さている。 

 市長の不信任議決を受けての議会解散を見据えて、市長のイメージダウンを狙っているのでしょうか?
  http://d.hatena.ne.jp/senshin5f/20090123
 
 これが多くの人の実感ではないか。
 全く当事者でない市議が、市議選の前に告発をしたのである。
 誠に怪しい。
 
 しかし、怪しい人物の怪しい告発であっても、告発は告発として処理されるべきである。
 竹原信一氏のブログ更新は公職選挙法違反なのか。いかに怪しい人物が告発したとしても、違法なら違法である。合法ならば合法である。
 司法の世界は、そのような事実の世界であるべきである。人間的な要素が入らない世界であるべきである。
 警察・検察は、このような面倒な案件に関わるのは嫌かもしれない。面倒なのは確かである。うやむやにしたくなるのは人情である。しかし、人間的な要素は一切考慮せずきちんと捜査するべきである。
 竹原信一市長も言っている。
 
  「捜査していただいてよろしいのではないですか」 

 警察庁は言う。
 
  「これまでブログの更新によって同法違反容疑で逮捕、立件された例はない」
 
 逮捕・立件されれば「画期的」である。
 さあ、逮捕・立件しよう。
 今まで、多くの候補者を「違法だ」と言って脅してきたのである。ホームページ・ブログの利用を妨害してきたのである。
 彼らには、逮捕・立件する義務がある。そうでなければ、「違法だ」と言ってきたことが「嘘」になってしまう。彼らには、白黒つける義務がある。
 竹原信一市長もそれを望んでいる。
 
                  諸野脇@ネット哲学者


(注)
 
 詳しくは次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● ブログ・ホームページも作っていない議員に「不公平だ」と言う資格があるのか
  ● 竹原信一市長は、ブログ更新が公職選挙法違反でない理由を既に述べているのだ --刑事告発するなら、その理由を批判しなければならない
  ● そんなふぬけた姿勢ではブログ更新を刑事告発できないぞ!(笑)

2009年01月17日

竹原信一市長は議会制民主主義を否定する独裁者なのか --どのようにメディアは事実を歪めるのか

 asahi.com(朝日新聞)に次のような記事が載った。

 竹原氏はブログに「議会は時間の無駄」と書き込み、議員を名指しで批判。……〔略〕……
  ● 「辞めてもらいたい市議は?」市長がネット投票募る

 これを素直に読むと、竹原信一氏が独裁者のように思える。議会制民主主義を否定しているように思える。〈議会は不要であり、市長が全て決める〉と考えているように思える。
 
 しかし、本当にそうなのか。「議会は時間の無駄」と言ったのか。竹原信一氏は独裁者なのか。
 竹原信一氏のブログを見る。(注1) 
 12月議会が終った。
 どうにもくだらない。私は「議会に対して不信任だ、私に対する不信任決議をして議会解散してもらいたい。」と言ったにもかかわらず、彼らは「不信任決議」を出せなかった。議会改選がある来年の12月までの400万円あまりが欲しいと見える。

 バカバカしいを超えて哀れ、彼等自身が有権者の意向とは関係なく、ひたすら議員を続けたい人たちであることを証明してしまった。

私は議会は時間の無駄という気もするが、議員たちはその本性を衆目に晒す必要が有るのかもしれない。
市民は、まだまだ市議会の現実を何も分かってはいない。

このムダは市民が世の中の仕組みに目覚める為の必要経費と受けとめるしかない。 
  ● 2008/12/23 (火) 時間と経費のムダ

 
 確かに「議会は時間の無駄」という文言がある。
 しかし、これは議会制民主主義の否定ではない。
 竹原信一氏は、現在開かれている阿久根市議会について「時間の無駄」と批判しただけなのである。
 次の二つを区別しなくてはいけない。
 1 議会A……議会制度
 2 議会B……開かれている個々の議会
 
 議会Bを否定したからといって、議会Aを否定することにはならない。
 つまり、竹原信一氏は、議会制民主主義を否定している訳ではない。
  
 確認しよう。
 竹原信一氏は自分に対する「不信任決議」を求めた。「不信任決議」が出た場合、竹原信一氏は「議会の解散」をするつもりだった。市民に信を問うつもりだったのである。しかし、議員達は「不信任決議」を出さなかった。竹原信一氏の提案に全て反対しているにもかかわらずである。
 このような状態で「来年の12月まで」議会を開くことについて、竹原信一氏は「議会は時間の無駄」と言ったのである。
 竹原信一氏は阿久根市議会の現状を批判しただけなのである。
 つまり、竹原信一氏は独裁者ではない。議会制民主主義を否定している訳ではない。
 
 しかし、asahi.com(朝日新聞)の記事を読むと、竹原信一氏が独裁者のように思える。議会制民主主義を否定しているように思える。(注2)
 つまり、asahi.com(朝日新聞)の記事は虚偽であった。
 この批判に対して、先の記事を書いた記者は何と弁解するだろうか。
 次のように弁解するであろう。 
 竹原信一市長が「議会は時間の無駄」と言ったのは事実である。
 
 もちろん、それは事実である。しかし、竹原信一氏が否定したのは議会Bである。現在の阿久根市議会の状態である。それにもかかわらず、asahi.com(朝日新聞)の記事では議会Aを否定しているように読める。議会制民主主義を否定しているように読めるのである。(注3) 
 これは〈文脈無視の虚偽〉なのである。
 
 現在のメディアは、存在しない発言を捏造することはほとんどない。しかし、発言の一部分だけを取り出すことによって、意味を変えてしまうことはある。文脈を無視することによって、虚偽の記事を作ってしまうことはある。
 記者は記事にする事実を選ぶ。その事実の選び方が問題なのである。不適切な選択をすれば、虚偽の記事が出来てしまう。
 現在のメディアは「正確に」発言を引用して虚偽の記事を作る。
 発言の一部分だけを取り出すことで意味を変えてしまう。
 このような〈文脈無視の虚偽〉に注意しよう。(注4)
 
                  諸野脇@ネット哲学者

 
(注1)

 ブログがあったから竹原信一氏の発言を確認できた。
 だから、記事の虚偽を発見できた。
 公人がブログを持つ意義は大きい。
 

(注2)

 asahi.com(朝日新聞)は、記事から竹原信一氏のブログにリンクを張っておくべきであった。
 ジャーナリストは〈自分の解釈が間違っているのではないか〉という恐れを持っているべきである。
 読者が自力で解釈できるようにしておくべきである。
 この論点は次の文章で論じた。
 
  ● リンクを張らないニュースサイトは役に立たない --東方神起「呪文」は「扇情的」か


(注3)

 実は、ある程度誤解が生じないようにするのは簡単であった。
 「(このような)議会は時間の無駄」と書けばよかったのである。「このような」と補えばよかったのである。
 こう書くだけで、「議会」の意味が明確になった。竹原信一氏が言っているのが、阿久根市議会の現状であることが明確になったのである。
 
 
(注4)

 私の解釈も間違っているかもしれない。
 しかし、それは読者が判断すればいい。そのために、asahi.com(朝日新聞)の記事にきちんとリンクを張ってある。
 だが、問題がある。ニュースサイトは記事を削除してしまうのである。
 
  ● ニュースサイトは記事を削除するな

 記事が無くなってしまえば、読者が判断できなくなってしまう。
 仕方がないので、引用しておこう。
 私が〈文脈無視の虚偽〉を犯していないかどうかを読者が判断できるようにしておこう。
 そのために最低限の引用をする。
 つまり、全文である。(笑)

 
〔以下、記事を引用する。ちなみに、この記事で「ある議員」は「このようなネット投票は議会制民主主義の否定だ」と主張している。この主張は意味不明である。なぜ、「議会制民主主義の否定」なのか。理由を述べるべきである。〕

 ● 「辞めてもらいたい市議は?」市長がネット投票募る(2009年1月14日15時0分)

 「最も辞めてもらいたい議員は?」。鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(49)が、自身のインターネット上の日記(ブログ)で「インターネット投票」を呼びかけている。昨夏の市長選で初当選して以来、議員定数削減案や教育委員人事案を市議会に否決され続けてきた竹原氏。「思いつき」で投票を考えたというが、議員からは「議会制民主主義を無視している」との批判が起きている。

 ネット投票は竹原氏の12日付のブログにある。市議会の名簿順に議員15人全員(欠員1)の氏名を挙げ、「阿久根市議会で最も辞めてもらいたい議員は?」と投票を呼びかけている。閲覧者が自由に投票でき、投票期間や投票結果を発表するかどうかは作成者が決める。発表しない場合、投票先の内訳は作成者しか分からない。

 市議から転身した竹原氏は昨年8月の市長選期間中にブログで他候補を批判し、市選管の指導などを受けて記述を削除。無所属新顔3人を破り、初当選した。市長就任後、市議会9月定例会に副市長と教育委員の人事案を提出したが、賛成少数で不同意。教育長も退任し、空席のままだ。公約に掲げた自身の給料の大幅削減案や議員定数を16から6に減らす条例改正案も否決されている。

 竹原氏はブログに「議会は時間の無駄」と書き込み、議員を名指しで批判。昨年11月から市議会の解散や自分自身の支持の是非をめぐり投票を呼びかけており、市議会解散では13日午後10時時点で約540人が投票している。ほかに市長としての活動の報告や家族の話題、式辞の全文掲載などもある。

 竹原氏は取材に対し「どのような場であっても、市長も市議も公職なのだから批判されるのは仕方がないものだ。ネット投票はお金もかからないし、思いつきで作っただけ。違法行為ではなく、投票結果が選挙や議会に影響しない」と主張し、市長の立場ではなく個人として投票を呼びかけているという。

 ある議員は「このようなネット投票は議会制民主主義の否定だ。市長の不信任案を検討する時期に来ているかもしれない」と反発。別の議員は「竹原市長が個人的な考えを述べているだけで別に気にする必要もないのでは……」と冷めた見方をしている。(三輪千尋、周防原孝司)

■市長も議員も対等の立場

 平井一臣・鹿児島大学法文学部教授(政治学)話 正確性のないネット投票は傾向を把握する参考材料にもならない。市長が市民の意見を聴く方法として、ただでさえ慎重さが求められるネット投票という手段を使うことに疑問を感じる。権力者である市長が、同じように公職選挙法による選挙の投票で選ばれた議員の去就を市民に問いかけるのはおかしいからだ。市長も議員も投票で選ばれたという点では対等の立場。こういうやり方をしていては、ますます信頼を損なうことになる。「思いつき」というが、思慮が欠けており、問題は非常に大きい。


2008年12月20日

【緊急速報】オリコン恫喝訴訟(SLAPP)問題がついにテレビ特番に! TBS 21日深夜放送

 オリコン・烏賀陽(うがや)訴訟がテレビで取り上げられる。
  
  報道の魂『ある名誉毀損判決の波紋』~オリコンVSジャーナリスト~
  TBS 12月21日 24時55分~25時25分
  Gコード 8704754

   http://www.tbs.co.jp/houtama/

 ついに、テレビで恫喝訴訟(SLAPP)問題が批判的に検討されるのである。
 ご注目いただきたい。(Gコードは 8704754 である。笑)

 既に、インターネット上ではオリコンの訴訟について多くの批判の声が上がっている。
 例えば、ヤフーで「オリコン訴訟 批判」を検索すると次のようになる。
 
  http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E3%80%80%E6%89%B9%E5%88%A4&search.x=1&fr=top_ga1&tid=top_ga1&ei=UTF-8
  
 批判の声が多く上がっていることが分かる。(私が批判の声をたくさん上げていることも分かる。笑)
 しかし、インターネット以外のメディアは、ほとんど批判の声を上げていない。沈黙したままである。
 これは不当である。SLAPPは重大な問題である。マスメディアに大きな影響を与える問題である。
 この番組がマスメディアの不当な沈黙を打破する第一歩になることを望む。
 
                  諸野脇@ネット哲学者

 
〔以下、この番組の紹介文を載せる〕

報道の魂『ある名誉毀損判決の波紋』~オリコンVSジャーナリスト~
(2008年12月21日 放送)

言論には言論で応じる時代は終わったのか?

ジャーナリストの記事やコメントに対して、書かれた側がいきなり訴訟を起すケースが増えている。しかも巨額の損害賠償を求めるケースが多く、言論活動封じ込め目的?との批判が起こる例すらある。

ヒットチャートで有名なオリコンは、ある雑誌記事により名誉を傷つけられたとして5000万円の損害賠償訴訟を起した。しかも記事の執筆者や編集責任者は訴えず、雑誌の取材先となったジャーナリストだけを訴えるという手段に出た。こうしたオリコン側のやり方に「口封じまがい?」との批判の声もあった。

1年5ヶ月に及ぶ審理の結果、東京地裁の一審判決はオリコン側の訴えを認め、ジャーナリスト個人に100万円の賠償を命じる内容となった。しかし一方で、判決に首をかしげる人も多かった。「裁判所は、口封じまがいの訴訟を、是認するつもりか・・」と。

米国では、言論封じ込めを目的とした訴訟は「SLAPP」と呼ばれ、訴えそのものが門前払いとなることが多い。言論の自由への悪影響を危惧してのことだ。しかし日本の司法界には「SLAPP」という概念そのものがない。審理が長期化すると、訴えられたジャーナリストは裁判対策に忙殺され、勝ち負け以前に疲弊して活動を封じられることすらある。

番組ではオリコン訴訟判決が生んだ様々な波紋について取り上げ、訴訟と言論のバランスをどう取るべきかを考える。

取材:秋山浩之
撮影:若泉光弘

2008年12月19日

そんなふぬけた姿勢ではブログ更新を刑事告発できないぞ!(笑)

 「議員連合」の皆さんは、本気で竹原信一氏を追いつめたいのか。本気でブログの更新を公職選挙法違反に問いたいのか。
 私には、そのような気迫が伝わってこない。
 次の文章で論じた。
 
  ● ブログ・ホームページも作っていない議員に「不公平だ」と言う資格があるのか
  ● 竹原信一市長は、ブログ更新が公職選挙法違反でない理由を既に述べているのだ  --刑事告発するなら、その理由を批判しなければならない

 
 「議員連合」の姿勢はふぬけている。
 この問題は、そんな姿勢で突破できるやわな問題ではない。
 だから、私は次のように予想している。 

 「議員連合」の皆さんは、刑事告発を実現できない。
 仮に、実現できたとしても、不起訴にされて諦めてしまう。
 
 「議員連合」の皆さんは、捜査当局を動かすのがどれほど大変かが分かっていない。
 メールマガジン『インターネット哲学』で私が発表した次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● なぜ、公職選挙法違反で逮捕してもらえないのでしょうか(苦笑)
 
 また、次の文章もお読みいただきたい。
 
  ● 確信犯的構造
   
 確認しよう。
 
 1 警察の警告を無視して、ホームページを更新し続けて当選した。しかし、刑事事件にしてもらえず。(門真市議・戸田ひさよし氏)
 2 〈特定候補をホームページで応援しよう〉という趣旨を呼びかけて、捜査2課の津田氏から「あなたのホームページは公職選挙法142条の違反である」とまで言っていただいた。しかし、刑事事件にしてもらえず。(門真市議・戸田ひさよし氏)
 3 〈選挙にインターネットを活用しても公職選挙法違反ではない〉という趣旨の文章でグーグルの検索結果1位になった論者が自分のブログで特定候補を応援した。しかし、刑事事件にしてもらえず。(私、笑)
 
 このように刑事告発を実現するのは大変なことなのである。(苦笑)
 「議員連合」の皆さんは、このような事実を知っていたか。知らなかったのであろう。インターネット上の選挙活動の現状を全く知らずに刑事告発ができるか。不勉強である。
 「議員連合」の皆さんは本気なのか。
 もし、「議員連合」の皆さんが本気ならば、まず、先に私が批判した点を直すべきである。防御力・攻撃力を高めるべきである。
 
 1 ブログ・ホームページを作る。
 2 竹原信一氏の論(私の論)を論破する。
 
 次に告発状を受理させなければならない。役人は、「いやがらせ」をしてくることがある。受理すると手間がかかる。だから、告発を諦めさせようとするのである。
 だから、専門家の知惠を借りよう。
 
 3 弁護士のアドバイスを受ける。
 
 仮に、告発が受理されたとしても、不起訴になる可能性が高い。
 不起訴になっても、不服申し立てをして徹底的に戦おう。
 ここまでする気迫があるのならば、「議員連合」の皆さんは本気である。「選挙でのインターネットの活用が公職選挙法違反かどうか」を裁判においてはっきりさせるためには本気の方が必要なのである。
 竹原信一氏自身も言っている。
 (ブログ更新が違法かどうか)本質的な議論ができるかもしれないので『(告発を)やってみればいいじゃない』という感じだ。
  http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagoshima/news/20081213-OYT8T00178.htm

 裁判で「本質的な議論」をするためには、本気で告発してくれる方が必要なのである。
 こう考えると、「議員連合」の皆さんは、物事をはっきりさせる同志であると言ってもいい。(笑)
 「議員連合」の皆さんに期待する。
 もちろん、竹原信一氏も皆さんに期待してる。
 「やってみればいいじゃない」と。(笑)
 
                  諸野脇@ネット哲学者
 

2008年12月18日

竹原信一市長は、ブログ更新が公職選挙法違反でない理由を既に述べているのだ --刑事告発するなら、その理由を批判しなければならない

 選挙期間中にブログを更新した阿久根市長・竹原信一氏が刑事告発されそうになっている。
 告発側の二牟礼正博県議は言う。 

 現行法を平然と破っていることは問題
  http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagoshima/news/20081213-OYT8T00178.htm
 
 二牟礼正博氏が「平然と」このように言うことが大きな「問題」である。
 竹原信一氏は「現行法」を「破っている」のか。ブログ更新は違法なのか。それ自体が争点なのである。それにもかかわらず、二牟礼正博氏は「現行法を平然と破っている」と言う。「破っている」ことを前提にしてしまっているのである。(注1)
 これは〈酔っぱらいのおっさん〉レベルの発言である。
 次のような喩えが分かり易いであろう。 
 裁判で、ある人物が殺人をおこなったかどうかが争われている。(例えば、三浦和義氏の裁判を考えてもらいたい。)
 その裁判の被告について、酒場で酔っぱらったおっさんが言う。
 「ああいう風に平然と人を殺すのは問題だよね。」
 
 あのねえ。(苦笑)
 今、検察・弁護双方が懸命に「殺人をおこなったかどうか」を争っているのである。しかし、〈酔っぱらいのおっさん〉は、そんなことは全て無視である。いきなり「殺人をおこなった」と決めつけてしまうのである。〈酔っぱらいのおっさん〉は恐ろしい。(笑)
 上の二牟礼正博氏の発言はこれと同様である。今、「現行法」を「破っている」かどうかを争っているのである。それなのに、どうして「破っている」と決めつけるのか。
 二牟礼正博氏は酔っぱらっているのか。そうではないだろう。だとすれば、〈酔っぱらいのおっさん〉よりもっと恐ろしい。(苦笑)

 仕方ない。
 二牟礼正博氏にも分かるよう状況を説明しよう。
 既に、竹原信一氏は私の文章を引用して、「現行法」を「破って」いないことを主張している。ブログの選挙活動への利用が禁止されていない理由を述べている。 

2008/08/19 (火) インターネット選挙について

選挙管理委員の指摘に対する見解

ホームページの公開は「文書図画」の「頒布」ではない。ホームページ
の公開は、いわば選挙事務所内の資料室の公開である。これだけ違うもの
を同じとみなすのは無理である。日本語の解釈として無理である。
 つまり、総務省には「禁止」する法的な権限はない。権限もないのに、
無理強いをしているのである。
http://www.irev.org/shakai/isenkyo2.htm

  http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=200808

 
 だから、「現行法」を「破っている」と言うならば、二牟礼正博氏が発言するべき番なのである。「破っている」理由を述べる責任は、二牟礼正博氏にあるのである。
 上の文章の主張のどこが間違っているのか。
 引用して、詳しく論ずるべきである。私の文章より長く、徹底的に論ずるべきである。
 しかし、二牟礼正博氏は、この主張に一言もふれずに、「現行法を平然と破っている」と言うだけであった。〈酔っぱらいのおっさん〉レベルの発言をしただけであった。
 「議員連合」の皆さんは、また、論戦の常道から外れている。 
 相手の主張を踏まえて自分の考えを述べよ。相手の主張を必ず引用せよ。
 そして、相手より具体的に論じよ。相手より長く論じよ。
 
 引用し、相手の主張を踏まえなくてはいけない。そして、相手よりも具体的に論じなくてはならない。相手より長い文章を書かなくてはならない。(注2)
 それなのに、「議員連合」の皆さんは、「現行法を平然と破っていることは問題」と一言述べただけであった。
 これでは、「議員連合」が本気かどうかを疑われても仕方ない。
 気迫が感じられないのである。
 
                   諸野脇@ネット哲学者
  

(注1)
 
 これは〈結論を先取りする虚偽〉である。
 まだ「現行法」を「破っている」と結論が決まった訳ではない。それ自体が争点なのである。しかし、「破っている」と決めつけて論を進めてしまっているのである。


(注2)

 相手の主張を引用して徹底的に批判するよい例はこの文章である。
 私は、二牟礼正博氏の主張を引用して、徹底的に批判した。
 二牟礼正博氏は「現行法を平然と破っていることは問題」と一言述べただけである。
 その一言をこれだけ長く批判したのである。

2008年12月17日

ブログ・ホームページも作っていない議員に「不公平だ」と言う資格があるのか

 阿久根市でオバマ大統領もびっくりの事態が起きている。
 選挙期間中にブログを更新した阿久根市長・竹原信一氏を刑事告発するというのだ。
 それでは、刑事告発しようとしている側の主張を見てみよう。
 二牟礼正博県議らは言う。 

 公選法は同じルールで戦うという選挙の手続きを定めた法律。捜査当局が摘発しなければ、選挙違反を公認したことになり、選挙の公平性は保たれなくなる。
  http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagoshima/news/20081213-OYT8T00178.htm

 これは、ある意味、筋の通った主張である。(注1)
 二牟礼正博県議らは「選挙期間中にブログ・ホームページが更新できずに悔しい思いをしたのだろう」と想像する。
 しかし、その想像は間違いであった。
 そうるふれんど氏は言う。 
各議員さんが、選挙期間だけはブログの更新を自粛していたというのなら、まだ話は分かる。
しかし調べてみたら、
今回の“議員連合”の皆様には、「もともと」ホームページもブログもないではあ~りませんか・・・。
  http://ossanndream.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

 ホームページもブログも無い?
 その状態では、どうがんばっても「更新」を「自粛」することは出来ない。ブログ・ホームページ自体が無いのだから。(苦笑)
 つまり、「議員連合」の皆さんは「自粛」した訳ではない。それでは、どのような被害を受けたのだろうか。「議員連合」の皆さんは当事者性に欠ける。これでは主張に説得力がなくなる。(注2)
 今からでも遅くない。
 「議員連合」の皆さんは、急いでブログ・ホームページを作ろう。そして、自分の政策をどんどん市民に伝えよう。
 その上で、次のように訴えるのである。 
 選挙期間中は、この活発なブログの更新を自粛する。その間にブログを更新する人がいると、その人だけが有利になる。このような現状は不公平である。私は被害者だ。
 
 これが強い論法である。
 「私は被害者だ」という形に持ち込むのである。 
 「私は被害者だ」という論法は強い。
 その形に持ち込むのが論戦の常道である。
 
 「議員連合」の行動は論戦の常道から外れている。だから、批判に弱い。
 「ブログ・ホームページも作っていない議員に『不公平だ』と言う資格があるのか」と批判される恐れがある。(注3)
 このような批判を受けないように、前もって守りを固めておく必要がある。論戦には、そのような生真面目さが必要である。
 「議員連合」の行動には、そのような生真面目さが無い。
 「議員連合」は本気なのか。
 本気でないならば、刑事告発をおこなうのは難しいであろう。
 
                   諸野脇@ネット哲学者


(注1)
 
 既に詳しく論じたように、選挙期間中のブログ更新は「法律違反」ではない。
 しかし、「法律違反」であると主張している捜査当局は「摘発」しなくてはならないであろう。
 この主張は、そのような原理論として正しい。
 
 
(注2)
 
 一番の当事者は、竹原信一氏に市長選で負けた対立候補である。対立候補が竹原信一氏を刑事告訴すればいいのである。なぜ、対立候補が刑事告訴しないのであろうか。
 

(注3)

 この批判だけで、「議員連合」が論戦に負ける訳ではないだろう。
 しかし、何らかの言い訳をしなくてはならなくなる。
 言い訳をしながらの主張は弱い。
 このような重大な問題に関わる時には、弱みは前もってなくしておくべきである。

2008年12月16日

ブログを更新して刑事告発される? オバマ大統領もびっくりだよ!

 驚くべきニュースが入ってきた。(注)
 選挙期間中もブログを更新した竹原信一氏を刑事告発しようとする動きがある。
 

ブログ問題県議、市議が連名で阿久根市長を告発へ

 8月の阿久根市長選で初当選した竹原信一市長(49)が市長選の告示後に自身のブログ(日記形式のホームページ)を更新した問題で、県議会会派・県民連合(代表・二牟礼正博県議)所属の7県議と同市議らが、竹原市長を公職選挙法違反(文書図画の頒布)の疑いで刑事告発する方針を固めた。

 告発は、民主党、社民党、無所属の県議でつくる県民連合所属の県議と、市議数人が連名で行うという。二牟礼県議らは「公選法は同じルールで戦うという選挙の手続きを定めた法律。捜査当局が摘発しなければ、選挙違反を公認したことになり、選挙の公平性は保たれなくなる」と指摘。「ネット利用に関して、改正すべき点もあるが、現行法を平然と破っていることは問題」と述べた。

 これに対して竹原市長は「総務省や市選管の見解が間違っているという考えに変わりはなく、ブログ更新が不公平とは思わない。(ブログ更新が違法かどうか)本質的な議論ができるかもしれないので『(告発を)やってみればいいじゃない』という感じだ」と話している。

 ……〔略〕……

 (『読売新聞』鹿児島地域版 2008年12月13日)
  http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagoshima/news/20081213-OYT8T00178.htm


 まず、次の事実を確認しておく。
 日本では、ブログを更新するだけで刑事告発される恐れがある。
 
 摩訶不思議な状態である。
 この事実が海外に報じられたと仮定しよう。外国人は、驚き、あきれるであろう。これは〈びっくり仰天おもしろニュース〉のジャンルである。(苦笑)
 しかも、「更新してはいけない」とされているのが政治家だと知ったら、彼らの驚きはさらに増すであろう。 
 ブログを更新しないで、どのように選挙活動をするのか。
 政治家がブログを更新してはいけないのはなぜか。
 
 当然の疑問である。
 日本の発想にとらわれているから、その異常さが分からないのである。諸外国から見れば、この状態は異常そのものである。オバマ氏はインターネットを活用して大統領に当選した。オバマ氏もびっくりであろう。
 刑事告発されたら、阿久根市長・竹原信一氏には、ぜひ外国人記者クラブで会見をおこなってもらいたい。
 日本が〈びっくり仰天おもしろ国家〉であることを世界に伝えよう。
 
 そして、総務省の担当者にも会見をおこなってもらおう。自分達の主張が、異質な他者を説得できるかを試してもらいたい。現在の総務省は内弁慶に過ぎない。立場が弱い者(候補者)に自分の主張を押しつけているだけである。そうではなく、外国人記者と戦えばいい。外国人記者の厳しい質問に耐えられるか、試してみればいい。
 
 日本では、政治家が選挙期間中にブログを更新すると刑事告発される。
 この事実をオバマ次期大統領に伝えたい。
 オバマ次期大統領は言うであろう。
 「チェンジ!」と。(笑)
 
                   諸野脇@ネット哲学者


〔追記 2008.12.17.〕

  オバマ氏は、インターネットを活用して大統領になった。 

インターネットの力が無かったら、オバマは大統領になれなかった―ハッフィントン女史はズバリこう語る。トリッピは、オバマのYouTube動画は全部で1450万時間分の視聴時間を集めている、と指摘。(トリッピ氏自身がネット選挙を仕掛けた)ハワード・ディーンの選挙活動を引き合いに出し、ネットはこれまでも選挙で使われてきたけども、オバマはオンライン動画からブログ、ソーシャルネットワーキング、選挙資金集めに至るまで、本当に選挙のあらゆる面でネットをテコにフル活用した、と評した。
  ● 「ネットが無かったらオバマ大統領はなかった」~政治勢力としてのインターネット

 これがアメリカの状態である。
 アメリカと日本を比べてみよう。「ネットをテコにフル活用」と「刑事告発」。
 少しめまいがする。(苦笑)
 総務省は自分が何をしているか分かっているのか。
 反省せよ。

 
(注)

 この〈びっくり仰天おもしろニュース〉は、ドラゴン氏からお教えいただいた。
 次の文章にコメントをいただいたのである。
 
  ● インターネット上での選挙活動は禁止されていない

 お礼申し上げる。
 

2008年12月15日

選挙期間中もブログを更新して、市長に当選!

 総務省は、選挙期間中のホームページ・ブログの更新を公職選挙法違反と解釈している。
 しかし、選挙期間中にブログを更新し続けて、市長に当選した方がいる。「選挙管理委員会の指摘」に反論して、ブログを更新し続けた方がいる。阿久根市長の竹原信一氏である。
 竹原信一氏のブログを見る。

2008/08/19 (火) インターネット選挙について

選挙管理委員の指摘に対する見解

ホームページの公開は「文書図画」の「頒布」ではない。ホームページ
の公開は、いわば選挙事務所内の資料室の公開である。これだけ違うもの
を同じとみなすのは無理である。日本語の解釈として無理である。
 つまり、総務省には「禁止」する法的な権限はない。権限もないのに、
無理強いをしているのである。
http://www.irev.org/shakai/isenkyo2.htm

  http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20080819

 私の主張が引用されている。(笑)
 これは「確信犯」だ。
 つまり、竹原信一氏は、総務省の解釈が間違っているという信念を持っていた。ブログの更新は、「文書図画」の「頒布」ではないという信念を持っていたのである。
 竹原信一氏は自分で法律を解釈した。そして、市長に当選した。
 素晴らしいことである。
 
                    諸野脇@ネット哲学者


〔補〕

 最終的には、竹原信一氏はブログの記事を削除した。いろいろあったのである。
 詳しくは、門真市議・戸田ひさよし氏の次の文章をご覧いただきたい。

  ● ついにネットの選挙使用候補者が市長に当選!8/31鹿児島県阿久根市長選・竹原さん祝!

2008年12月06日

ニュースサイトは記事を削除するな

 私は、次の文章でニュースサイトを批判した。
 
  ● リンクを張らないニュースサイトは役に立たない 
         --東方神起「呪文」は「扇情的」か
         
 〈「呪文」の歌詞にリンクを張らなければ「扇情的」かどうか判断できない〉という趣旨の批判をした。ニュースサイトに対して、外部のサイトにリンクを張るように要求したのである。
 しかし、これは高すぎる要求だったかもしれない。
 現状では、ニュースサイトはもっと程度が低いのである。 

 ニュースサイトは記事を削除してしまう。

 ニュースサイトは公開した記事を削除してしまうのである。しばらくすると、一度公開した記事を削除してしまうのである。これは大きな問題である。
 公開された記事には多くのリンクが張られる。ブログなどからリンクが張られる。リンクを張って、その問題を論ずる文章が書かれる。しかし、記事が削除されたら、せっかく書いた文章が分かりにくくなってしまう。ひどい場合には、ブログに書いた文章が意味不明になってしまう。
 これでは、ニュースサイトにはリンクを張っても無駄である。
 先の文章で私は次のようなニュースサイトリンクを張った。

  http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20081204dde041200069000c.html
  http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008120400416
  http://www.47news.jp/CN/200812/CN2008120401000421.html
  http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20081204-OYT1T00060.htm?from=navr
  http://www.recordchina.co.jp/group/g26384.html
  http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=108216&servcode=700§code=720
  http://www.chosunonline.com/article/20081203000036

 これらの記事は、時間が経つと削除されてしまうであろう。リンクが無駄になってしまうだろう。(注1)
 インターネット社会はリンクで出来ている。リンクで情報を共有化している。記事を削除するニュースサイトは、情報の共有化を妨害しているのである。これでは、ニュースサイトは〈社会の公器〉とは言えない。(注2)
 一度インターネット上に公開した文章は公的なものになる。リンクが張られ、社会全体の共有物になる。だから、私的に削除する訳にはいかない。
 これがインターネットの大原則である。 

 一度インターネット上に公開した文章は削除しない。

 彼らは、この大原則を守るべきである。
 それが〈社会の公器〉たる者の義務である。
 
                    諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 しばらくしてから、このリンクをクリックしてもらいたい。
 たぶん、全ての記事が削除されているであろう。
 もし、削除されていないサイトがあれば、そのサイトこそ〈社会の公器〉である。
 
 
(注2)

 新聞倫理綱領を見る。 

 国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。
  
 記事を削除しては、「知る権利」を保障できない。 
 公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。
  
 記事を削除することは、「いつでも、どこでも、だれもが、等しく読める」状態の破壊である。せっかくインターネット上でに公開され「いつでも、どこでも、だれもが、等しく読める」状態であった記事を削除しているのである。
 ニュースサイトの行為は「新聞倫理綱領」に反する。ニュースサイトを運営する新聞各社に改善を求める。

2008年12月05日

リンクを張らないニュースサイトは役に立たない --東方神起「呪文」は「扇情的」か

 東方神起の「呪文-MIROTIC-」が韓国で有害指定された。
 歌詞が「扇情的」だというのである。

東方神起のヒット曲「呪文」を有害指定 「歌詞が扇情的」
 
 【ソウル西脇真一】韓国保健福祉家族省は4日、日本でも人気の韓国の若手男性グループ「東方神起(とうほうしんき)」のヒット曲「呪文-MIROTIC-」について、「歌詞が扇情的で、子どもが歌うには不適切」として有害指定し、19歳未満への販売禁止措置を取った。同省は歌詞の特定部分でなく、全体が問題だとしている。東方神起は大みそかの第59回NHK紅白歌合戦への初出場が決定。この曲は日本でも10月15日に日本語版が発売されている。

 同省によると、販売禁止のほか、平日の午後1~10時と、週末の午前10時~午後10時の間、テレビ・ラジオでの放送ができなくなる。
 http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20081204dde041200069000c.html


 この毎日jpの記事を読むと疑問が浮かぶ。
 「呪文」の歌詞はどのようなものなのか。それは、本当に「扇情的」なのか。
 なぜ、毎日jpは「呪文」の歌詞を示さないのだろうか。
 ヤフーを見てみる。
 
   http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/south_korea_entertainment/?1228365770

 きちんと「呪文」の歌詞にリンクが張ってある。
 引用しよう。
 

 変わってく 溺れてく 君はもう 抜け出せない
 I got you- Under my skin
 壊れてく 溺れてく 君はもう 僕のもの
 I got you- Under my skin
  ● 歌ネット
   http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=71756

 これは「扇情的」か。取り立てて「扇情的」ではない。(注1)
 分かる人は分かり、分からない人は分からない歌詞である。遠回しな歌詞なのである。
 これを聞いて、性的に興奮させられたとすれば、その人はどうかしている。よほどうぶな人なのであろう。日本には、もっとすごい歌詞がたくさんある。(笑)
 
 ヤフーのおかげで「呪文」の歌詞が分かった。「扇情的」かどうかの判断が出来た。
 それにしても、なぜ、毎日jpは歌詞にリンクを張らなかったのか。(注2)
 リンクを張っていなければ、読者は判断ができない。「扇情的」かどうかの判断が出来ない。
 毎日jpは新聞社が運営するニュースサイトである。オールドメディアである。感覚が古いのである。
 それに対して、ヤフーはニューメディアである。感覚が新しいのである。 
 オールドメディアはリンクを張らない。
 ニューメディアはリンクを張る。
 
 オールドメディアは、〈読者は自分で判断を下すものである〉という発想がない。その自主的な判断をサポートする姿勢がない。〈メディアが下した判断を読者が受けとる〉という発想である。
 それに対して、ニューメディアには〈読者は自分で判断を下すものである〉という発想がある。リンクを張り、読者の自主的な判断をサポートする姿勢がある。
 リンクに対する姿勢は、メディアの性質を判断する基準になる。 
 リンクを張っているならば、そのメディアは新しい。
 リンクを張っていないならば、そのメディアは古い。
 
 そのメディアは新しいだろうか。それとも古いだろうか。
 リンクの扱いを見れば、それが分かる。
 
                     諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 日本語バージョンの歌詞と韓国語バージョンの歌詞が違っているようである。
 韓国語バージョンは次の通りである。 

 お前は俺を望んで お前は俺に溺れ お前は俺に狂い 抜け出すことができない
 I got you Under my skin
 お前は俺を望んで お前は俺に溺れ お前は俺に狂い お前は俺の奴隷
 I got you Under my skin
  ● 韓国音楽歌詞サイト
   http://luvrabi.blog113.fc2.com/blog-entry-338.html
 
 どちらにしろ遠回しである。たいして「扇情的」ではない。(笑)
 ヤフーは、こちらにリンクを張った方がよかった。問題になっているのは韓国語バージョンの歌詞なのである。
 もしかしたら、韓国語バージョンの歌詞にリンクを張ったメジャーなサイトはないかもしれない。
 私が初リンク?(苦笑)
 恐ろしいことである。
 

(注2)

 もしかしたら、「リンクには許可が必要」とか「リンクは人のコンテンツを盗む行為」とか間違ったことを考えているのかもしれない。
 そういう方にお勧めの文章がある。
 
  ● リンクに許可は不要である
   http://shonowaki.com/2008/12/post_53.html

 ぜひ、この文章を読んで、考えを根本から変えてもらいたい。


【リンク集】

 意地で、この問題についてのリンク集を作ってみた。(笑)
 
 歌詞

  http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=71756
  http://luvrabi.blog113.fc2.com/blog-entry-338.html
 
 ニュース
 
  http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20081204dde041200069000c.html
  http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/south_korea_entertainment/?1228365770
  http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008120400416
  http://www.47news.jp/CN/200812/CN2008120401000421.html
  http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20081204-OYT1T00060.htm?from=navr
  
  http://www.recordchina.co.jp/group/g26384.html
  http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=108216&servcode=700§code=720
  http://www.chosunonline.com/article/20081203000036

  http://news.google.co.jp/nwshp?gl=jp&ncl=1257654342&hl=ja&topic=e

2008年12月03日

リンクに許可は不要である

 「リンクに許可・許諾が必要である」という間違った考えがある。
 その間違った考えを次の文章で批判した。(以前メールマガジン『インターネット哲学』で発表した文章をホームページにアップしたものである。)

  ● リンクに許可は必要か
 
 「リンクに許可・許諾が必要」になれば、インターネット上のリンクの総数が減る。リンクはインターネットの中核である。〈リンク許可制〉は、その中核であるリンクを減らす。つまり、インターネット社会の発展を阻害する。
 インターネット社会のグランドデザインを考える上で重要な文章である。
 ぜひ、お読みいただきたい。
 以下、この文章の主要な主張をまとめておく。 

 1 ホームページは多くの人に読んでもらうために公開するものである。公開する行為自体から、リンクに同意していると判断できる。だから、無断でリンクを張ればよい。
 2 許可を得るのには労力がいる。リンクを張る方、張られる方の両方に負担がかかる。〈リンク許可制〉になった場合、インターネット社会全体で無駄な労力を使うことになる。
 3 そのような負担がかかるならば、「リンクは張りたくない」と思うのが人情である。許可を得ることがマナーになったら、リンクの数が減る。インターネットの中核はリンクである。つまり、〈リンク許可制〉はインターネット社会の発展を阻害する。だから、インターネット社会のグランドデザインとして〈リンク許可制〉は不適切である。
 4 「リンク禁止」と表示しているホームページもある。このような場合、私は「アホか。」と思う。ホームページを見てもらいたいのか。見てもらいたくないのか。どちらなのか。奇妙な行為である。
 5 「リンク禁止」は確かに奇妙な行為である。しかし、それが本人の〈意向〉ならば、尊重するという大人の対応もあり得る。
 6 しかし、それはあくまで〈意向〉を尊重してもらったに過ぎない。リンクを禁止する〈権利〉がある訳ではない。〈意向〉と〈権利〉とを区別しよう。
 7 〈意向〉を尊重できない場合がある。悪徳商法のホームページにリンクを張り、その悪さを指摘する場合などである。
 8 だから、リンクするかどうかは自分で決めてよい。ほとんどの場合、「リンク禁止」は「アホらしい」ものである。だから、「無視して、どんどんリンクを張ろう。」と思っても大きな問題はない。

 詳しくは上の文章をお読みいただきたい。
 とてつもなく詳しく書いてある。(笑)
 
 念のため書く。
 上の文章は、西原理恵子氏にケンカを売る文章ではない。(苦笑)
 よく読むと、分かっていただけるはずである。

                     諸野脇@ネット哲学者

2008年11月18日

【オリコン訴訟 判決批判3】綿引穣裁判長は、殺人と殺人幇助との区別もつかないのか

 名誉毀損訴訟において、出版社を訴えず個人だけを訴えるのは、ほとんど前例が無い異常な行為である。
 東京地裁・綿引穣判決は、オリコンのこの異常な行為を容認した。「全ての不法行為責任者に対して訴訟を提起する義務」は無い、としたのである。
 しかし、この論は間違っている。次のような喩えを考えてもらいたい。

 殺人事件が起こった。
 実行犯と実行犯に拳銃を渡した者の二人が逮捕された。
 しかし、なぜか、実行犯は訴えられない。拳銃を渡した者だけが訴えられる。
 「全ての不法行為責任者に対して訴訟を提起する義務」は無いからである。

 実行犯を訴えない訴訟はどう考えても不合理である。
 コメント(拳銃)だけでは名誉毀損は成立しない。出版(拳銃を発射する行為)があって初めて名誉毀損は成立するのである。(注1)
 それでは、綿引穣裁判長は、コメントした個人と出版社との関係をどのように考えているのか。綿引裁判長は、判決で次のような趣旨を述べている。(注2) 
 雑誌の取材に答えた内容が雑誌に載っても、原則としてコメントした人には責任は無い。雑誌は、いろいろ取材して情報を取捨選択して記事を作るからである。
 しかし、そのままの形で雑誌に載ることが分かっていてコメントした場合は別である。その場合は、例外的に名誉毀損の責任がある。
 
 この論は一見もっともに思える。
 しかし、やはり間違っている。虚偽の論法なのである。
 上の比喩にこの論を当てはめてみよう。 
 一般に、拳銃を人に渡したとしても、殺人に使われることまでは予測できない。この場合は、渡した者は殺人の責任は負わなくてよい。
 しかし、殺人に使われると知りながら拳銃を渡した場合は別である。その場合は殺人の責任を負う。殺人罪で起訴されてもしかたない。
 
 ちょっと待った!
 それは、殺人の幇助でしょ?
 なぜ、殺人罪で起訴していいの?
 綿引穣裁判長は、殺人と殺人幇助の区別がつかないらしい。
 恐ろしいことである。
 
 名誉毀損の場合も、これと同様である。仮に、そのような形でコメントしたとしても、それは名誉毀損の幇助に過ぎない。
 名誉毀損に関係があるからといって、コメントした個人だけを取り出して名誉毀損で訴えてよいことにはならない。
 
 やはり、最初の比喩が生きている。
 拳銃を渡した者だけを殺人罪で訴えるのは不当である。
 同様に、コメントした個人だけを名誉毀損で訴えるのは不当なのである。
 
                      諸野脇@ネット哲学者


(注1)

 詳しくは、次の文章をお読みいただきたい。
 
  ● 東京地裁・綿引穣裁判長のSLAPP(恫喝訴訟)容認論の虚偽

 

(注2)

 実は、この部分が綿引穣判決の肝らしい。(苦笑)
 原文は次の通りである。 

 しかし、出版社からの取材に応じた者が、自己のコメント内容がそのままの形で記事として掲載される可能性が高いことを予測しこれを容認しながらあえて当該出版社に対してコメントを提供した場合は、その者が出版社からの取材に応じたことと、そのコメント内容がそのままの形で記事として掲載されそれにより他人の社会的評価を低下させたこととの間には、例外的に、相当因果関係があるものと解するのが相当である。〔東京地裁判決、29ページ〕

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